聖書律法綱要

 


序論

第三節  法の方向



  聖書律法を理解するために、その基本的な性格をも理解する必要がある。第一に、ある広い前提と原理が宣言される。これらは基本法の宣言である。十戒はこのような宣言をわれわれに与える。したがって、十戒は法の中の法ではなく、基本法である。その基本法に対して、諸法律は具体的判例法として位置付けられる。そのような基本法の例は、出エジプト記20章15節(申命記5章19節)「盗んではならない。」である。

  この戒めを分析すると、次の点を確認する必要がある。イ)これは、肯定的な意味で、私的財産の確立であり、否定的な意味で、財産に関する犯罪への刑罰を規定する。このように、十戒は生活の基本的な領域を確立し、保護する。しかし、ロ)この戒めに関してさらに重要な点は、私的財産が確立されるのは国家や人間によってではなく、至高かつ全能なる神によってであるということである。十戒はすべてその起源を至高の主としてご自身の領域を支配するために法をお定めになった神に置く。さらに、その結果、次のように言うことができる。ハ)神が律法をお定めになったので、その法に対する違反は全て、神に対する違反である。法は、それがどの様な領域に関するものであれ、例えば、財産、人格、家族、労働、資本、教会、国家、etc.…を対象とする法であっても、まず神との関係が1番重要なのである。全てのものと全ての人間は神の被造物なので、本質的に、法を破ることは神に対する反逆なのである。しかし、ダビデは、自分の姦淫と殺人の行為に関して次のように宣言した。「あなたに、ただあなたに対して私は罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました。」(詩篇51・4)これは、次のことを意味する。ニ)無律法は罪である。すなわち、社会に関することであれ、家族に関することであれ、はたまた教会に関することであれ、どの様なことに関しても、不従順は宗教的罪である。もし、神に対して従順であるためにこれらに関して不従順でなければならないのであれば話は別だが…。

 第一に、「法は広範かつ基本的な原則を与える」という点を念頭に置いて、聖書律法の第二の性質、すなわち、「法の大部分は判例法\具体的な判例に関して適用すべき基本原理の例証\である」ということについて、調べてみよう。これらの具体的判例はしばしば法の適用の範囲の例証となっている。すなわち、最も小さな例を引用して法の正しい運用方法が明らかにされている。われわれがこの概念を理解し利用しそこなった時、言い訳をさせないため、聖書はわれわれにその法に対する聖書自身の解釈を示している。また、その例証は、パウロによって与えられ、新約聖書による確証を明らかにしている。このため、われわれは、第一に基本的原則を引用し、第二に、判例法を、第三に、パウロによる法の適用の宣言を扱うことにする。

1、盗んではならない(出エジプト20・15)。基本法。原則の宣言。

2、穀物をこなしている牛にくつこをはめてはならない(申命記25・4)。基本法の例証。判例法。

3、というのは、「穀物をこなしている牛にくつこをはめてはならない」とモーセの律法に書いてあるからである。いったい神は、牛のことを気に掛けているのだろうか。それとももっぱらわたしたちのためにこのように言われたのだろうか。もちろん、わたしたちのためにこう書いてあるのである。なぜなら、耕すものが望みをもって耕し、脱穀するものが分配を受ける望みをもって仕事をするのは当然だからである。…同じように、主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活の支えを得るように定めておられます(第一コリント9・9、10、14、9・1−14の全体が律法の翻訳である)。

