聖書律法綱要
第七戒
獣姦
獣姦を禁じる律法は、4つの箇所に記されている。3つは律法の本文に、一つは律法の呪いの中に記されている。
獣と寝る者はすべて、必ず殺されなければならない。(出エジプト記22・19)
動物と寝て、動物によって身を汚してはならない。女も動物の前に立って、これと臥してはならない。これは道ならぬことである。あなたがたは、これらのどれによっても、身を汚してはあならない。わたしがあなたがたの前から追い出そうとしている国々は、これらのすべてのことによって汚れており、このように、その地も汚れており、それゆえ、わたしはその地の咎を罰するので、その地は、住民を吐き出すことになるからである。あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守らなければならない。この国に生まれた者も、あなたがたの間の在留異国人も、これらの忌みきらうべきことを、一つでも行うことがないためである。−−あなたがたより先にいたこの地の人々は、これらすべての忌みきらうべきことを行ったので、その地は汚れた。−−あなたがたがこの地を汚すことによって、この地が、あなたがたより先にいた国民を吐き出したように、あなたがたを吐き出すことのないためである。これらの忌みきらうべきことの一つでも行う者はだれであろうと、それを行う者は、その民の間から断たれる。あなたがたは、私の戒めを守り、あなたがたの先に行われていた忌みきらうべき風習を決して行わないようにしなさい。それによって身を汚してはならない。わたしはあなたがたの神、主である。(レビ記18・23−30)
人がもし、動物と寝れば、その者は必ず殺されなければならない。あなたがたはその動物も殺さなければならない。女がもし、どんな動物にでも、近づいて、それとともに臥すなら、あなたはその女と動物を殺さなければならない。彼らは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。(レビ記20・15−16)
「どんな獣とも寝る者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。(申命記27・21)
この罪の刑罰は死刑である。人も獣も処刑されなければならない。死刑が実行されないと、地は汚れ、地は堕落した人々を吐き出す。ギンスバーグは、レビ記18章25節「その地は、住民を吐き出すことになる」の注解において、聖書律法のこの基本的な側面について雄弁に語っている。
創造の時から、地は人間の罪の刑罰を共に受けてきた(創世記3・17)。万物が償われる時に、地はその回復に与る(ローマ8・19−22)。それゆえ、地の物理的状態は、人間の道徳的状態によって左右される。人間が神の命令に従わない時に、地は乾ききり、産物を出さなくなる(申命記11・17)。人間が自分自身を汚す時に、「地は汚される」。しかし、人間が神の命令に従って歩む時に、地は祝福される(レビ記25・19、26・4)。「神はその地とその民に大してあわれみ深い」(申命記32・43)ので、住民が罪を犯す時に「地はうめき」(イザヤ24・4−5)、神が御民のために仇打ちをする時に、「地は喜ぶ」(詩篇96・11−13)。土地(ここでは人格化されている)が、その子どもたちの悪行を嫌い、彼らを保持することができないと言われているのは、まさに、彼らの間に存在する密接な関係のゆえなのである。地は住民を嫌悪した。同じ比喩が28節、20・22、黙示3・16において使われている。1
獣姦は古代において一般的に行われていた風習であった。また、それは「宗教的」儀式であった。異教は、「カオスからの進化」という信仰を持っており、宗教的な活力・力・バイタリティーを上にではなく、下に−−つまり、カオスに−−求める。彼らは「地」や人間の原始的過去を振り返り、力は下の方に存在すると信じていた。その結果、宗教的刷新のために、獣姦を行う必要があると考えた。エジプトやカナンや他の多くの国々において、そのような行為は人々の社会的福祉にとって必要であると考えられていた。また、生活に活気を取り戻すために、個人的にも行われた。もし神が神[究極]であるならば、人間は生まれ変わり・導き・力を求める時に、神を見上げ、生活を神の御言葉にしたがわせようとする。
しかし、神ではなく、カオスが究極であり、万物の源であるとするならば、人間は生まれ変わりを得るためにカオス的行為に下らなければならない。人間はまさにこのことを行ってきた。獣姦は「発達した」異教主義の重要な側面である。それゆえ、獣姦は単純な後進的異教文化においてではなく、高度に発達した異教文化においてより多く見られる。それは、「発達した」異教文化における性生活の明らかな側面である。2
