律法には祭壇の規定がある。祭壇に関して最初に言及している箇所は、出エジプト記20章22−26節である。幕屋が建設される前の暫定的な期間に作られた祭壇は天然の材料で出来ていた、と言われている。この祭壇は、人間の設計によるものでも、人間の手によるものでもない。「というのは、祭壇は被造物を表すのではなく、神が人間を受け入れ、御自身との交わりに入らせるための場所」だからである。「それゆえ、祭壇は、神の御国の建設のために用いる土と同じ成分の材料で出来ていた。材料は、土と岩のいずれかから成っていた。」1
引き続いて、祭壇の型が指示される。これは、幕屋の律法の一部として与えられた(出エジプト27・1−8、38・1−7)。2 祭壇はアカシアの木で出来ており、その全体を青銅が覆っていた。大きさは、5X5X3キュビットであった。3
言うまでもなく、祭壇は、宗教上もっとも重要な器具であった。犠牲は贖いの事実を指し示している。つまり、神御自身が罪人の救済の方法を提示されたという事実である。贖いの事実こそ、祭壇の「第一の」、そして、もっとも中心的な意味である。祭壇上に捧げられた動物はイエス・キリストを象徴している。彼は「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1・29)と呼ばれている。黙示録1章5節では、「われわれを愛し、御自分の血によってわれわれの罪を洗い清めてくださったお方」と呼ばれている。
イエス・キリストという贖いの犠牲を受け入れることなしに、救いも、キリスト教信仰もあり得ない。犠牲は聖書的信仰の中心を成している。身代わりの犠牲と、神が備え給うた贖いについては、聖書全体において非常に多くの箇所において教えられ、その教えは、聖書の根本的な位置を占めている。聖書には、至る所に犠牲についての律法が記されている。イエス・キリストは、御自分が人の子であること、「多くの人の身代金として御自分の生命を与えるために」やって来られたこと(マタイ20・28、マルコ10・45)をお示しになった。
使徒は次のようにも宣言した。「というのは、神はお一人だからである。神と人の仲介者も一人であり、それは、人となったキリストイエスである。キリストは、すべての人の身代金として御自分の生命をお与えになった。ことの正しさは、ふさわしい時に証明される。」(第1テモテ2・5、6)祭壇はイエス・キリストと彼の贖いの犠牲を示していた。
残念ながら、教会中心の聖書解釈は、この点に終始し、それより先に進もうとしない。祭壇の意味については、質の高い、きわめて詳細な議論が展開されているが、ほとんどの場合、教会生活の基本的教理としての扱いしか受けていない。実際、祭壇は、人間の生活全般における基本である。教会、国家などあらゆる分野がこれと関係している。
フェアバーンは、この祭壇の「第二の」側面に注意を促している。
キリストの死に関する、正しく認識された表現や、同様に描かれた他の表現が、自然に、法的側面を備えているということは疑いようのない事実である。それらは、法の要求を尊重しているか、もしくは、法が表現している正義を尊重している。それらの表現は、次のことを宣言している。すなわち、「キリストは、罪人たちの代わりにこれらの要求を満たすために法的な死を経験された」と。このように、祭壇は、契約の箱と同様に、「法及び法の正義」を表している。恵みを受けるには、法の要求が満たされなければならない。法の要求の満足は、恵みの必要条件なのであり、それはイエス・キリストにおいて、神が満たしてくださる。このように、神にとって法は極めて重要な意味を持っている。イエス・キリストは、新しいアダム、新しい人類の頭として、法を完全に守られた。この死は、人間の罪に対する神の当然の審判であり、[罪のない]キリストにとっては相応しくないものであった。律法の呪いから人間を贖うために自ら呪われた者とされるということは、人間が律法違反者として自らに招いた刑罰を耐え忍ぶことに他ならない。それは、人間がその刑罰から逃れるためなのである。
また、もし「罪人たちが本来キリストが受けるはずであった好意と祝福を代わりに受けることができるようにと、義なる神は、罪人の身代わりに苦しみを受けられた」ということが十分に理解されていなければ、「彼はわれわれのために罪とされた。それは、われわれが、彼にあって、神の義となるためである。」という御言葉において示された[立場の]交替は正しく理解できない。
