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聖書律法綱要

 


 カルヴァンによれば、「enallage は、『ひとりの預言者』という表現を多くの預言者を表すものとして使用している・・・。それがキリストだけを指すと考えている人々の意見はこれに劣らず誤っている」。14 この箇所が一般の預言者について述べており、20−22節において、偽預言者が僭越な者と思われ、また、そのように呼ばれていることは明らかである。だから「彼を恐れてはならない」。

しかし、これと同じくらい明らかなのは、この言葉が、多くの偽仲介者ではなく、唯一の偉大な預言者であり仲介者なる主を表しているということである。すべての預言者は、主の言葉を話す唯一の預言者のために預言する。一人の真の神がおられるがゆえに、言葉は一つであり、預言者は一人である。預言者は皆、ひとりの預言者−三位一体の第二位格イエス・キリスト−のために語った。

 戒めは、「わたしの前にほかの神々を持ってはならない」である。現代の多神教的世界において、多くのほかの神々とは、多くの民を意味する。彼らは、各々が各々に対する神である。ヒューマニズムの下で、各人は自分自身の律法であり自分自身の宇宙である。無政府主義は個人的な信条であり、全体主義的国家主義は社会的信条である。なぜならば、多神教的世界において、強制によってしか人々をまとめることはできないからである。


 最近行われたソルボンヌの占拠の際に、ある学生が行動の入り口近くに貼られていた大きな「禁煙」の標識を外して、「あなたには喫煙する権利がある」と書いた。やがて、別の学生がそれにこうつけ加えた。「禁ずることを禁ず」。このスローガンは人気を博し、今や学生が占拠した多くの場所に掲げられている。ソルボンヌの大ホールには、高さ1フィートの文字でこのように書かれている。「私は、私の願望は真理であると思う。なぜならば、私は私の願望が真理であると信じているから」。15


 これらの無律法な学生たちは、彼らの行動を禁じたり、彼らにある行動を強いる権利のある者は誰もいないと主張していたが、その一方で、国民全体に強制を加えることに熱心であった。完全なる無政府状態は、完全なる強制を意味する。これは、復讐を伴うモロク礼拝である。つまり、これらの現代の破壊崇拝者たちの願望を満足させるには、社会全体が犠牲にならなければならない。

学生革命は、国家主義的教育の当然の結果であり、その極みである。子どもたちを国家に委ねることは、彼らを敵の手に渡すようなものである。渡された子どもたちは(新トルコ人の新軍のように)自らを生んだ社会に攻撃を仕掛け、それを破壊している。これは、大人たちのモロク崇拝に対して下った神の裁きである。唯一の真の神ではなく、異なる神々や異なる律法、異なる学校、異なる希望を持つことは、律法全体の裁きを招く。

 今日のわれわれの文化は、ギリシャ哲学者エンペドクレスの伝説に似ている。


 生前からエンペドクレスはカリスマ的な人物であった。デオドロスが述べるところによれば、月桂冠をかぶり、紫の衣を神のように身にまとい、金の履き物を履いていた。人間の中で最も高貴で、最も神に近い者は、預言者と医者である、と教え、自らこの二つを兼務していた。生ける神話と呼ばれた彼は、数々の伝説を生み出した。立証されてはいないが最も劇的な話は、エトナ火山に身を投げて自殺したことである。これは、神になりたい、少なくとも、神として拝まれたいとの願いからなされた自己犠牲の行為であった。山は後で金の履き物の片方を返してよこした、と言われる。16


 エンペドクレスの伝説と同じように、今日の世界も、自分をいけにえとして捧げることによって、自らを神にしようと求め続けている。


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