第7戒


同性愛




 近年、反同性愛法を廃止し、合意の上であれば同性の二人が自由に性交渉できるように法律を改変しようという運動が盛んになってきている。1  この運動の推進者は、同性愛の正当化のために進化論を利用する。同性愛は、人間が進化の途上にある未成熟な存在であることを示し、ある特殊な家庭環境で育つと発現する形質である、と彼等は言う。2 同性愛は、「すべての人間がその進化の過程で通過しなければならない一段階」3  であり、「環境によって決定され」4 、困難な境遇に置かれた人間が男性らしさを失った結果生じる現象である。5  同性愛に関する理論は学者によってまちまちである。しかし、その研究方法は、進化論的・環境決定論的という点で一致している。6  バーグラー博士は、同性愛否定論者であるが、環境決定論の方法を採用し、倫理的・神学的方法を採らない。7  これらの学者たちの理論的前提は、明らかに反聖書的である。ある文化人類学者は、どんなに貞潔な人間にも「同性愛に陥る危険性が潜んでいる」8 と言っている。また別の学者は、少年が父親に対して抱く愛情は厳密に言えば同性愛である。同じ様に、彼が母親に対して抱く愛情は近親相姦である。9 と言う。

 どうやら性的倒錯の敵は、自ら性的倒錯者にならなければならないらしい!スウェーデンの医者、ウラースタムはさらにはっきりとした形でキリスト教倫理に真っ向から反対する。彼はあらゆる性的倒錯を熱心に弁護して次のように言う。「『性的倒錯』という言葉を死語にしよう。」なぜならば、「これは反啓蒙主義者やデマゴーグの要請のもとに作られた言葉だからだ。それは迷信に満ちており、侮辱的である。」10 彼は、性的倒錯は、その趣味の人々が幸せになれるのであるから善である、と言う。11 また、自分の友人に近親相姦者が増えていることは喜ばしいことだとも言っている。12 さらに彼は、近親相姦、露出狂、小児性愛、下着毀損趣味、疼痛性愛、同性愛、出歯亀、死体性愛、その他の性的倒錯を擁護し、「特に危険な性交渉は何か」というテーマを論じて次のように述べている。


あらゆる性交渉のうちで最も危険なのは異性間性交渉であり、社会に最悪の害を与える危険性を孕んでいる。しかし、異性間性交渉に対しては、これよりずっと穏健な種類の性交渉よりもはるかに規制が緩やかで、社会的保護が与えられているのである。また、人々がこのような危険な方法で自分たちの性的欲望を満足させていることは幸福かつ健康的な状態であるというようなことが一般に信じられているのである。だから、我々は、人々が異性間性交渉を止めて「倒錯」的性交渉に切り替えるように勧め、倒錯的性行為や刺激に対して性分泌物が分泌するように教え導かなければならないのである。このような教育は、ついには人口過剰問題への最終的解決策となり、近い将来全世界の関心の的になるであろう。13  


  イヴ・デ・サンアグネスは、ウラースタムの著書に次のような的を射た序文を寄せている。


今、スウェーデンは性革命の渦中にある。その第一の攻撃目標は倫理である。宗教戦争において、「大義のため」に暴力をふるった者に免罪符が与えられたが、古典的倫理観に対する聖戦においては、戦いに参加するすべての兵士に免罪符が渡されるのである。14 


 これは実に正直な発言である。彼が言うように、現在我々はキリスト教の信仰と倫理に戦いを挑む同性愛革命の渦中にいるのである。我々は、最近、「同性愛者は、世間から誤解され酷い扱いを受けているが、本当はナイーブでいい人々なのだ」というような宣伝を良く耳にするようになった。15 これは、そのような革命が進行していることの適切な証拠なのである。

 歴史的に見れば、同性愛者は、長い間様々な秘密結社と密接な関係を持つ秘密的、反社会的集団を形成していた。どんなに許容的な社会であっても、今日ほど公然と同性愛が認められた時代はなかった。ルイ14世は法廷でホモ組織の問題について取り扱わなければならなかったが、この類いの秘密組織の存在は昔から繰り返しいろいろな人々によって指摘されてきた。16

