祝福と文化の発展
敬虔主義の影響により、教会は、「キリスト教が扱うことができるのは、もっぱら霊的な事柄だけである。」としてきた。聖書に含まれる多くの基本的な教えが無視され、煩わしいものとして退けられてきた。この好例は、ヨシュア記 15 章 16-19 節である。
そのとき、カレブは言った。「キルヤテ・セフェルを打って、これを取る者には、私の娘アクサを妻として与えよう。」ケナズの子で、カレブの兄弟オテニエルがそれを取ったので、カレブは娘アクサを、彼に妻として与えた。彼女が嫁ぐとき、彼女はオテニエルをうながして、畑を父に求めるように頼んだ。彼女がろばから降りたので、カレブは彼女に、「何がほしいのか。」と尋ねた。彼女は言った。「私を祝福して下さい。あなたはネゲブの地を私にくださるのですから、水の泉も私にください。」そこで彼は、上の泉と下の泉とを彼女に与えた。
イスラエルの偉大な人物のひとりカレブが報酬として求めたものは、征服済みの土地ではなく、手付かずの荒れ地であった(ヨシュア 14:6-15)。さて、この地方全体を今まさに制圧しようとしていたとき、最後にデビル(キリアテ・セフェル)だけが残っていた。カレブは、一族の男たちに、この地を制圧した部隊の隊長に自分の娘を褒美として与えることを約束した。
現代人はこのような話を好まない。自分の夫に領土を与えようとしたアクサの努力も、今日のクリスチャンにとってはまったく「非霊的な」ことに思われる。ルネッサンスやヒューマニズムによって育まれてきた近代人の物の考え方は、カルヴァンの時代においても支配的であった。アクサを見るカルヴァンの見方の中にも、このような思考の影響を見ることができる。カルヴァンは、深い洞察力を備えた注解者であったが、この箇所に関する限り、彼の意見は聖書的であるというよりもむしろ近代的であり、アクサに対する評価は、粗野でさえある。18〜19 節の注解は、アクサに対する荒々しい非難に満ちている。
娘アクサが際立った道徳性を備え、すぐれた訓育を受けていたことは想像に難くない。だが、戦勝の報酬として結ばれた結婚を境に、彼女の心の奥底に潜んでいた邪欲が鎌首をもたげるようになった。彼女は、聖なる律法から「女には先祖からの譲りの地を受け継ぐ権利がない」ことを教えられていたにもかかわらず、夫をそそのかして、それを求めさせた。野心的で貪欲な妻は、夫に危害を加え、ついには恥とか慎みとか公平を忘れるまで夫を堕落させてしまうものである。男の欲望も底知れないものがあるが、女のそれはさらに性急で激しい。世の夫たちは、このようなうるさくてしつこい忠告の炎にいわば焼き尽くされないように、よりいっそう心して自らを防衛しなければならないのである。
夫に能力があり、そのうえ父親が甘やかしたため、彼女はますます大胆になり、いよいよ節度を失って行った。彼女は自分に与えられた分に満足できず、自分のために水の潤った土地をも求めた。人は、一度実直や正直の境界を踏み越えると、その悪行には必ずや厚かましさが伴うものである。
父は、彼女の要求を拒まなかったことによって、娘に対する非凡な愛情を示した。しかし、だからといって、人々を盲目にし、正しい裁きを曲げてしまう邪悪な所有欲がそれ程憎むべきものではないことにはならない。アクサがろばから降りたことを、偽装や策略であると解釈する注解者もいる。つまり、これは、悲しみのあまりじっとしていられないことを示すための偽装的振舞いであった、つまり、ろばから降りたことは、彼女の犯意と欠点を示している、と言うのである。だが、彼女がろばから降りたのは、父の足元に平伏して哀願するためであったと考えるほうがずっと自然である。いずれにせよ、策略とへつらいによって、彼女は父の同意を取り付け、その結果、兄弟たちの分け前を奪ったのである。1
カルヴァンがひどい誤りを犯すことはまれである。しかし彼は、ここで、いかなるテキストの裏付けもないのに、アクサを「邪悪な欲望」を持つ「野心的で貪欲な」(なお、女性は男性より欲深であるという発言には何の根拠もない)女であると決め付けている。彼女は厚かましく、「実直や正直の境界を踏み越え」、父の同意を取り付けるために策略を弄したりへつらったりした。正しく解釈されている箇所も中にはある。アクサが命を掛けても惜しくないほど優れた女性であったことは明らかである。カルヴァンは、彼女のことを「無上の報酬」と呼んでいる。2
その他の注解者の見解は彼と同レベルか、それよりも劣っている。テキストを好意的に扱うものがあっても、ほとんどはあまりにも霊的な解釈に偏りすぎている。例えば、ジョセフ・R・シズーは、テキストを『秘密の泉の恵み』と名付け、上の泉と下の泉を象徴的に理解する。彼はこの箇所に信仰的意味を見出だそうとして「いのちの源は、生きた信仰の土の中に隠されている」3 と言った。確かに、シズーの言葉自体に誤りはない。しかし、この結論とテキストの間にいかなる関係も見出せない以上、これを正しい解釈であると認めることはできない。
