主の御名によって

 

R・J ラッシュドゥーニー

 

 新約聖書においてよく使われる言い回しの中で、「主の御名によって」とか「イエス・キリストの御名によって」という言葉が用いられています。使徒10章48節において、ペテロは次のように言いました。「そして、彼は主の御名によってバプテスマを受けるように命じた」。使徒3章6節では、ペテロは足なえの乞食に向かって、「ナザレのイエス・キリストの御名によって、立ちて歩め。」と言いました。ペンテコステにおいて、彼はこのように宣言しました。「悔い改めよ。そして、罪の赦しを得るために、イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けよ。そうすれば、聖霊の賜物をいただけるであろう」。これは、よく使われた言い回しでした。

 さらに言えば、「名前」のこのような使い方はクリスチャン以外の世界においても一般的でした。例えば、奴隷が異教の神殿で奉仕するために連れていかれた時に、彼らは次のように言われました。「よいか。これからおまえたちは神の『御名』の中に入るのだぞ」と。これは、彼らがその神に属する者であり、彼に仕え、彼に従わなければならないことを意味しました。ロ−マの権威者たちはカイザルの名前によって命令を下しました。これは、カイザルの法と権威は何よりも偉大であり、人間や彼の財産を自由に使用し、徴収することができることを意味しました。現代でもよく用いられる「法の名によって開け」という言い方は、国家の法律は私たちに命令し、その事柄において私たちの願望よりも優先することを意味しています。このように「名前」を引用する言い回しは、極めて一般的に用いられ、重要な事柄において使用されるのです。

 

ごく初期の頃、信者たちは「御名」によって呼ばれていました。使徒11章26節で次のように言われています。「弟子たちはアンテオケにおいて初めてクリスチャン[キリストのもの]と呼ばれるようになった」。このクリスチャンという「御名」によって、彼らは、彼らの神イエス・キリストに属する者であり、彼の律法の下にある者と見なされたのです。このように、キリストの命令を守ることによって、弟子たちは同時に、彼のしもべ(奴隷)、彼の友(王子)となるのです(ヨハネ15:14)。例えば、パウロは自分自身のことを「イエス・キリストのしもべ」(ロ−マ1:1;テトス1:1;ピリピ1:1)と繰り返し呼んでいます。ヤコブは自分のことを「神のしもべであり主イエス・キリストのしもべ」と呼んでいます(ヤコブ1:1)。

ペテロは、自分は「イエス・キリストのしもべであり使徒である」と述べています(IIペテロ1:1)。ユダも「イエス・キリストのしもべ」と自称しています(ユダ1)。これらの箇所で使用されているギリシャ語は doulos (奴隷)です。これらの人々は「自分たちは奴隷であるだけではなく、使徒でもある」と述べています(パウロはこのように語っています)。「使徒」に当たるギリシャ語 apostolos は「遣わされた者」という意味です。これは受動的な言葉であり、「使徒とは命令にしたがって出ていく使者または入植者である」ことを意味しています。

このように、この言葉の意味は、「奴隷」「しもべ」 doulos と調和しているのです。使徒たちはイエス・キリストの御名によって出て行きました。彼らが行うことはすべて、イエス・キリストの御名によって行いました。彼らの伝道において、自律的な要素はまったくありませんでした。しかし、それと同時に、彼らが奴隷・使徒としての地位に就いたことは、彼らをキリストの御国における王子の地位に就かせました。これは東洋の王室の慣習に沿ったものです。ダニエルとその友は捕らえられて奴隷にされましたが、彼らや他の若い奴隷たちは選ばれてペルシャの支配者や王子となり、自分自身が奴隷の所有者となりました。

イエスは弟子たちに言われました。

 

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。(ヨハネ15:13−15)

 

この御言葉を理解するには、まず、古代において奴隷は単なる財産以上のものであったということを知る必要があります。奴隷は家族のサブメンバーであり、組織の一員でした。奴隷はその家族の名で呼ばれ、同じ宗教を信じました。また、財産を相続することも可能でした(創世記15:2−3)。それゆえ、ある意味で、実の子供でさえも、法的には奴隷と立場の違いはありませんでした。実際、ある文化においては、父親が子供たちのことを無価値なものと見なして、売り飛ばすこともありました。現代人の感覚からすれば、これはまことに不快なことです。

しかし古代においては、「家族は重要であり、けっして軽く取り扱ってはならない」ということを意味したのです。このため、古代の人々にとって偉大な栄誉とは、重要な家族の一員であるということでした。奴隷としてであれ自由人としてであれ、重んじられていた家族の一員であることは大変名誉なことでした。その逆に、不名誉とは、無価値なものとして家族から追い出されることでした。家族の食卓に招かれて、共にパンを割くことは、ある程度、その家族の生命と保護の中に加えられることをも意味しました。

このように、王子として、使徒たちは自分自身のことを奴隷と呼ぶことになおもやぶさかではありませんでした。さらに、彼らはまずイスラエルを、その次に、異邦人たちを主の信仰の家族に招き入れ、主の食卓にあずからせます。この時に、使徒たちは彼らに同じような地位や保護を与え、同じような役職に就かせているのです。もし彼らの奴隷=使徒としての役割がキリストとの関係において受動的であるならば、彼らの伝道によって回心した人々の役割も同じように受動的なのです。彼らは恵みによる養子縁組によって[主の御許に]来るのです。

キリストは、弟子たちことを友と呼んだ後で、彼らに次のように語られました。

 

あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それはあなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。(ヨハネ15:16)。

 