獣姦は革命運動や革命家とも密接に関わっている。革命の眼目は、「カオスを通してのパラダイス」にある。これは、まさに獣姦の趣旨と一致する。1960年にソビエト連邦に逃亡した合衆国国防省の2人は、ホモセクシュアルであり「動物との特異な性交渉にふける傾向を持っていた」と報告されている。3
現在進行中の性革命において、獣姦の試みが広範に行われている。4 ウラースタム博士は、「この道徳的くびき」−−つまり、獣姦禁止−−を廃止するよう求め、この行為を擁護している。5
聖書は、その行為を「混乱」とか「倒錯」と呼んでいる。倒錯は、常にその行為及びその宗教的側面において中心的要素であった。マルキ・ド・サドの極端な倒錯は有名である。実に様々な動物との(サディズムを伴った)獣姦行為の異常な一覧が、その主著に記されている。6 彼は、食糞は、性的な快楽を与える正当な行為であり、自分が楽しみとしているあらゆる行為の中で「最高の汚れ」であると述べた。7
ケネス・バークは何年か前に「世俗的回心」について分析した。特にフロイトに関する論考の中で、彼の関心はある類似した思考−−彼はそれを「下向きの回心」8 と呼んだ−−に絶えず向けられていた。
バークが設定した語意の枠組みを取り去れば、この巧みな言い回しは、現代の再生概念を表す適切な表現として流用できる。文学・美術・政治・宗教どの分野においても、人々は活力をプリミティヴィズム(原始性)の内に求めている。つまり、活力を下から引き出そうとしている。彼らは、法を破れば破るほど生命力が溢れてくると考えている。男性のインポテンツを治す特効薬として大変人気があるのが、この下降探索である。衰え行く性的能力を回復する手段として、まず同性愛が奨励される。
「下向きの回心」は、なぜサドがあらゆるものの内でも「最高の汚れ」の行為にふけったのかを説明する。あらゆる倒錯は汚れであり、基準から乖離すればするほど、また、神の法秩序に対する攻撃が入念であればあるほど、「混乱」は増し、喜びも増す。サドは、下向きの回心の古典的な例である。彼は、神に対して激しい敵意を燃やしていた。どのような行為においても、律法違反の度合いが大きければ大きいほど、喜びは増し加わった。ソーントンは次のように述べている。
他にもマゾヒズムとして有名な事例がある。例えば、患者個人が、「ユーロラグニア」や「コプロラグニア」のような最悪の行為にまで自分をおとしめたいと願うことがある。これらの言葉はそれぞれ「尿を飲むこと」「便を味わい食べること」を意味する。自分を汚せば汚すほど、自分の人間性をおとしめればおとしめるほど、真正マゾヒストは幸せになる。9
このような行為の目的は、人間の内にある神の似姿を損ない、人間は動物に過ぎないことを証明することにある。
人間を動物にまでおとしめる願いは、進化論信仰の一部である。大衆に人気のある本が、それを目的として書かれている。デズモンド・モーリスのベストセラー『裸のサル』(1968年2月 Book-of-the-Month Club selection)は最も人気を博したもののひとつである。ボルシェビキ革命がソビエト連邦を樹立してまもなくの頃、何百万ルーブルもの資金を投入して、ある科学調査団をアフリカに派遣した。人間とサルの交配実験を行うためであった。イリヤ・イヴァノヴィッチ・イヴァノフ教授とその調査団は、サルと人をかけあわせ、新しい人種を作ろうとした。それは、ソビエトロシアという敵神的社会の信条を証明するためであった。
もちろん、この1925年の調査は失敗に終わった。ソビエトのマスコミは一年後に、「イヴァノフと彼の雌ザルを乗せて帰国途中の蒸気船が黒海で遭難したもよう」と伝えた。船は「乗客全員」とサルを乗せて沈没したと報じられた。何が起こったにせよ、その失敗を伝える生存者はだれも残っていない。10 現在、人間を動物のレベルにまでおとしめるために、さらに洗練された手段が求められている。
今日、ポルノ映画が制作され、広範囲に売られている。その中で、獣姦行為が数多く描かれている。獣姦の入門書が広告に掲載されている。この倒錯は組織的に宣伝され、様々なグループのために、動物が調教されている。
人間中心主義者たちは、あれやこれやの手段で−−哲学的方法や倒錯的行為を通じて−−カオスを求める。彼らは、カオスを通して自らを復活させることを願っている。
終わりに:1969年に、獣姦のテーマを扱った映画が制作された。ある農夫とブタの「恋物語」を描いた映画であった。観客はそのセックス映画のどの部分も見ることができなかった。というのは、報道によれば「動物虐待防止協会」が、ブタを保護するために、その撮影の間中近くで監視の目を光らせていたからである。