われわれは、テキストが何を言っているかということに焦点を置いて、この箇所の意味を理解しなければならない。第一、カレブは自分の娘をキルヤテ・セフェルを征服したものに報酬として与えた。これは、悪なのだろうか。現代のロマン主義的観点から見れば、カレブの行為は不快極まりない。しかし、聖書は少しもこの行為を悪とは見ていない。これについては後で再度取り上げるつもりだが、ここでは、次のように言うに止めておく。「カレブを取り巻く人々は信仰と勇気とイニシアチブに富む人々であった」。
これらの人々は、カレブのように、過去の勝利に満足せず、たえず未来に目を向け、存在する敵を駆逐することに照準を合わせて行動していた。カレブの宣言(ヨシュア 14:6-12)は明らかに彼らの信仰をも表していた。たしかに、アクサは、命を賭するに値する素晴らしい女性であった。しかし、この戦いに参加したすべての若者も同じく優れた花婿候補であり、みな信仰の人であった。アクサには、これらの若者のリーダーを自分の夫として迎えることができるという特権的地位が約束されていた。
第二、所有願望は、それ自体では悪ではない。もしわれわれが正しい動機を持ち、神の下においてドミニオンを拡大することを目指しているならば、善である。
アクサが夫オテニエル(彼女の従兄弟であり、結婚できる関係にあった)に対し、畑をも求めるように言ったことは、決して非難されるべきことではなく、むしろ、賞賛されるべきことであった。民衆のリーダーとは権威の座を占めるに値する人物である。オテニエルは素晴らしい報酬を受けるにふさわしい人物であった。
第三、土地は水を必要とするので、アクサはさらに要求を続けた。彼女は、(荒れ地であった)相続地の価値を高めるために、上の泉と下の泉をも父に求めた。神の人カレブは、アクサをオテニエルに与え、オテニエルに土地を与え、アクサに泉を与えた。これらは彼らへの当然の報酬であると、彼は考えていた。それゆえカレブは、このことを少しもためらわずに行った。
第四、「私を祝福してください」というアクサの言葉を考慮に入れずして、このテキストや聖書全体を正しく理解することはできない。これは、この箇所の最重要ポイントである。祝福と呪いは聖書の中心的な概念である。『祝福は次のような形で現れる。健康、長寿、多くのそして末ながく続く子孫、富、名誉、勝利…。これに対し、呪いは、病、死、人や家畜の不妊、穀物の不作、貧困、敗北、不名誉という形で現れる。』祝福と呪いは、神にとっては神意、人間にとっては祈りである。4 創世記 27章1-41 節が示すように、祝福と相続は互いに密接に関係し合っている。アクサが「私を祝福してください」と言ったとき、彼女は、明らかに相続を求めていた。
有能な息子や兵隊を父に与えていたというだけで、彼女は、自分とオテニエルが豊かな相続や祝福を受けるに値すると、考えた。カレブはきわめてはっきりとこのことに同意した。このエピソードが聖書の中に含まれていることには重要な意味がある。これを否定的な題材と考えることはできない。英雄物語に含まれた挿話であるということから考えても、それには、きわめて肯定的な意味が与えられていると考えるべきである。
もし受けるに値する者であるならば、われわれは人からでも神からでも豊かな相続を要求する権利を持っていると、聖書はきわめてはっきりと述べている。われわれは信仰によって救われ、行いに応じて報いを受ける。そして、われわれの行いは、われわれに祝福を与える。この事実を否定する者は、罪を犯している。カルヴァンは、アクサが兄弟たちの相続を減らしてしまったと考えた。カレブは、カルヴァンやわれわれ以上に自分の家族の事情について詳しかったので、オテニエルやアクサの財産に有利な条件をつけ加えることに少しのためらいも感じなかったのである。二人がさらなる祝福を受けるに相応しい存在であると認めていたので、彼は、彼らの要求を、相続を与えるための好機とした。カレブは、アクサが要求したよりも多くの泉を与えた。つまり、祝福に値する者を祝福したのである。
ヤコブが息子たちを祝福(創世 49章)した時、その祝福には、物質的・霊的な祝福と相続の要素だけではなく、予測的預言の要素も含まれていた。このことは、イサクによるヤコブとエサウの祝福(創世 27:1-41)についても言える。ある人々は、これらの祝福における予測的預言の事実を、相続の恵みが今日的意義を持たないことを証明するために利用している。
二つの考え方が、これを証明するために利用されている。第一、われわれは進化論的な考え方を教えられてきた。即ち、聖書は、祝福が物質的なものから霊的なものへ移り変わり、発展してきたことを示している、と教えられてきたのだ。(このような解説は、印刷物においてよりも教会の学習会や説教でよく行われている)。物質的なものから霊的なものへの発展という見方は、悪は物質から来、善は霊から来ると考える、新プラトン主義や半マニ教の影響のしるしである。このような考え方は反キリスト的である。聖書は、現実世界の一切は神によって良いものとして作られ、被造物の全体はイエス・キリストによって贖われ、更新されつつある、と教えている。