ここでも、受動的な要素が強調されています。つまり、[主があらゆることを予定されるという]予定的意思が宣言されているのです。「友」と「王子」はかつては罪の「奴隷」でした。彼らはイエス・キリストによって贖われ、買い戻され、今は「彼の奴隷」となりました。そして、恵みによる養子縁組によって、友、「王子」、「神の子」とされたのです。彼らは、世との関係においては能動的です。つまり、キリストの力、権威、支配を「彼の御名によって」宣言するのです。しかし、キリストとの関係においては受動的であり、忠実な者は彼の御言葉に完全に服従します。

つまり、「イエス・キリストの御名によって」生きること、そして、「イエスの御名によって」祈ることは、彼の奴隷として生き、絶えず彼の律法に服従することを意味するのです。彼と彼の御名に対する信仰によって生きることは、彼の律法にしたがって生きることと等しいのです。

雇人(ヨハネ10:12−13)は家族のメンバーではありません。彼は賃金のために働きます。したがって、主人の掟や言葉に対する雇人の態度は、賃金を得た後は主人から逃れ自由になることを目指すものの態度であり、そのために主人の掟に従うものの態度でした。彼が法に従い、働くのは、主人からの独立を獲得するためです。パリサイ主義の律法観は、この雇人のそれと同じでした。彼らの宗教は業の宗教であり、独立を獲得するために服従を目指しました。

雇人にとって、主人の掟は何か形式的なもので、重荷と強制でしかありません。奴隷であった弟子たちにとって、それは彼の家族の掟であり、彼の人生の掟です。それは形式的なものであると同時に、内面的であり、石の板と聖書に書かれていると同時に、彼の心の板にも書かれています。雇人は、主人とその掟から逃れるために掟に対して不承不承従います。しもべにとって、掟は彼の生命です。

 盗人や敵にとって、主の律法は軽んじたり破るべき何かです。彼は律法に対して敵対的です。彼は反律法主義者であり、徹底した無律法主義者です。彼は主の豊かな富を欲しがりますが、主に服従しません。悪魔が神を信じるように(ヤコブ2:19)、彼は主の富を「信じて」います。しかし、彼は主の律法を軽んじます。彼は主が与えてくださるどのような利益でも得ることを望みますが、主に対する責任は果たそうとしません。

さて、今日キリスト教界において私たちが直面している問題を理解するために、2つのケースについて考えましょう。カルケドン[著者の主催する研究団体]の秘書であるアーレーネ・ゴルニック夫人がある集会に出席しました。その場に行ってから、それはあるカリスマ派の婦人によって開かれた集会であることが判りました。

聖書「研究」の時間に、祈りについての訓話があり、彼女は次のように語りました。「私たちは、自分の家に泥棒が入っても通報すべきではありません」。私たちは主に向かってこう祈らなければなりません。「主よ。泥棒が盗んだものはみなあなたにお捧げ致します」と。そうすれば、「主は私たちが失ったものをすべて償ってくださいます」。(ある人の質問に答えて)彼女は次のように強調しました。「祈りにおいて私が主に求めたものは『何でも』主から与えていただきました」。この婦人の考え方は異端的です。祈り求めたことは「すべて」与えられたと言うので、彼女は嘘つきです。神の律法を無視し、償いの必要性を否定したので、彼女は神の敵です。彼女をクリスチャンと呼ぶことは神を侮ることになります。

 

改革派のノーマン・R・ジョーンズ牧師は、カルヴァン主義と思われるグループにメッセージをしました。その中に、今世紀で最も偉大であると一部の人々から考えられている神学者の孫が参加していました。彼は、ウルトラ正統主義者hyper-orthodoxであり、堕胎について関心を持つことさえ拒否していました。彼は、福音の文化的影響力についてまったく無関心であり、それは今日的意味を持たないと思っていました。

ジョーンズ牧師はこのように述べました。「彼は、フォードに一度会ったことがあり、その時、『いい人だ』と感じたので、フォード(大統領)に投票するつもりだ、と言っていました。また、『自分が生活する社会がどのような種類の社会であろうと、私にとってどうでもよいことである』とも言っていました」。

この人は無千年王国主義者であり、今日的問題に関係性のない終末論を信じていただけではなく、文化命令に関して基本的に無関心でした。また、彼は潜在的無律法主義者でした。これらのことから、彼はよくても雇人にしかならないことがはっきりしたのです。

 

キリストの奴隷であり王子である者たちは、主に服従します。彼らは主が彼らに命じることをすべて行います(ヨハネ15:14)。彼らは「しもべはその主人に勝らない」(ヨハネ15:20)ことを知っています。主のしもべである彼らは、主がお語りになる時に、その御言葉は従うためにあるのであって、細かく分析したり批判したりするためにあるのではない、ということを知っています。

キリストは受肉した神であられます。旧約聖書は「主の日」について語り、新約聖書はこの日を「主イエス・キリストの日」と同一視しています。ロ−マ10章17節において、パウロはヨエル2章32節を引用し、キリストの意味を明らかにして次のように述べています。「主の御名を呼び求める者はだれでも救われる」。

イザヤ45章23節において、神は次のように宣言しておられます。「私に対してすべてのひざは屈み、すべての舌は誓う」。ピリピ2章10−11節は、このお方がイエスであることを宣言しています。「イエスの御名の前に、天にあるものでも地にあるものでも、また地の下にあるものでも、すべてのひざは屈むであろう。そして、すべての舌は、『イエス・キリストは主である。父なる神に栄光あれ。』と告白するであろう」。

主の御言葉は一つ言葉です。彼は命じ、私たちは彼にしたがわなければなりません。もししたがわなければ、私たちはその御名の民ではありません。むしろ、彼の敵なのです。

 

This article was translated by the permission of Chalcedon.