キリスト教再建運動のルーツ



リスクのない生活



R・J・ラッシュドゥーニー


  第二次大戦後まもなくの頃、小学校の児童に野球をさせてはならないと主張する人々がいました。この進歩主義の女性闘士たちは次のように言いました。「野球はあまりにも競争的で、個人主義的なスポーツです。バットを振る、フライをキャッチする、これらは大変集中力を必要とし、子供たちを孤立させ、耐えられないほどの責任を負わせます。このようなスポーツは子供たちの心に傷を残しかねません。」彼女らは、試合に負けることも悪であると言います。敗北によって傷つく子供たちも中にはいるかもしれない、というのです。

  しかし彼女らは、敗北の可能性のない所には勝利の可能性もないということを忘れていました。また、団体スポーツでは、競争が激しくなればなるほど、チームワークが必要になるということも、理解しませんでした。

  たしかに、敗北によって傷つく子供もいるかもしれません。しかし、本当に恐ろしいのは、敗北することであるよりもむしろ、勝利の可能性を奪うことです。たしかに、敗北によって臆病者の心は傷つくかもしれません。しかし、なぜリスクを排除することによって臆病者の味方をするのでしょうか。リスクのない人生は勝利のない人生であり、敗北に甘んずる人生です。このような人生観の方が人と社会に害を与えるのです。

  リスク回避の願望は、私たちの回りに満ちています。それは世界の政治を支配しています。そこからマルクス主義の世界が生まれたのです。マルクス主義の世界では、ある特定の人々のリスクを回避するために、すべての人の利益が犠牲になるのです。失敗しないことを保証する経済は、成功しないことをも保証する経済なのです。

  今日、あまりにも多くの人々は、成功の保証がない企画に手を出そうとしません。彼らはリスクのあることに乗り出そうとしません。その結果、彼らは偽りの成功しか得ることができないのです。インサイダー取引、人為的に引き上げられた株価…。これらの不正行為は、リスクを冒さずに成功するための手段なのです。 リスクのない生活はまったくの神話であり幻想です。自由は常にリスクを伴うのです。自由のためのリスクを回避するならば、奴隷状態と敗北しか残りません。いや、そこにもリスクは残ります!自由のためのリスクを回避しても、その代わりに専制というリスクがやって来るのです。強制収容所の存在は、ソ連において高いリスクが存在することの証拠です。例えば、ソ連の軍諜報機関GRUでは、諜報活動を確実なものにするために、高いリスクを設定します。つまり、GRUに加わる者は、まず初めに次のような警告を受けます。「もしどんなささいなことでも、命令に背く者は焼き殺される」と(Viktor Suvorov: Inside the Aquarium, pp.2f. 93, 162, 190, 233, 237, 239f. New York, NY: Macmillan, 1986)。ソ連における「リスクのない」生活のあらゆる面を調べてわかることは、「奴隷のリスクは、自由のリスクよりもはるかに代償が大きい」ということです。

  西側世界全体において、「自由のためのリスク」はまったく人気がありません。これは悲しむべきことです。資本家も労働組合も、独占や国家補助金を尊重しています。彼らはリスクを恐れているのです。合衆国のどの州でも、共和党や民主党は政治的な戦略と敗北のリスクを回避するために、自党に有利なように選挙区を改正しています。

  権力者は、あらゆる面においてリスクを非常に恐れます。なぜならば、リスクを冒すことは政権を失うことにつながるかもしれないからです。体制は、リスクを減らすためにその持てる権力を最大限に利用します。体制を維持する側の人々は、「権力の行使は、権力維持のための必要な手段である」と考えているのです。それゆえ、権力に飢え渇いている部外者たちは革命という手段に訴えるのです!

