聖書律法綱要

 




第六戒


アマレク




 何世紀もの間、アッシリアは多くの歴史家の目から隠されていた。彼らは聖書の記述を信ぜず、そのような大帝国がかつて存在したかどうか疑いを抱いていた。同じようにアマレクも長い間無視され続けてきた。アマレクは古代に「国々の中で首位のもの」(民数記24: 20)と呼ばれていた。その起源については聖書学者の間でさえ誤解がある。彼らは、エサウの孫アマレク(創世記14: 7)の子孫であると考えている。しかし、このアマレクが誕生するずっと以前に、民族としてのアマレクは存在していた(創世記14・7)。

 ヴェリコフスキーは、ある興味深い証拠を提示し、アマレクがヒクソスと同一民族であると述べている。1 これは確かに出エジプト記17章8−16節の記述と深く関係している。

 聖書律法において、アマレクは重要な役割を演じている。神はアマレクに対して裁きを宣言しておられる。裁きは神の契約の民の手に委ねられていた。刑罰規定は、法律の1面であり、それゆえ、法律を論じる際に常に取り上げるべき問題である。特にそれが法典に明示されている場合は避けて通ることはできない

 イスラエルがエジプトを出た後で、アマレクがこれと出会い攻撃を仕掛けてきた(出エジプト記17:8−16)。次の2つの節においてアマレクとの遭遇の場面が、神の裁きの点から述べられている。


 主はモーセに仰せられた。「このことを記録として、書き物に書きしるし、ヨシュアに読んで聞かせよ。わたしはアマレクの記憶を天の下から完全に消し去ってしまう。」モーセは祭壇を築き、それをアドナイ・ニシと呼び、「それは、『主の御座の上の手』のことで、主は代々にわたってアマレクと戦われる。」と言った。(出エジプト記17:14−16)

 あなたがたがエジプトから出て、その道中で、アマレクがあなたにしたことを忘れないこと。彼は神を恐れることなく、道であなたを襲い、あなたが疲れて弱っているときに、あなたのうしろの落伍者をみな、切り倒した。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えて所有させようとしておられる地で、あなたの神、主が、周囲のすべての敵からあなたを解放して、休息を与えられるようになったときには、あなたはアマレクの記憶を天の下から消し去らなければならない。これを忘れてはならない。(申命記25:17−19)


この箇所ではいくつかのことが述べられている。第一、ある意味でアマレクは神と戦っていた。詩篇作者はアマレクを陰謀を巡らす国民の一つであると述べている。「彼らは心を一つにしてて悪だくみをし、あなたに逆らって、契約を結んでいる」。サムエルはサウルに向かって次のように言った。「万軍の主はこう仰せられる。『わたしは、イスラエルがエジプトから上って来る途中、アマレクがイスラエルにしたことを罰する。今、行って、アマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよ。容赦してはならない。男も女も、子どもも乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも殺せ』」(第一サムエル15:2−3)。第一サムエル28章18節では、神の「アマレクに対する燃える御怒り」について語られている。第二、その前の節が明らかにしているように、神もアマレクと戦っておられる。第三、イスラエルはアマレクに攻撃され、残酷な扱いを受けた。第四、イスラエルはアマレクと死ぬまで戦うように命ぜられた。第五、この戦争は、世代から世代へと引き継がれなければならない。アマレクと似た性質を持つ者も抹殺されなければならない。

 これらの点をもっと注意深く見てみよう。第一、アマレクは神に対してどのような罪を犯したのだろうか。出エジプト記17章16節のヘブル語原文は次のようにも読める。「アマレクの手は天の御座に向かっている(逆らっている)ので、主は戦われる...」。2 確かに、神がアマレクに対して敵意を抱いておられることを見ても、アマレクの手が神に「逆らって」伸べられているということがわかる。モーセの手が神「の方に」向けられたことは、イスラエルが神に依り頼んでいることを示している。

 アマレクの罪が深刻な罪であることは、タルムードにも反映されている。R.ジョセは次のように言った。「イスラエルが約束の地に入ったとき、次の3つの戒めが与えられた。(1)王を据えること。(2)アマレクの子孫を根絶やしにすること。(3)選ばれた家(つまり、神殿)を建設すること。私はこれらの中でどれが優先されていたかは知らない」。3

 タルムードでは、神がアマレクに下された裁きに対して人間的(ヒューマニスト的)な恐怖が記されている。そして、伝説の一つではこの恐怖はサウルの言葉の中に表現されている。


