54.226.41.91 契約の構造

 

契約の構造

 

 世界には様々な思考の枠組みがあります。

 「世界は、現象の領域と物自体の領域があり、人間は現象の領域しか認識できない。物自体の領域のことは人間にとって役立つことである限り考えるに値する。」という枠組みは、現代人を支配している枠組みの一つです。

 

 さて、近代の大部分のキリスト教は、枠組みをノンクリスチャンから借りてきたため、まず認識の出発点が、人間に置かれています。「万物の尺度は人間である。」というヒューマニズムの前提をそのまま受け入れているのです。それゆえ、「神は存在するかしないか不明である」という「不可知論」が当然のこととして受け入れられています。もちろん、教会においてそのようなことを口にする牧師や信徒はいないでしょうが、しかし、学校において彼らが学ぶ自然科学や人文科学の前提は、このような「不可知論」にあるのです。このような不可知論を土台として築かれている科学をそのまま鵜呑みにするならば、いくら教会においては「神様は存在します。」と告白していても、実際のところで「神様は存在するかしないかわかりません。」と告白することになり、矛盾したことを行うことになります。

 もし、神に対して誠実に生きることを望むのであれば、あらゆる領域について、「神は存在する。」という前提でものを考えていく必要があります。

 さて、ノンクリスチャンの思考枠は、「人間は万物の尺度である」が基本となって成立していますが、クリスチャンの思考枠は、「神は万物の尺度である」を前提として成立します。

 神が世界を無から創造されたわけですから、万物は神によって意味を与えられています。神が定義されたのと異なる意味は、「勝手な意味」であり、正当な意味ではありません。

 神は、「万物は、神と人間との間において結ばれた契約に基づいて評価されねばならない」と教えておられます。神は、アダムに対して「地を従えよ。」と言われました。被造世界は、アダムが神の意志を実現するために創造されたものであると定義されているのです。

 それゆえ、あらゆる事柄には、「契約的」という形容詞が必ずつきます。

 目の前にあるコンピュータは、「契約的コンピュータ」です。

 クリスチャンが、チューリップを見たら、「契約的チューリップ」を見ているのです。

 万物は、神と人間との間において結ばれた「支配の契約」の文脈において評価されるわけですから、「契約的」ではないものは一つもないのです。

 ノンクリスチャンは、万物は創造されたものであると考えていないので、チューリップは「ただのチューリップ」です。チューリップが人間の目に美しく感じるのは、たまたまそうであるからであって、神が人間を楽しませるために美しく装われたからというわけではありません。

 クリスチャンにとって、目の前に広がる世界は、すべて「契約的世界」です。

 それゆえ、あらゆる事柄は、「契約的に」解釈しなければならず、契約の枠組みにしたがって解釈しなければなりません。

 さて、契約の構造は、次の5つの条件から成り立ちます。

 (1)超越と内在 (主権者の宣言)

 (2)上下関係 (統治のシステム)

 (3)規範 (守るべき掟)

 (4)制裁 (掟に伴なう賞罰)

 (5)相続 (支配の継続)

 クリスチャンが学問をするならば、この枠組みに従った学問を構築しなければなりません。

 「神は存在するかしないか不明である」という現代の科学の立場は、第一条件「超越と内在」を無視しています。聖書契約は、「神は存在する」という宣言から出発します。それゆえ、現代の科学の枠組みをそのまま受け入れることは、偶像崇拝になるのです。

 現代の科学の前提を受け入れることは、偶像と契約を結ぶことに等しいのです。

 異なる契約の枠組みを適用することは、神に対する反逆であり、神のほかに主権者が存在することを認めていることになるのです。

 クリスチャンにとって学問とは、神が我々に与えてくださった被造世界をよりよく知り、それをより正しく効率的に管理し、その潜在能力を開花させるために存在するものです。「契約的学問」以外クリスチャンは受け入れてはならないのです。

 真のクリスチャンの伝道とは、「契約的伝道」です。

 ただ単に天国行きのキップを渡すことではありません。神が与えてくださった被造世界を管理する人を生み出すことが真の伝道なのです。それゆえ、キリストは、福音伝授だけではなく、「弟子作り」を命じられたのです(マタイ28・20)。「わたしを信じて永遠のいのちを受けなさい。」と言うだけではなく、「わたしが命じたすべてのことを守るように彼らに教えなさい。」と言われたのです。

 我々が何をなすにしても、「契約的に」行わねば、それは、的外れになります。

 ただひたすら携挙されることを待ち望む信仰とは、真の意味において信仰ではありません。真の信仰とは、神の支配の契約を実行するために、世界に対して能動的に働きかける信仰なのです。