  筆者は、小学生の時に初めてシェークスピアの『ジュリアス・シーザー』を読み、台詞の多くを暗記しました。その中でも忘れることができない一節があります。それは次のシーザーの言葉です。

 肥えた者たちを私の回りに集めよ。
 髪をきちんとなでつけ、夜になれば寝るような者たちを。
 あそこにいるカシウスは見るからに痩せていて飢えている。
 彼は多くのことを考え過ぎている。このような男たちこそ危険なのだ。

  権力の外にいて権力を求める者たちは、権力欲に身をやつします。
失うものが多い人ほどリスクを犯したがらず、冒険することを避けます。コンピューターを生み出すという、大胆で進取の気性に富むクリエイティブな仕事を成し遂げたのは、若手のアウトサイダーたちでした。戦後の勇気ある先進的な事業のほとんどは、新進の人々の手によって実現しました。大企業は、業績が停滞すると、新しい人々を雇い入れることによって「利益」を出してきました。銀行は大企業に融資したがります。なぜならば、銀行はすでに出来上がった組織に投資するからです。つまり、銀行は過去に投資するのです。

  今日、合衆国や他の国々において、主要な政治勢力を構成しているのは、すでに成功をおさめた有力者たちです。これらの人々は、失うことを最も恐れ、冒険することを最も避けたがる人々です。合衆国が自由な体制であると仮に認めるならば、民主党の最大の富がその要職者に握られているとしても驚くに値しません。権力の怒りを買ってでもあることを実行しようとする果敢な人は、富裕な階級の中にほとんど見出されません。

  権力は常に最強の者の支持を集めます。しかし、共和党員もこれと何ら異なるところがありません。権力は常に権力を味方に付けるのです。彼らはけっしてリスクを冒しません。ファンダメンタリストたちも同じです。国を自分たちの主義の方に動かそうとして、彼らはまず有力者たちを味方に付けようとします。しかし、これによって逆に彼らは無能になるのです。なぜならば、彼らが提携し、同盟を結んだ人々は、失うものが多すぎて大胆に行動できない人々だからです。その結果、彼らは何一つ成し遂げることができません。そのような集団が国政に与えるインパクトは、編み物の婦人サークルが与えるそれとほとんど変わりがないのです。

  近年、影響力のある主要な政治的・社会的活動がどれも学生運動から始まっていることはけっして偶然の一致ではありません。これらの学生のグループは、ときに混沌としており、まとまりに欠け、きわめて愚かですが、全体的に見て、彼らの影響力は強大です。彼らは失うものがほとんどないので、大胆になることができるのです。彼らは自分たちが信奉する主義主張を大変重要なものと考えたので、それによって被る犠牲をものともしなかったのです。合衆国において、「ドールの反逆」や「ウィスキーの反逆」から現在に至るまで、リスクを冒す人々に共通する特徴は、愚かさと、敗北を招く才能でした。その一方で、確立した権力者の集団は例外なく悲惨な最後を迎えました。なぜならば、彼らの全精力は権力の維持にのみ傾けられ、調和のとれた社会の形成に傾けられなかったからです。

  カシウスのような、ねたみと憎しみと敵意に満ちた人間は、たしかに革命を通じて憎むべき黒幕を打倒しますが、政権を取ると自分自身がさらに悪い権力者になってしまうのです。彼らはリスクを冒しますが、それはただ悪い目的のためです。

  それゆえ、リスクのない世界がどのような世界であるのか、私たちは十分に知る必要があります。リスクを回避することはできません。人は、自由のリスクか、それとも専制のリスクか、どちらかに直面せざるを得ないのです。リスクは人間や社会を越えた世界の現実です。私たちはリスクに満ちた世界に生まれてきます。つまり、私たちは生まれた時から死の危険にさらされているのです。人間は想像によってリスクのない世界を作ることができますが、この世界から死のリスクを除き去ることはできません。

  そればかりか、この世には道徳的リスクという現実も存在します。創造の初めから、人間は道徳的リスクと死と直面しました。彼が禁断の木の実を取って食べる時、この危険と直面しなければならなかったのです(創世二・十七)。リスクはパラダイスの秩序に初めから組み込まれていました。そして、この堕落した世界においては、このようなリスクは極めて大きな部分を占めているのです。