 聖なる方−この方に栄光があるように−はサウルに「さあ、行ってアマレクを打て」と言われた。その時彼はこう答えた。「もしトーラーが1人の人の罪の身代わりに『子を生んだことのない赤い雌牛の儀式を行い、その首を折れ』と命じているならば、ましてこれらのすべての人々に対してはなおさら(斟酌されるべき)である。人間が罪を犯たとしても、いったい牛が何の罪を犯したというのだろう。大人が罪を犯したからといって、子どもが何をしたというのだろう」。その時、神の御声があった。「義し過ぎるのはよくない」。4


 ローリンソンは出エジプト記17章16節に関して、次のように指摘している。「イスラエルを攻撃することによって、アマレクは神の御座に対して手を挙げた。だから、神は代々にわたってアマレクと戦われる」。5

 昔の伝承では、神とイスラエルに対してアマレクが仕掛けた戦いがどのような性質のものであったのか、記されている。

 ミドラシュの口伝によると、アマレク人は「イスラエル人(囚人と死体)の割礼された男根」を切り取り、それを空中に放り投げ、ヤーウェに対して猥褻な呪いの言葉を浴びせた。「おまえが欲しいものはこれだ。おまえが選んだものを受け取るがよい」。このような行いによって、彼らは極度に神に憎まれる者となった。この伝承は申命記25章18節「あなたのうしろの落伍者をみな、切り倒した」に由来している。これは、出エジプトの旅の途中レフィディムにおいてアマレクがヘブル人を悩ませたことを暗示している。6

 「後ろの落伍者を切り倒す」という動詞の語形は「去勢する」という意味も示す。また、それがヨシュア記10章19節(申命記25章18節以外の唯一の例)のように軍事的な象徴として使用された場合は、キング・ジェームズ訳のように、落伍者の中で「もっとも後ろを歩んでいた人」という意味にもなる。どちらの場合もこれは軍事的用法を持つかもしれない。しかし、アマレクがイスラエルの男性を去勢したとする古代の伝承は恐らく真理を伝えているのだろう。アマレクの行為を去勢と解釈すれば、アマレクに対してなぜ神が怒られたのか、また、なぜアマレクに対して恐怖が宣告されたのか理解できる。アマレクの行為の中に冒涜と邪悪さが併存していたからである。アマレクがイスラエルを憎んだのは、まずなによりも神を憎んでいたからである。アマレクのイスラエルに対する極端に邪悪な行為の原因はここにあった。この邪悪さは、エステルの時代にハマンがユダヤ人を皆殺しにしようとした謀略の中にも見られる(エステル3章)。

 第二、神はアマレクと戦われる。この戦いは「代々にわたって」(出エジプト17:16)続けられる。次の違いに注意していただきたい。イスラエルのアマレクとの戦いは、アマレク人とその記憶が抹消されるまで続けられる。確かに、現在、帝国としてのアマレクは忘れ去られているが、神の戦いは「代々にわたって」続けられている。つまり、神は、あらゆる時代の、すべての人種、すべての国民の中のアマレク人と代々にわたって戦うと宣言しておられる。これは、けっしてテキストの読み込みではなく、聖書の象徴学に従った解釈である。