 一般の人々は、教会指導者や神学者ならば同性愛に対して否定的な見解を述べるに違いないと期待するのだが、今日このような期待は無残にも裏切られるのである。なぜならば、教会自体が同性愛運動の先陣を切っているからである。17 例えば、ある教会の牧師は、教会報に「クリスチャンはレズビアンを一人の人間として扱うべきであって、決して同性愛者として見てはならない」という趣旨の一文を載せた。つまり、この牧師は、同性愛問題を考察するに当たっては、神の意見は脇へ置いて、自律的・背信的な「人間の見解」を採用すべきである、と述べているのである。つまり、同性愛者に深く同情するように求めているのである。18 なぜ聖書が同性愛を禁じているかを示そうとして、ある人々は、空想的な理由を持ち出す。彼等はこの「問題」を、けっして聖書的・神学的な方法によって取り扱わず、むしろ、心理学的・進化論的な用語や基準を採用するのである。20 その結果、彼らは「同性愛の原因は環境にあり、罪にはない」と結論するのである。21 ティーリケは、「同性愛問題はもっぱら神学的に取り扱われるべきであり、それが聖書が命ずる唯一の方法である」ということを知っていたが、こと自分の研究方法に関して、彼は依然として人間中心主義的であった。22 

 この問題に神学的な分析を加える前に、まず、同性愛肯定論者の報告を元に、同性愛の基本的性格について考えてみたい。第一に、同性愛者は年を取ることや死ぬことに対して異常なまでの恐怖を感ずる。その結果、彼等は永遠の青年−とくに未熟な青年-を装って若い格好をしたり、若く振る舞ったりする。彼等は外見を若く見せようといつも必死である。この若さや未熟さに対する「崇拝」は、これらの性格を象徴するスタイルや、純真無垢な子供を連想させるようなスタイルを生み出すのである。ここに、「永遠の青年」という不道徳な世界が生まれるのである。成熟とは責任、法、基準を意味するので、同性愛文化の第二の性格は、下劣さを入念な工夫が施された高級なスタイルによってカモフラージュすることである。

 マルティン・ベンダーは、スーザン・ソンタグによる「キャンプ」趣味の分析を引用して次のように言う。


事実、「キャンプ」はイギリスにおいては40年前から、ニューヨークにおいては約10年前から、同性愛を表す隠語であった。
ソンタグ女史は、キャンプの50以上の定義を明らかにした。誇張されたものへの愛、浪費の精神、「内容を犠牲にしたスタイル」、そして悪趣味の中に良い趣味があるという考え。キャンプは真面目なものを否定し、下品なものや陳腐なものを評価する。キャンプ趣味として彼女が挙げた例は、オーブリー・ビアズリーの描画、ティファニーのランプ、羽毛の襟巻やビーズの飾りのドレスを含む20の婦人服、「1933年の採金坑夫」を始めとするバズビー・バークレーのミュージカルなどである。これらは、ファッションデザイナーやブティックオーナー、デパートの商店主らのバイブルになっている。23 


 これは同性愛的無律法主義の性格を顕著に表している。健全な基準を捨てて、恣意的で下品なスタイルを採用すること−−同性愛者はこのようなことに深い満足感を覚えるのである。彼等は、「このような手段を通じて、究極的な法秩序を覆し、人間の自律性を主張できる」と信じているのである。

 第三に、同性愛文化は家族制度に極めて敵対的であり、知的な方法で家族を弱体化し、地方文化をも破壊する。同性愛者がファッションやマスコミに対して広範な影響力を持っているため、西側諸国の精神と外観は寄生虫のような同性愛文化によって酷く汚染されている。同性愛文化の正典は現在、若さを崇拝するジェット族や24 芸術・ファッション界の人々、そして現代知識人の行動基準になっている。近代ヒューマニズム文化は同性愛文化によって広範囲に影響されているのである。フリーラブや夫婦交換は、同性愛的行為に強く影響されている。25

 第四、同性愛者は現実に敵対し、虚構の世界に生きているので、演劇に自己実現の夢を託し、そこに希望を見出だしてきた。ヘンリークスは、「ロ−マの演劇界と同性愛者との繋がりは、今日までヨーロッパの演劇界の中に伝統として残っている。」26 と言っている。また彼は、「演劇と売春との関係は中世に開花し、18世紀に隆盛を極めた。」27 とも語っている。

 律法に目を転じよう。聖書は同性愛を遠慮無く糾弾している。


あなたは女と寝るように、男と寝てはならない。これは忌みきらうべきことである。(レビ18:22)
男がもし、女と寝るように男と寝るなら、ふたりは忌みきらうべきことをしたのである。彼らは必ず殺されな ければならない。その血の責任は彼らにある。(レビ20:13)
イスラエルの女子は神殿娼婦になってはならない。イスラエルの男子は神殿男娼になってはならない。(申命23:17)