  リスクのない世界を夢見ることは、地獄のない被造世界を想像することに等しいのです。それは、被造世界において道徳的な対照物を一切否定することにつながります。もし宇宙にいかなる善もいかなる悪も存在しなければ、天国も地獄も存在しないことになります。それは、必然的に正義の現実性をも否定することになるのです。「善は勝ち、悪は滅びる」というテーマは神と被造世界の存在そのものにとって中心的な事実です。
  正義はこのことの上に成り立っているのです。若い頃から、筆者の心にある御言葉が鳴り響いています。それは、士師記五章二十節のデボラの歌の一節でした。「天からは星が下って戦った。その軌道を離れてシセラと戦った」。正義は被造物のあらゆる部分に、そのすべての原子に書き記されているのです。それゆえ、私たちは正義から逃れることはできません。地獄を否定することは正義を否定することです。何年か前にエモリー・ストーが述べたように、「宗教から地獄が失くなれば、政治から正義が失われる」のです。さらに、次のようにつけ加えることができるでしょう。現実に存在する一定の場所としての地獄が否定されるならば、世界は不義と悪に満ち、その結果地獄が出現する、と。

  地獄を否定することは、「人生には道徳的リスクがあってはならない」と主張することに等しいのです。教会が無律法主義になると、すぐに地獄の教理を軽視するようになります。なぜならば、地獄の教理は、神の律法と正義の権威を強調するからです。地獄を否定することは道徳性と正義の現実を否定することであり、宇宙相対主義を主張することに等しいのです。地獄の存在によって私たちは、「宇宙は正義によって支配されている」という事実を確信することができるのです。

  更に、もし、私たちが人生や社会からリスクを排除し、永遠の世界から地獄を排除しようとするならば、安息日の休息や天国をも排除することになります。安息日の休息は、救いを離れては何の意味もありません。安息日は契約的事実であり、救いを祝うお祝いです(それゆえ、過越は旧約聖書の週ごとの休息となり、復活は新約聖書の週ごとの休息になりました)。救いがなければ、休みもありません。「『悪者には休みがない』と私の神は言われる」(イザヤ五七・二一)。

  パウロは、自分の働きにはリスクがない、とは言いませんでした。事実、彼は自分が福音を伝えることによって被った様々な危険や刑罰(投獄、むち打ち、石打ち、難船、その他諸々)を列挙することができました。パウロが言いたかったのは、「神の律法と正義が全被造物を支配しているので、道徳的リスクには確かな報いが存在する」ということでした。

  現代のような子供中心の、無リスク文化が栄え始めたのは、第二次世界大戦が終わったあたりからです。今日の新聞は十歳未満の子どもたちによる犯罪が増加していると報じていました。ある警官は、こういった子どもたちの非行や、街角で覚えた俗悪な知識には驚かされる、と述べました。このようなことに私たちは驚かされてはなりません。心に傷が残らないように、訓戒もされずに育った子どもは、正義は存在しないことを身を持って体験してきたのです。次の御言葉は今も真理です。「鞭を控える者はその子を憎んでいる。子を愛する者は努めてこれを懲らしめる」(箴言一三・二四)。もし私たちが子どもたちを懲らしめなければ、私たちは彼らに「正義など存在しない」と教えていることになるのです。

  「リスクのない生活」という夢は邪悪な夢です。なぜならば、そのような夢は本質的に因果律を否定しているからです。それは、原因と結果に関係はないことを主張することであり、「罪の支払う値は死」(ローマ六・二三)であることを否定しているのです。

  さらに、それは正義をも否定してます。なぜならば、「人生において道徳的裁きと危機を避けることは不可能である」という事実を否定しているからです。

  「リスクのない生活」という夢は、ポルノグラフィーの空想と密接に関係しています。ポルノは人に、空想的な世界を提供します。それは、道徳的結果が完全に欠落している世界であり、すべてのことが個人の欲望を軸に回っている世界です。現実的な人の内面には、このようなポルノの世界は存在しません。邪悪な空想が暴れ回り、己に合わせて万物の秩序が作り直されています。邪悪な空想を際限なく満足させるために、リスクはポルノから排除されています。

  リスクのない世界は、人間の邪悪な空想の中にしか存在しません。それには、実体も現実もありません。それは現実の世界には存在し得ないのです。リスクのない世界を夢見る者は遅かれ早かれ敗北者となるのです。

R.J.Rushdoony: The Roots of Reconstruction(Vallecito: Ross House Book, 1991), pp.366-370.の翻訳。





This article was translated by the permission of CHALCEDON.

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