 邪悪な暴力、神と人に対する軽蔑は、堕落した人間に共通する特徴である。たとえば、モーリス・R・デービーズは次のように述べている。


「アフリカでは、戦争捕虜はしばしば、拷問されたり、殺されたり、餓死するまで放置された。トウィ語族は『捕虜を極めて野蛮な方法で取り扱いた』。男性と女性と子ども、そして、赤ちゃんを背負った母親ややっと歩くことができるような小さな子どもまでもが、裸にされて、首の回りに紐を巻き付けられ、10人から15人単位でまとめて監禁されていた。1人1人の手には重たい木片の枷がつけられ、頭の上で支えておかなければならなかった。このような不自由な状態で、しかも、ろくに食べ物も与えられなかったので、彼らは骨と皮ばかりになっていた。何カ月も凱旋の行列の中で歩かされ、粗暴な看守から極めて残虐な取り扱いを受けた。その一方で、彼らを捕らえた人々が逆の立場になって捕まると、再び捕まえることのないようにすぐに無差別に殺される。ラムゼイヤーとクーンは、アクラ生まれのある囚人について述べている。彼は「丸太に繋がれ」ていた。つまり、倒れた木の幹に手首を鉄の釘で打ちつけられ、4ヶ月もの間十分な食べ物も与えられずに繋がれていた。このひどい扱いの下で彼は死んだ。またある時、彼らは囚人の中に哀れな衰弱した子どもがいるのに気づいた。「立て」と荒々しい声で命令されると、「苦しそうに自分の体を引っ張り上げるようにして立ち上がった。その体はやせ細り、すべての骨を数えることができるほどであった」。この時彼らが見た囚人たちのほとんどは生ける骸骨であった。ある少年は飢えによる衰弱によって、自分の頭を支えることができず、座ると上体が膝の間に沈んでしまった。同じように衰弱したもう1人の囚人は、咳をすると最期のあえぎ声のように聞こえた。小さな子どもは飢えのため立つことができなかった。宣教師がこのような光景に同情すると、アシャンティ族の人々は驚いていた。ある時、飢えた子どもに食べ物を持っていこうとした宣教師は、看守に追い返されてしまった。」ダオメーの正規軍も召集軍も、人間の苦しみに対して同じように無感覚であった。「傷ついた囚人たちを介抱することは許されなかった。奴隷にする予定ではない囚人たちは、半分飢餓状態に放置されたので、すぐさま骸骨のように痩せこけていった・・・。下顎の骨は戦勝記念品と考えられていたので、傷兵やまだ生きている兵士から取られることがよくあった・・・。」フィージーの要塞陥落後に繰り広げられた光景は「あまりに恐ろしくて細部を語ることができない」。子どもであれ老人であれ女であれ容赦はされなかった。しかし、これなど後に展開する残虐行為に比べればものの数に入らない。捕虜たちは言語に絶する方法で手足を切り落とされ、敵の残虐な衝動と欲望の餌食にされた。このため、彼らは捕らえられるよりも自害することの方を選んだ。メラネシア人はあきらめが早いので、多くの者は逃げようともせず、ただ黙々と棍棒の前に頭を差し出した。捕虜になった哀れな者には、恐ろしい運命が待ち受けていた。縛られたまま中心の村に連行されると、若い兵士たちに引き渡されて、彼らの工夫を凝らした拷問のモルモットにされた。殴られて気絶すると熱したかまどの上に載せられ、熱さのために意識が帰ると、また殴られた。このような、捕虜たちの気も狂わんばかりの奮闘に、見物人は笑い転げて見ていた。7


 普通、このような話は未開社会の証拠であるとか、進化論の生存競争を示すものとして紹介されるだけで、けっして人間の堕落性を示すものとは考えられない。アフリカやメラネシアの種族と同じように、文明社会に住む人々も、邪悪な暴力や残虐な行為にふけったり暴虐を喜びます。共産主義者の残虐行為は、その邪悪さ、暴力性、範囲において、未開部族のそれよりはるかにひどいものである。そのことを示す証拠は枚挙にいとまがない。8

 今日のヒューマニズムの世界において、政治家は恐怖を頻繁に利用する。「人間と社会を救うため」との名目で人々が殺されている。「人類を愛しなさい」とのスローガンが全くの憎しみの心から叫ばれている。人間は、自分が全能者であることを示すために暴力を利用する。「神のようになる」(創世3・5)ことこそ、人間の罪の本質に他ならない。しかし、いくら新しい世界や新しい人間を造ろうとしても、人間は全能者でもなければそのような権威も持っていないので、全能者としての自己を誇示するために破壊活動に走る。『1984年』の中のオブライエンの言葉は的を射ている。「われわれはおまえからおまえ自身を完全に絞り出してしまおう。そして、空になったおまえの内側をわれわれ自身で満たしてしまおう」。9 オーウェルがオブライエンに語らせている次の有名な台詞は真理をついている。



 権力とは苦痛と恥辱を与えることである。権力は人間の心をずたずたに引き裂いて、それらを自分の思い通りの形に作り替えることである。われわれがどのような世界を造ろうとしているか、そろそろお分かりだろうか。それは、昔の改革者たちが想像したような愚かな快楽主義のユートピアとまったく逆のものなのだ。恐れと裏切りと苦痛の世界、踏みつけたり踏みつけられたりする世界、洗練されればされるほどますます無慈悲になる世界。この世界において進歩とはより苦痛に満ちた世界への発展なのだ。昔の文明は、愛と正義に基いていると主張していた。しかし、われわれの文明は憎しみに基づいている。世界において存在するのはただ恐れと怒り、勝利、そして自己卑下の感情だけだ。われわれはそのほかの1切を打ち砕く。そう、いっさいをだ。もうすでに、考える習慣というものを破壊しつつある。これは、革命前から生き延びてきた習慣だ。われわれは子どもと大人、人と人、男と女の間のつながりを断ってきた。もはやだれも自分の妻や子どもや友人を信じることはできない。だが、将来においては、もはや妻や友人さえも存在しないだろう。あたかも雌鳥から卵が取り去られるように、子どもたちは生まれるとすぐに母親の手から取り去られる。性衝動は根絶される。生殖は配給券の更新のように、年間行事になる。オーガズムも廃止する。神経科医は今この問題に取り組んでいるところだ。党への忠誠心以外にいかなる忠誠心も存在しない。『国家』への愛の他にいかなる愛も存在しない。敵を倒した時にこぼれる勝利の笑いの他に笑いは存在しない。芸術も、文学も、科学もない。われわれが全能者になれば、もはや科学など必要ないのだ。美しさと醜さの区別はない。好奇心もなければ、人生のプロセスを楽しむこともない。すべて競争する楽しみは奪われる。しかし、絶対に、−−このことを決して忘れないように、ウィンストン君−−絶対に、権力への陶酔は消えることがないのだ。それは、ますます強くなり、ますます微妙になる。いつも、そしてどのような瞬間においても、勝利のスリルや、無力な敵を踏みつける時の興奮はさめることがない。もし未来図を描きたいならば、ブーツが人間の顔を際限なく踏み続けている図を描き給え。10