 というのは、聖書に「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」また、「働き手が報酬を受けることは当然である。」と言われているからである。(Iテモテ5・18、参照17、その例証は、長老すなわち教会の牧師が『尊敬』または『2重の尊敬』を受けるべきであることを支持するために書かれている。)これらの2つの文は、「盗んではならない。」という戒めを、具体的判例法を用いながらその判例法の適用範囲を指し示すことによって、例証している。テモテへの手紙の中で、パウロは判例法によって「働き手が報酬を受けるのは当然である。」ということを事実上宣言している律法に言及している。その言及する箇所は、レビ記19・13節「あなたの隣人をしいたげてはならない。かすめてはならない。日雇人の賃金を朝まで、あなたのもとにとどめていてはならない。」と、申命記24章14節「貧しく困窮している雇人は、あなたの同胞でも、あなたの地で、あなたの町囲みのうちにいる在留異国人でも、しいたげてはならない。」(参照15節)この律法はイエスによって引用されている「働く者が報酬を受けるのは、当然だからである。」(ルカ10・7)。

 牛を騙して糧を奪うのは罪であり、人を騙して賃金を奪うことも罪である。これらはどちらも盗みである。もし、盗みが動物に対する罪のリストの中に入っているとすれば、まして、神の使徒や牧師に対する罪ともなることは明らかなのである。そして、さらに神から盗む罪はもっと致命的なのである。マラキはこの事を明らかにして次のようにいっている。

   人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしの ものを盗んでいる。しかも、あなたがたはいう。「どのようにして、わた したちはあなたのものを盗んだだろうか。」それは、十分の一と奉納物 によってである。あなたがたは呪いを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。十分の一をことごとく、宝物蔵に携えてきて、私の家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。−万軍の主は仰せられる。−わたしがあなたがたのために、天の窓を開 き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかを試してみよ。、 わたしはあなたがたのために、いなごを叱って、あなたがたの土地の産物 を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。−万軍の主は仰せられる。−すべての国民は、あなたがたを幸せ者と言うよ うになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。」と万軍の主は仰せられる(マラキ3・8−12)。



 判例法のこの例は、聖書の判例法の意味を例証するだけではなく、その必要性をも例証している。判例法がなければ、神の律法はすぐさま極端に限定された意味に解釈されてしまう。もちろんこれは実際にそう解釈されてきた。十戒から離れて、律法の今日的価値を否定するものは、結果として、盗みの罪の意味を非常に狭く限定してしまう。彼らの定義は通常彼らの国の市民法に従うものであったり、ヒューマニズム的であり、回教徒や、仏教徒、ヒューマニストの定義とまったく変わらないものとなる。しかし、後程第八戒「盗んではならない」を例証する判例法を分析する際に、この戒めがどの範囲まで扱っているのかについて見ることにしよう。

 律法は、第一に、原理を主張し、第二に、それらの原理を発展させる判例を引用する。そして、第三に律法は、神の秩序の回復をその目的と方向性として持つ。

 この第三の面は、聖書律法にとって重要であり、それは再び聖書律法とヒューマニズム的法のあいだの違いを示す。ある学者によれば、「真実で正しい意味で、正義とは、主観的存在の間の調整の原理である。」10

このような正義の概念はただ単にヒューマニズム的であるのみならず、主観的でもある。そこには、正義の基礎的な客観的秩序ではなく、単に、正義と呼ばれる感情的な状態しかない。

 ヒューマニズム的な法体系において、償いは可能であり、しばしば存在する。しかし、それは神の基礎的秩序の回復ではなく人間の状態の回復である。償いは、もっぱら人に対するも。2 聖書律法は被害者に対する償いを規定しているが、それ以上に基本的なのは神の秩序を回復することに対する要求なのである。償いに関して有効的なのは法の法廷だけではない。聖書律法にとって、償いは、実に、イ)法廷で犯罪者が要求されるものであるが、さらに、ロ)律法全体の目的と志向するところであり、神の秩序の回復、そして、創造者に仕えそのみ栄えを現す栄光に満ちたすぐれた被造物の回復なのである。さらに、ハ)神の至高の法廷と律法は、どのようなときでも償いのために働き、不従順を呪い、不従順なものたちが企む神の秩序に対する挑戦と破壊を妨げ、神の秩序を回復しようとする従順なものを祝福し、繁栄させる。われわれの例証に戻るならば、十分の一に関するマラキの宣言は、この事を含んでおり、実に、それをあからさまに述べている・「彼らは神から神の十分の一を奪ったので『呪いによって呪われている。』」