そして、処罰への厳格なる要求――これは、無限の知恵の源である方でさえ、イエスの真剣な求めにもかかわらず、逃れることができなかった要求である(マタイ26・39)――は、まさしく「法の本質the bosom of law」に対して投げかけられている要求なのである。破られた法は償いを要求するのであり、それは満たされなければならない。
神は流血を喜ばれる方ではない。真理と義に対する至上の関心は、どのような代償を払っても擁護されなければならない。それは、たとえ、真理と義を守るために言葉で表現できない程貴重な血が流されなければならないとしても、避けることのできないものなのである。4
それは、新しい人類が神に服従する性質を持つ者たちであることを示すためであった。また、彼は、罪なき神の小羊として十字架上で死なれた。それは、罪人に対する法の要求を満たすためであった。恵みは法を無効にはしない。恵みは法を満たす。それゆえ、神の恵みは、法が有効であること、そして、法の要求が十分かつ絶対なる義であることを証言している。
ここでフェアバーンは再び雄弁に真理をはっきりと述べている。
われわれは、自分の足で立つためのしっかりとした土台を必要としている。神の御前で自信を持って生きるために、確実でしっかりとした基礎を持たなければならない。このような土台は、キリストの苦痛と死に対する昔の教会の見解の内にのみ存在する。われわれが神の法を破り、罪を犯す時に、神は御自身の義の要求を満足させるために、キリストを苦しめ、殺された。この祭壇の第二の側面を否定する人々は、無律法主義に陥ることになる。この見解に立つ人々は、祭壇を神の無条件の愛の徴と見なす。フェアバーンの言葉を用いれば、彼らは祭壇をけっして「義の要求によって制限された」愛の徴とは見なさない。昔の教会は、キリストの苦しみと死にこのような意味を見いだしていた。筆者が強調したいのは、「満足」は「神の義の要求に対する」ものであるという点である。――この点に躓く人もいるようである。そのような人々の中には、福音主義に立ってものを書いている人々も含まれる。たしかに、彼らは、「神の栄誉の求めに対する満足」を主張するが、けっして「神の義の求め」に対する満足を言わない。それでは、お尋ねしたい。
神の義をおいて、一体何が神の栄誉なのだろうか。神の栄誉とは、神の倫理的な御性質を反映する行動であり、その表出に他ならない。そして、この倫理的な御性質の現実化に際して、その中心となり、それを制御する要素となるのは、義なのである。御性質は、そのすべてが何かによって制限されている。愛は、義の要求によって制限されている。
それらの要求に矛盾せずに不信者たちを義と認める場合、愛の働きに範囲を設定することは、贖いの真の土台及びその理由となる。その土台と理由は、まず第一に、神の御旨の内に存在する。神の御旨の内に土台と理由が存在するが故に、神の生ける像――すなわち人間の良心――の内にもそれらが生じることになる。
人間の良心は、刑罰が「永遠なる正義の法が違反者に対して下した報復」であることを本能的に悟るものである。また、有効な贖罪の媒介を経ないでは、良心が確固たる平和に至ることはあり得ない。実際、真の贖罪が現れないか、もしくは、その一部分しか理解されていない場合には、必ず、お手前の贖罪が持ち出されることになる。 このようにして、律法は確立された(ローマ3・31)。――もっとも際立った方法で律法を確立したのは福音の本質であった。福音の本質によって、特に、福音が律法から区別されることになった。
「祭壇は法と正義を証言している」ということと、「祭壇の意味は法と正義にある」ということが確認され、支持されなければ、異なる宗教が、キリスト教信仰の衣をまとって登場することになる。その内実は、徹底した反キリストである。祭壇の血は、律法が頑固に、しかも、永久に求め続けている要求を、厳格かつ持続的な方法で、象徴していた。その要求とは、神の義が成就することであった。