 これらの戒めは明確に同性愛を禁じており、新約聖書においてもこれらの戒めが変更されたり無効にされたことを示す箇所は一つもないことは明らかである(ロ−マ1:32において、パウロはこの戒めを確認している)。それにもかかわらず、神学者は事実上この律法を無視している。パウロはロ−マ1章18−32節において同性愛は神に対する最悪の背信行為であると言っている。パウロによる同性愛の描写の持つ意味は深遠である。


同じように、男も、女の自然な用を捨てて男同士で情欲に燃え、男が男と 恥ずべき事を行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのである。(ロ−マ1:27)
「燃え」と訳されている原語は ekkaio(焼き尽くす)である。28 つまり、同性愛は人間を焼き尽くす火なのである。この節の後半をウエストの翻訳にしたがって解釈すると、この箇所は次のような意味になる。彼らは「基準から逸れてしまった事の当然の結果として自分自身に報いを」29 受けてしまったのである、と。

 同性愛はこの様に最悪の背信的性行為であり、神に対する究極的敵対行為である。同性愛者は神と戦っているのである。そして、彼らの行為の一挙手一投足が神の自然の秩序と法を破壊しているのである。この様に、聖書は同性愛の神学的意味を強調している。歴史的に見れば、同性愛は、背信的国民や衰退期の文明において例外なく見られる現象である。これは時代の末期的現象と言えるのである。先に、ティーリケの意見を参照したが、もう一度彼の分析を見てみよう。彼はたしかに律法を引用するのだが、「現在律法は無効であり、それには何の意義もない」と信じている。


…旧約聖書が同性愛や男色を死罪と見なしていることに疑問の余地はない(レビ18:22、20:13)。しかし、同様な禁止命令をこの律法から引き出してクリスチャンに適用することができるのかどうかということになると、議論の余地がある。というのは、この禁止命令の背景には「祭儀的汚れ」の概念があって、旧約時代の祭儀律法が福音律法(Gospel Law)の下にいるクリスチャンを拘束することがはたして可能なのか、また可能であればどの程度可能なのかという問題がある限り、これらの旧約律法を即座に現代に適用することは難しいからである。30
 

 もし律法がなければ、福音もない。なぜならば、聖書においてこの二つは切っても切り離せない関係にあるからである。律法が排除されるとき、人間中心的で無道徳的な「愛の倫理」がはびこるのである。この倫理において第一に考慮されなければならないのは、神や神の律法ではなくて、究極的倫理基準−−人間−−である。驚くなかれ、ティーリケは次のようにも述べているのである。


他人を知る方法として、同性愛をキリスト教的方法と認めることはできない。しかし、それが他の人間の全体を知ろうとする試みの一つであることには変わりはないのである。この意見に同意できない人は、まだ同性愛によって体験できる深い友情を味わったことがないのである。さらに、セックスを単なる「肉体的欲望の満足」に引き下げてしまう倒錯的な考え方は、異性間性交渉の中にも見られるのであって、このような問題の責任をもっぱら同性愛にのみ押し付けることはできないし、そうする人は自分の無知をさらけ出すことになるのである。 31
 

 聖書が教えるところによれば、神を離れて行われる「他の人間の全体を知ろうとする試み」はすべて例外なく罪であり、堕落した行為である。それは裁かれる運命にある。神とその御言葉を敬わない人々は、このような探求方法に常に敬意を払うものである。

 ティーリケは同性愛の神学的意味を知っており、ロ−マ1章26f節の注解で次のように言っている。


神は、飽くまでも逆らい続ける傲慢な人々をその傲慢な態度の行き着く当然の結末に委ねることによって、御怒りを啓示しておられる。即ち、彼等が自ら選択した自律的世界の中に完全に放置してしまうことによって神は御怒りを明らかにしておられるのである。この自律的世界の中では、宗教的混乱は倫理的混沌をも生み出し、無限と有限が混同され、有限な被造物が絶対者なる神として祭り上げられるのである(ロ−マ1:23)。低劣なものが高尚なものと入れ替わり、被造物が創造主と入れ替えられた結果、低級な欲望が心の中で優位な地位を得るようになる。ここでパウロは、性的倒錯の意味を明らかにしている。即ち、人間の精神的転倒が、性的倒錯を生み出していると言うのである(ロ−マ1:26f)。
パウロの解説において、神学的に、また、宣教学的に重要なことは、縦の関係(対神関係)の乱れは、横の関係、即ち、対自関係(精神と肉体の関係)と対人関係を狂わす、ということである。32
 