 神の回復の目的に反して働くので、彼らの畑は産物を出さない。神から奪うのではなく、逆に神をほめたたえながら、神の十分の一税を支払うものは神の祝福に溢れんばかりに豊かに満たされる。「溢れんばかりに」というのは適当な表現である。「天の窓を開き…」という表現は、呪いの中心的な例である大洪水(創世7・11)を思い起こさせる。しかし、呪いの目的もまた回復である。というのは、呪いは神の秩序を覆そうとする悪者の業を阻止するからである。神は、ノアを通して回復の業を開始されるため、ノアの世代の人々が神の秩序に逆らおうとしたので、彼らをその悪い思いの中で滅ぼしてしまわれたのである(創世6・5)。

 しかし、聖書律法の最初の例に戻るならば、「盗んではならない」。新約聖書は、ザアカイが不法に税金を取り立てていた罪の正しい解決は償いであると教えている(ルカ19・2−9)。というのは、彼が不正に奪い取ったものをすべて償いますといった後で彼は救われたと宣言されたからである。償いは山上の説教の中ではっきりと語られている(マタイ5・23−26)。ある学者によれば、 エペソ4章28節において、パウロは、償いの原理がどの様に発展しているかを示している。泥棒であったものは盗みをやめるだけではなく、不正に奪い取ったものを償うため自分の手で働かなければならない。しかし、盗んだ相手が見付からない場合には、弁償金は貧しい人々に施さなければならなかった。3

 神との関係で、償いとか回復の事実は3通りに述べられている。第一に、神の至高の律法が宣言され、律法が正しく回復される。バプテスマのヨハネは、彼の説教によって、神の民の生活に律法を回復した。イエスはそのことについて次のようにいった。「エリヤがきて、すべてのことを立て直すのである。しかし私は言いる。エリヤはもうすでに来たのである。しかし彼らはエリヤを認めようとせず、…」(マタイ17・11、12)。第二に、万物をキリストに服従させ地上に神の秩序を築き上げることによってやってくる回復が存在する(マタイ28・18−20、I第一コリント10・5、黙11・15、等)。第三に、キリストの再臨のときに、完全な最終的な回復が実現する。歴史はこの再臨に向かって前進しており、再臨は、「万物の回復のとき」(使徒3・21)の唯一の出来事ではなく、総合的な、そして回復が最高に達したときの出来事なのである。

 神がアダムと結ばれた契約は、アダムが、神の下で神の法に従うことによって、地上に正しい支配を行い、地を従える(創世1・26以降)ことを要求した。人間と神のこの関係は契約であった(ホセア6・7、参照・欄注)。

しかし、聖書全体は人間がいつも神との契約関係にあるという事実の土台の上に立っているという真理から出発している。パラダイスにおけるアダムに対する神のお取扱はすべてこの関係を前提としている。神はアダムと語らい、ご自身を彼に顕し、日の風の中でアダムは神のご臨在を感じた。その上、救いは、常に神の契約の確立と実現としてある…。

 …この契約関係はなにか偶然によるものであったり、ある目的のための手段であったり、協議によって決定された関係ではなく、アダムが神の創造によって神の御前に立った基本的な関係なのである。4

 その契約的関係の回復はキリストの御業であり、ご自身の選びの民に対するキリストのみ恵みである。契約の成就は彼らの偉大な任務である・万物とあらゆる国民をキリストと彼の御言葉に服従させることなのである。

 創造命令とは、人間は地を従え、その上に正しい支配を実行することである。この命令が廃棄されたことを示す箇所は聖書の中でどこにもない。かえって、この命令は実現されなければならないし、また実現されるであろう。そして、イエスによれば、「聖書は破棄されるべきではない」のである(ヨハネ10・35)。それを破棄しようとするものは、自分自身が滅ぼされてしまうことになる。5




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