第二、われわれは、「予測的預言がその時代に特有なものであったように、これらの地上的祝福も時代的制約を受けると考えるべきである。したがって、地上的祝福を今日にも適用できる祝福の範疇に含めることはできない。」と教えられてきた。
しかし、聖書は、祝福と相続との間にある密接で不可欠な紐帯が聖書全史を通して存在することを、明かにしている。
詩篇 37:22 は、次のように宣言している。
主に祝福されたものは地を受け継ごう。
しかし主にのろわれた者は断ち切られる。
これは、非常にはっきりと祝福と相続の間に存在する関係を明かしており、誤解する余地はまったくない。聖書を分割して考える人々は、次のように言うだろう。これは旧約聖書だからだ、と。よろしい。では、新約聖書を調べてみよう。とくに、祝福について述べている箇所を。わが主はこう宣言し給う。
心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。
柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。
義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。
あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。
心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。
平和を作るものは幸いです。その人は神のこどもと呼ばれるからです。
義のために迫害されているものは幸いです。天の御国はその人のものだからです。わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。
喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました(マタイ5:3-12)。
「天の御国」とは、神の御国を指している。ヘブライ人は神の御名を口にすることを避けたので、このような言い方をしたのである。「天の御国」は、この世とかの世とにおける神の王国全体のことを指している。われわれの主が述べておられる祝福は、霊的な領域においても、また物質的な領域においても実現する。相続はこの時間の世界と、永遠の世界の両方にかかわっている。祝福は、地を受け継ぐことと天を受け継ぐことのどちらをも意味する。祝福にあずかる者は、慰めとあわれみを受け、神を見、天で豊かに報われる。
この至福の教えに示された祝福と相続の間の関係を解くことはできない。また、相続を霊的な領域の事柄に限定することもできない。ただ忌わしい新プラトン主義の影響が、この明白な事実を人々の目から隠してきたのだ。同じことが、ヨハネ黙示録における七つの祝福についても言えよう(黙示1:3;14:13;16:15;19:9;20:6;22:7;22:14)。苦しみの中にある主のしもべに対して、主は物質的・霊的な祝福と相続を約束し給う。
再びアクサの話に戻ろう。彼女が父に「私を祝福してください」と願ったとき、彼女は相続を求めていたのである。当時の人々のものの感じ方を、現代人のわれわれの基準でもって推し量ることはできない。アクサは自分が戦いの報酬となったことに不平をこぼしたり嘆いたりしなかった。むしろ、彼女は名誉を受け、契約の民の中で最も有能な男を夫として迎えることができた。アクサは、父から光栄なる地位を与えられ、これを機に自分と夫はさらに父に近付くことができた、とさえ思った。オテニエルとアクサは、カレブに対して「オテニエルとその子供たちを世継ぎとし、オテニエルを義理の息子であると同時に、実の息子とすること」をも求めていた。
彼らは、この願いをかなえるために対策を講じた。その第一のステップは、オテニエルが畑を求め、これを得たことで実現した。次なる、そして、決定的なステップを踏んだのは、アクサだった。畑はオテニエルの勝利に対して、追加的に与えられた報償であった。しかし、アクサが請願の前に述べた『私を祝福してください』との言葉から、彼女が報償以上のものを求めていることは明らかだ。彼女は、自分と夫オテニエルが、カレブの世継ぎとして完全な地位を与えられることを望んでいたのだ。カレブはこの申し出に快く応じ、その願いを適えた。民の指導者カレブは、オテニエルの中に指導者としての資質を認め、彼を世継ぎとすることをよしとしたのだ。
