人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしの ものを盗んでいる。しかも、あなたがたはいう。「どのようにして、わた したちはあなたのものを盗んだだろうか。」それは、十分の一と奉納物 によってである。あなたがたは呪いを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。十分の一をことごとく、宝物蔵に携えてきて、私の家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。−万軍の主は仰せられる。−わたしがあなたがたのために、天の窓を開 き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかを試してみよ。、 わたしはあなたがたのために、いなごを叱って、あなたがたの土地の産物 を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。−万軍の主は仰せられる。−すべての国民は、あなたがたを幸せ者と言うよ うになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。」と万軍の主は仰せられる(マラキ3・8−12)。
判例法のこの例は、聖書の判例法の意味を例証するだけではなく、その必要性をも例証している。判例法がなければ、神の律法はすぐさま極端に限定された意味に解釈されてしまう。もちろんこれは実際にそう解釈されてきた。十戒から離れて、律法の今日的価値を否定するものは、結果として、盗みの罪の意味を非常に狭く限定してしまう。彼らの定義は通常彼らの国の市民法に従うものであったり、ヒューマニズム的であり、回教徒や、仏教徒、ヒューマニストの定義とまったく変わらないものとなる。しかし、後程第八戒「盗んではならない」を例証する判例法を分析する際に、この戒めがどの範囲まで扱っているのかについて見ることにしよう。
律法は、第一に、原理を主張し、第二に、それらの原理を発展させる判例を引用する。そして、第三に律法は、神の秩序の回復をその目的と方向性として持つ。
この第三の面は、聖書律法にとって重要であり、それは再び聖書律法とヒューマニズム的法のあいだの違いを示す。ある学者によれば、「真実で正しい意味で、正義とは、主観的存在の間の調整の原理である。」10
このような正義の概念はただ単にヒューマニズム的であるのみならず、主観的でもある。そこには、正義の基礎的な客観的秩序ではなく、単に、正義と呼ばれる感情的な状態しかない。
ヒューマニズム的な法体系において、償いは可能であり、しばしば存在する。しかし、それは神の基礎的秩序の回復ではなく人間の状態の回復である。償いは、もっぱら人に対するも。2 聖書律法は被害者に対する償いを規定しているが、それ以上に基本的なのは神の秩序を回復することに対する要求なのである。償いに関して有効的なのは法の法廷だけではない。聖書律法にとって、償いは、実に、イ)法廷で犯罪者が要求されるものであるが、さらに、ロ)律法全体の目的と志向するところであり、神の秩序の回復、そして、創造者に仕えそのみ栄えを現す栄光に満ちたすぐれた被造物の回復なのである。さらに、ハ)神の至高の法廷と律法は、どのようなときでも償いのために働き、不従順を呪い、不従順なものたちが企む神の秩序に対する挑戦と破壊を妨げ、神の秩序を回復しようとする従順なものを祝福し、繁栄させる。われわれの例証に戻るならば、十分の一に関するマラキの宣言は、この事を含んでおり、実に、それをあからさまに述べている・「彼らは神から神の十分の一を奪ったので『呪いによって呪われている。』」
神の回復の目的に反して働くので、彼らの畑は産物を出さない。神から奪うのではなく、逆に神をほめたたえながら、神の十分の一税を支払うものは神の祝福に溢れんばかりに豊かに満たされる。「溢れんばかりに」というのは適当な表現である。「天の窓を開き…」という表現は、呪いの中心的な例である大洪水(創世7・11)を思い起こさせる。しかし、呪いの目的もまた回復である。というのは、呪いは神の秩序を覆そうとする悪者の業を阻止するからである。神は、ノアを通して回復の業を開始されるため、ノアの世代の人々が神の秩序に逆らおうとしたので、彼らをその悪い思いの中で滅ぼしてしまわれたのである(創世6・5)。
しかし、聖書律法の最初の例に戻るならば、「盗んではならない」。新約聖書は、ザアカイが不法に税金を取り立てていた罪の正しい解決は償いであると教えている(ルカ19・2−9)。というのは、彼が不正に奪い取ったものをすべて償いますといった後で彼は救われたと宣言されたからである。償いは山上の説教の中ではっきりと語られている(マタイ5・23−26)。ある学者によれば、
エペソ4章28節において、パウロは、償いの原理がどの様に発展しているかを示している。泥棒であったものは盗みをやめるだけではなく、不正に奪い取ったものを償うため自分の手で働かなければならない。しかし、盗んだ相手が見付からない場合には、弁償金は貧しい人々に施さなければならなかった。3
神との関係で、償いとか回復の事実は3通りに述べられている。第一に、神の至高の律法が宣言され、律法が正しく回復される。バプテスマのヨハネは、彼の説教によって、神の民の生活に律法を回復した。イエスはそのことについて次のようにいった。「エリヤがきて、すべてのことを立て直すのである。しかし私は言いる。エリヤはもうすでに来たのである。しかし彼らはエリヤを認めようとせず、…」(マタイ17・11、12)。第二に、万物をキリストに服従させ地上に神の秩序を築き上げることによってやってくる回復が存在する(マタイ28・18−20、I第一コリント10・5、黙11・15、等)。第三に、キリストの再臨のときに、完全な最終的な回復が実現する。歴史はこの再臨に向かって前進しており、再臨は、「万物の回復のとき」(使徒3・21)の唯一の出来事ではなく、総合的な、そして回復が最高に達したときの出来事なのである。
神がアダムと結ばれた契約は、アダムが、神の下で神の法に従うことによって、地上に正しい支配を行い、地を従える(創世1・26以降)ことを要求した。人間と神のこの関係は契約であった(ホセア6・7、参照・欄注)。
しかし、聖書全体は人間がいつも神との契約関係にあるという事実の土台の上に立っているという真理から出発している。パラダイスにおけるアダムに対する神のお取扱はすべてこの関係を前提としている。神はアダムと語らい、ご自身を彼に顕し、日の風の中でアダムは神のご臨在を感じた。その上、救いは、常に神の契約の確立と実現としてある…。
…この契約関係はなにか偶然によるものであったり、ある目的のための手段であったり、協議によって決定された関係ではなく、アダムが神の創造によって神の御前に立った基本的な関係なのである。4
その契約的関係の回復はキリストの御業であり、ご自身の選びの民に対するキリストのみ恵みである。契約の成就は彼らの偉大な任務である・万物とあらゆる国民をキリストと彼の御言葉に服従させることなのである。
創造命令とは、人間は地を従え、その上に正しい支配を実行することである。この命令が廃棄されたことを示す箇所は聖書の中でどこにもない。かえって、この命令は実現されなければならないし、また実現されるであろう。そして、イエスによれば、「聖書は破棄されるべきではない」のである(ヨハネ10・35)。それを破棄しようとするものは、自分自身が滅ぼされてしまうことになる。5