 はっきりと言えば、ここにおいて人間の罪の本性が現れている。神の真似事をし全能者の感覚を味わうために、人間は、完全な恐怖と完全な破壊を利用する。 しかし、このような邪悪な暴力は疑似的全能であり、神の御怒りを招く。神は「代々にわたって」すべてのアマレク人を敵と見なす。第一のアマレクは消し去られた。また、アマレク人として知られる最後の人物ハマンも滅ぼされた。それと同じように、現代のアマレクとアマレク人たちも確実に裁かれ、消し去られる。ハマンの運命について次のように言われている。


そのとき、王の前にいた宦官のひとりハルボナが言った。「ちょうど、王によい知らせを告げたモルデカイのために、ハマンが用意した高さ50キュビトの柱がハマンの家に立っている。」すると、王は命じた。「彼をそれにかけよ。」 こうしてハマンは、モルデカイのために準備しておいた柱にかけられた。それで王の憤りはおさまった。(エステル7・9、10)


 第三、イスラエルはアマレクによって攻撃された。申命記25章17節では、アマレクは「神を恐れていなかった」と書かれている。「ミドラシュの口伝」によれば、イスラエルに対するアマレクの攻撃は神への下劣かつ大胆な反抗であり、神への軽蔑であった。神の民への攻撃の背後には、神御自身への隠然たるもしくは公然たる攻撃がある。人々は、神を直接に攻撃できないので、神の民を攻撃する。こうして、アマレクとイスラエル、神の民と神の敵との間には間断なき戦いがある。神の敵は完全に消し去られる。

 第四、契約の民は神の敵と戦わなければならない。なぜならば、この戦いはどちらかが死ぬまで続く戦いだからである。神の敵対勢力の入念と洗練と下劣がないまぜとなった暴力は、われわれに休息を許さない。

 第五、この戦争は、世界のアマレク人が消し去られまで続く。神の法秩序が世界を支配し、神の正義が全世界を治めるまで、戦いは止まない。

 神の全能の力はすべてのものを支配するので、人間の疑似的全能もすべての事柄に及んでいる。この擬似的全能はますます凶暴化し、ますます邪悪になっている。決して勢いが衰えることはない。その目標は、完全な権力の誇示にある。物事を改造する力を示すことができないため、破壊する力を誇示す。

 モーセの挙げられた手(出エジプト17・11、12)の予型は、アマレクを滅ぼすための方法を示している。つまり、われわれは、すべての前線において全面的な攻撃を加えること、しかし、常に主に完全に信頼し続けることによって勝利できる。勝利の唯一の基盤は主にあるのだから。



1. Immanual Velikovsky, Ages in Chaos (Garden City, N. Y.' Doubleday, 1952), pp. 55-101.
2. Bush, Exodus, I, 222. ブッシュはこの解釈を採用していないが、「あり得ない解釈ではない」と言った。
3. Sanhedren 20 b, Seder Nezikin, III, 109.
4. Yoma 22b, in Seder Mo'ed, III, 101.
5. George Rawlinson, "Exodus," in Ellicott, I, 252.
6. Allen Edwardes, Erotica Judaica, A Sexual History of the Jews (New York: Julian Press, 1967), p. 56.
7. M. R. Davies, The Evolution of War (Yale University Press, 1929), p.298f., cited in Georges Bataille, Death and Sensuality (New York: Ballantine, 1969 [1962]), p. 72f.
8. たとえば、Harold M. Martinson, Red Dragon over China (Minneapolis: Augsburg, 1956); Albert Kalme, Total Terror (New York: Appleton-Century-Crofts, 1951); Richard Wurmbrand and Charles Foley, Christ in the Communist Prisons (New York: Coward-McCann, 1968)を参照。
9. George Orwell, 1984 (New York: Signet, 1950[1949]), p. 195.
10. Ibid., p. 203.


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