第三、また、祭壇は、「死刑」が律法にとって基本的な要素であることもはっきりと証言していた。普通、死刑の教理は、祭壇や第二戒と結びつけて考えられることはなく、むしろ、第六戒「殺すな。」と結びつけられる。この誤りを犯す人々は、第六戒の意味を制限するだけではなく、死刑からその深遠な神学的な基礎を奪い取っている。もし死刑が神の律法にとって根本的な要素でなければ、キリストの死は無駄になってしまう。というのも、何かもっと簡単な方法でも、神の義が満足されることが可能だからである。
死刑が第二戒の中心ではないとすると、祭壇は血なま臭い誤謬であったということになり、神は、不必要に流された膨大な量の血によって礼拝されてきたということになる。しかし、死がなくても贖いが可能であると考えたり、人間が神に近づく上で祭壇を無視できると考えることは、三位一体の神を退けて、人間を偶像とする行為であり、人間に自分自身を救う力を付与することに等しい。
死刑は、律法において命じられているだけではなく、その刑罰に対しては赦しが存在しないとも言われている。「さらに、殺人者の生命を救うためにいかなる賠償も取ってはならない。それは、死に価する罪である。彼は間違いなく死ななければならない。」(民数記35・31) 教皇パウロ6世をはじめ、様々なプロテスタント及びローマ・カトリックの教会指導者たちや、女王エリザベス2世のような俗界の権威者たちが、ローデシア当局に、数人の殺人者の死刑差し止めを求めて嘆願書を提出したことがあった。
彼らは死刑囚ではなく「自由の闘士」と呼ばれていた。これは、明らかに神の律法を無視し、軽蔑する行為である。さらに、彼らはキリストの十字架をも蔑んでいた。これは、神の目から見れば、死刑に価する罪である。また、彼らは「自分たちの言葉」を神の御言葉の上に置いていた。
死刑に関する律法は次のようにまとめることができる。
民数記35・31 贖い金では償えない。新約聖書になると、いくつかの点で刑罰に変更が見られるが、死刑の基本的な原理は、キリストの贖いの死によって強化され、明言された。人間が神に対して罪を犯し、神の律法を破れば、間違いなく死に渡されるという事実は、キリストが贖いの死を遂げられたことによって、明白化された。
創世記9・5−6、民数記35・16−21、30−33、申命記17・6、レビ記24・17 殺人。
レビ記20・10、申命記22・21−24 姦淫。
レビ記20・11、12、14 近親相姦。
出エジプト22・19、レビ記20・15、16 獣姦。
レビ記18・22、20・13 男色。
申命記22・25 婚約している処女を強姦した場合。
申命記19・16−20 死罪に関わる事件における法廷偽証罪。
出エジプト21・16 申命記24・7 誘拐。
レビ記21・9 姦淫を犯した祭司の娘。
出エジプト22・18 魔術。
レビ記20・2−5 人身御供。
出エジプト21・15、17、レビ記20・9 父母に対する暴力とのろい。
申命記21・18−21 悔い改めない頑固な非行者。
レビ記24・11−14、16、23 冒涜。
出エジプト35・2、民数記15・32−36 安息日の冒涜。
申命記13・1−10 偽預言する者。偽りの教えを伝える者。
出エジプト22・20 偶像神へ犠牲を捧げること。
申命記17・12 神的な法秩序に従うことをむやみに拒否すること・律法否定・法廷に対する反抗的態度・行動。
申命記13・9、17・7 証人による処刑について。
民数記15・35、36、申命記13・9 会衆による処刑について。
民数記35・30、申命記17・6、19・15 2人に満たない証人の証言では処刑できない。
あなたがたは、自分たちのいる土地を汚してはならない。血は土地を汚すからである。土地に流された血についてその土地を贖うには、その土地に血を流させた者の血による以外はない。あなたがたは、自分たちの住む土地、すなわち、わたし自身がそのうちに宿る土地を汚してはならない。主であるわたしが、イスラエル人の真中に宿るからである。(民数記35・33、34)レビ記26章では、神の律法を無視する土地にのろいが下ると言われている。もし民が土地から悪を除かなければ、神がその土地から住民を除かれる。それゆえ、歴史が、神の律法から離れた人々が破滅の道を辿ったことを繰り返し証言しているとしても、驚くには値しない。