「初代教会はクリスマスを祝っていなかったし、それについていかなる知識も持ち合わせていなかった。」学者たちがこのように発言するのを私たちはきわめて頻繁に耳にします。クリスマスが最初に祝われたのは、おそらく数世紀後のことであろう、と彼らは言います。しかし、もしこの言葉が真実であるならば、どうして最初に祝われたクリスマスがかくも発達した形態を取っていたのでしょうか。最初のクリスマスの祝賀に関する記録は、それがすでに十分に確立された習慣であることを示しているのです。
聖書や数多くの賛美歌が、クリスマスについて証言しています。もしクリスマスに関するこのような証言に耳を傾けないならば、私たちはそれを正しく理解することはできません。クリスマスは、王の王、主の主の誕生を祝う記念日です(第2テモテ6・15)。古代において、王の誕生日は、最も重要な祝日であり、国民はこぞってその日を祝わなければなりませんでした。他の王の誕生日を祝うことは反逆であり、それゆえ、クリスチャンは何世紀もの間、公然と彼らの王の誕生を祝うことができなかったのです。
私たちが置かれている状況はこれと似ています。復活の日は異教の祭日に変わり、クリスマスも同じように変わりつつあります。私たちは、実質的に「カエサルの他に王はいません。」(ヨハネ19・15)と叫んでいる世代に生きているのです。
私たちの王の誕生日を祝うことは、すなわち、「キリストは、思想と生活におけるあらゆる領域の王であり主である。」と主張することなのです。クリスマスキャロルや賛美歌は、偉大なる平和の君としてのキリストが勝利を得られたこと、そして、宇宙の支配者となったことを歌っているのです。クリスマスの喜びは、本質的に、「キリストが王である。」という知識に基づいています。東方の博士たちは、主の誕生が重要な出来事であることに気づいていました。彼らはやってきて、次のように尋ねました。「ユダヤ人の王として生まれたお方はどこにいらっしゃいますか。」(マタイ2・2)と。マリアは、自分を通して偉大なる王であり改革者が来られることを賛美しました(ルカ1・46−55)。歴史全体が、新しい方向に向かい、新しい力を得ようとしていたのです。生まれ出た王は、最後のアダムであり、「天から下られた主」、新しい人類の頭でした。新しい人類は、最初のアダムにつく旧人類に取って代わろうとしていました(第1コリント15・45−49)。その到来によって、王は歴史に新たな方向性を与えます。その究極の目的は、完全なる勝利です。
私たちが今日苦難に陥っているのは、王を忘れ、勝利を求めず、非再生者たちが自分たちを支配することを許しているからです。
私たちは、父祖の信仰から離れ、彼らが抱いていた勝利への確信を投げ捨ててしまいました。キリストにあって、私たちは「神と、御父に対して、王であり、祭司」(黙示1・6)であるはずなのですが、実際は、テレビの虫になり(毎日の平均視聴時間は4時間)、聖書を読んだり祈ることにほとんど時間を割いていないのです。私たちは、不戦勝で負けているのです。
今や、クリスマスを、勝利の約束として祝う時がやってきました。キリストが獲得された勝利を、私たちの生活や時間や、回りの世界に適用する時が来たのです。
The Birth of the King, Chalcedon Report, No.377, December 1996, p.2.
This article was translated by the permission of Chalcedon.