興味深いことに、この小さなエピソードは聖書の中にもう一度出てくる。それほど重んじられている。士師記1:11-15 に、これと全く同じ物語が記載されている。さらに、士師記3:8-11 において、オテニエルはイスラエルの士師になり、民をメソポタミアの王の束縛から解放したと書かれている。彼は、主によって遣わされたイスラエルの「解放者」または「救済者」と呼ばれている。カレブのオテニエルに対する信頼は、このような形で報われたのである。
この物語は、聖書律法の中で今までないがしろにされてきた面に焦点を当てている。当時、普通の場合、相続は長子相続制に基づいていた。つまり、最初に生まれた子供が財産の分け前のうち、他の兄弟の二倍を受け取ることになっていた。それは、同時に、責任も二倍負い、年老いた両親の面倒もみなければならなかったからである(申命 21:16-17)。6律法が明らかにしているように、相続は「継承」を意味している。
あなたはイスラエル人に告げて言わなければならない。
人が死に、その人に男の子がないときは、あなた方はその相続地を娘に渡しなさい。もし娘もないときには、その相続地を彼の兄弟たちに与えなさい。もしその父に兄弟がないときには、その相続地を彼の氏族の中で、彼に一番近い血縁の者に与え、それを受け継がせなさい。これを、主がモーセに命じられた通り、イスラエル人のための定まったおきてとしなさい。(民数記 27:8-11)
信仰的な子供に対して相続を拒否してはならなかった(申命 21:15-17)。
また、不信仰な子供には家族を保護する責任は与えられなかった(申命 21:18-21)。かえって、律法によると、不信仰な人は『切り離され』なければならなかった。この言葉は、律法の中で何度も繰り返し述べられている。それは、絶交、相続不可能、そして死刑を意味した。継承とは、このように、信仰に基づく継承でなければならない。
継承としての相続(と祝福)は、われわれに問題の別の面を見せてくれる。聖書は継承や継続を取り扱っており、レビラート婚(申命 25:5-10)などの様々な律法は、継承と結び付いている。継承を強調するならば、実質的に革命に反対することにもなる。継承は、ルーツを強調し、信仰によって未来を展望する。
信仰中心にではなく、血縁中心に考えたため、継承は、歴史の中で反動的な役割を演じてきた。血縁的継承は革命を引き起こしてきた。それは、強固に防備された愚かな権力者を廃位させるには、暴力革命以外のいかなる手段も無力であると、信じられたからである。カレブがアクサとオテニエルを最良の世継ぎとし、彼らの権威を高めたというこの記事を見ても、聖書が信仰的継承に強調を置いていることは火を見るより明らかである。オテニエルがイスラエルの士師、指導者となった時、このことを年老いたカレブが喜んであろうことは、疑う余地もない。
カレブがオテニエルに与えた相続によって、アクサとオテニエルのみならず、全イスラエルも祝福されたのである。この相続によって、オテニエルは、強固な一族を形成することができた。この一族は、彼の数世代後、ダビデ王に 12 か月の交替制指揮官の一人を献上することのできる有力な氏族になっていた(I歴代 27:15;11:30 参照;II サムエル 23:28-29)。ユダヤの伝説によると、オテニエルは、律法の知識を回復した人であり、高い評価を受けている。ベン・シラの知恵は、オテニエルのことを生きたままパラダイスに取られた人であると述べ、エノクやエリヤと同等の地位を与えている。オテニエルはイスラエルの最初の士師であった。
継承の概念は、家族と密接なつながりを持っている。家族を意味するヘブライ語の一つに、bet av(つまり、父の家[創世 24:38;46:31])という言葉がある。家庭を建設することは、家を建てることであると考えられている(ネヘミヤ7:4)。つまり、カレブとアクサにとって、結婚は、けっして個人的なものであったり、ロマンチックで感情的なものではなかった。彼らにとって、家庭とは未来への投資であった。つまり、それは今日と明日を築くことであった。
かくして、本当の継承とは、信仰的継承を意味し、養子縁組は継承を確実にする手段であった。養子縁組と継承の概念を拒否することは、呪いを選び取ることであり、切り離されることを望むことである。子供を持つ人々でさえ、信仰的継承を確実にするため養子を取ることもあった。ヤコブは、孫マナセとエフライムを養子として迎え、息子の地位を与えた(創世 48:5)。カレブ自身も養子縁組の好例である。われわれは、彼に至る二つの血統を辿ることができる。一つは、ユダの子ペレツ(民数 13:6)を先祖とする血統、もう一つは、ケニ人を先祖とする血統である。ケニ人は、エドム人と結び付きがあり(創世 36:11,15,42)、その地方に住んでいた古代の民族と関係があった(創世 15:19)。
アハロニは「カレブ族が完全にユダ族に加わり、ユダ族の有力な一族となったのは、王朝制が始ったときからであろう」と述べている。6 神は、ソロモンを養子にしたこと、そして、その養子縁組の恵みによって王国の継承を確実なものにしたことを、自ら証言し給う(II サムエル7:14)。
このように、カレブ自身がかつてはよそ者であるにもかかわらず、ユダの指導者・代表にまでなったことから、彼にとって養子縁組は馴染み深い制度であった。エドム人の先祖の名前は、家族の中に残っている。オテニエルの父親ケナズは、エサウの息子の名前である。この人も同様に彼らの先祖であった。オテニエルを養子にするにあたって、カレブは、自分自身が選ばれた時と同じ原理を用いて、彼を選んだ。
このように、家族は信仰に基づく継承によって形作られる。ここでは、信仰の純粋さ、そして、血縁的相続が強調される。タルムードに基づくある論文は「てんかんやらい病者がくりかえし現れる家系の人と結婚してはならない」7 と言う。だれかが、あまり望ましくない結婚を約束した場合、その家族全員がケザザ (Kezazah)の儀式−つまり絶縁の儀式を行った。
このように、カレブとアクサの世界観は、今日のそれとは非常に異なっている。聖書においては、一と多(the one and the many)はひとしく重要であり、どちらも神の権威の下にあって、究極である。8
今日の世界観に従えば、ばらばらの個人か、全体主義の中の個人のどちらか一方にだけ強調が置かれる。中国では昔、家の利益のために個人が否定された。現代世界では、ロマン主義の恋愛観の影響により、個人の利益のために家が否定される。このような秩序なき個人主義にとって、姦淫は美徳である。9 しかし、聖書は個人も集団もどちらも絶対ではない、という。神のみが絶対であり、個人も集団も神の秩序の下に各々おるべき場所を持っている。
もし、アクサの結婚を単なる古代の結婚の慣習として片付けてしまうならば、われわれは、聖書から多くの題材を与えられているにもかかわらず、そこから何も学ぶことができないだろう。実際面で、カルヴァンは、信仰に基づく継承が重要であることを悟っていた。かつて敵が、彼に子供がいないのは、彼が呪われているからだ、と罵った時に、カルヴァンは、誇りをもって次のように答えた。「全ヨーロッパは私の子供たちで満ちている」。
血縁的家族は、聖書とその人生観の基本である。しかし、信仰に基づく継承が血縁に基づく継承よりも優先され、真実な継承であるということも等しく強調されている。英国イスラエル教[訳注:英国人はイスラエルの失われた 10 部族の子孫であるとする教え]と前千年王国説は、血縁と肉的イスラエルを強調する。しかし聖書は、養子縁組を信仰の中心的教理に据え、終始一貫して信仰的継承を血縁的継承に優先させている。真の使徒的継承も、同様に理解されるべきである。
1.John Calvin: Commentaries on the Book of Joshua, p.208f. Grand Rapids: Eerdmans, 1949.
2.Ibid., p.208n.
3.Joseph R.Sizoo, "Joshua," in The Interpreter's Bible,vol.II, p.631f. New York: Abingdon, 1953.
4.Herbert C.Brichto, "Blessing and Cursing," in Encyclopedia Judaica, vol.4, p.1085. New York: Macmillan, 1971.
5.参照: Samuel Shilo, "Succession," in Encyclopaedia Judaica. vol.15, p.475ff.
6.Yohanan Aharoni, "Caleb, Calebites," in Encyclopaedia Judaica, vol.5, p.42.
7.Louis Isaac Rabinowitz, "Family," in Ibid., vol.6, p.1170.
8.参照: R.J.Rushdoony: The One and the Many. Nutley, New Jersey: The Craig Press, 1971.
9.参照: Magar Edward Magar, Ph.D.: Adultery and Its Compatability with Marriage, Monona, Wisconsin: Nefertiti Publishers, 1972.
" 2BLESSING AND CULTURAL ADVANCE" R.J.Rushdoony, Law and Society,pp.12〜19, Vallecito, California: Ross House Books, 1982.の翻訳。
This translation was by the permission of Chalcedon.