 この解説の細部について論争するまでもなく、彼が次の点に気づいていたことは明らかである。つまり、この問題が「神学的」問題であるということである。しかし、ティーリケは、理解を得る上で、律法を参照せず、かえって、それを無視し、人間の問題を優先させてしまった。宗教改革が律法の問題にしっかりと取り組むことに失敗した結果が、このようなヒューマニズムの勝利という形で現れているのである。つまり、「人間は神の律法によって裁かれるのではなく、人間的基準によって、そして、自分の取った行動の純粋に人間的結果によって裁かれる」というのである。33 これはもはや神学ではなく、ヒューマニズム人類学である。

 同性愛はなぜ人間と自分自身に対する戦争でもあると言えるのか。それは、ティーリケの指摘のように、同性愛の神学的意味−−神との戦争−−のゆえである。

 現在ヒューマニストたちの間では、「同性愛は人間の性愛的発達の一過程であり、自然な現象である」と考えられているが、聖書は「同性愛は神に対する敵対行為であり、それゆえ自然に敵対する行為である」と見ているのである。それは不自然な行為−−つまり、自然の秩序に反する行為−−であって、堕落の究極的産物である。同性愛(ホモとレズの両方)の基盤となる敵対心については、バーグラー博士の広範な研究記録がある。マルキ・ド・サドは、同性愛者が神と律法に対して抱く敵愾心を示す古典的な例である。サドは、「法の支配は無政府状態よりも悪い。」34 と言う。サドが抱いていた全人類と自分自身に対する敵対心は、彼のサド行為やマゾ行為の中に表れている。神の秩序に反抗した結果、彼はあらゆる正常な性的関係を忌避したのであろう。彼の妻の子供達は本当に彼の子供達であったのか疑われている。35 発達阻害だとか未成熟などではなく、神に対する手の込んだ本格的な戦争こそ、同性愛を特徴づける第一の性格なのである。

 同性愛に対する神の刑罰は死刑である。神の御心に適った社会は、それを実行することを当然のことと考える。社会が同性愛に深く汚染されていれば、この刑罰を廃止しようとするのは当然であり、現代社会に死刑廃止の傾向があることも不思議ではない。

 最後に、女性の同性愛(レズビアン)は、男性の同性愛と同様に悪であるとされているが、死刑は適用されていない。死刑が適用されるのは男性の同性愛者に対してだけである。女性の同性愛は「汚れ」であり、離縁の理由になった(申命24:1)。なぜ女性には死刑が適用されないのだろうか。これには二つの理由がある。

 第一に、離婚規定において明らかなように、男性に与えられたより大きな権威はより大きな道徳的責任と罪に対するより大きな刑罰を伴うからである。第二に、男性は、神から道徳的権威を与えられているので、男性がその権威を軽んじて不道徳に走る場合、社会全体の道徳的退廃も加速するからである。同性愛は神に対する背信的精神の現れであるから、女性の同性愛において示された背信的状況を男性は正しい良心を以て矯正する資格がない。ホセアは、売春と姦淫について次のように宣告した。


私は、あなたがたの娘が姦淫をしても罰しない。また、あなたがたの嫁が 姦通をしても罰しない。それは男たちが遊女とともに離れ去り、神殿娼婦とともにいけにえをささげているからだ。悟りのない民は踏みつけられる。 (ホセア4:14)

 人々の堕落があるレベルに達すると、一人一人の罪人に対する刑罰が止み、刑罰は国民全体に下るようになる。社会が神の目的のために機能しなくなる時、神はその社会に敵対するようになり、裁きが下るのである。裁きは神から下り、社会全体は裁きの下に置かれる。同性愛文化は神に敵対しており、この戦いにおいて、和平交渉は絶対に有り得ない。我々にとって、モダニストや不信仰を公言する者たちが敵側の陣営にいることはなにも驚くに値しないが、「同性愛者は加害者ではなく、むしろ被害者であり、彼等は先天的または後天的に同性愛者になる素因や条件を持っていたのだ、だから彼等には罪がないのだ。」と主張するエセ福音主義者については、我々は何と言ったら良いのだろうか!ウォルフェンデンレポートやティーリケにイエスと言うことは、聖書にノーと言うことである。だが、これは、実際に某大手「福音主義的」雑誌の記事において採用された結論なのである。36 我々は「裁きは神の家から始まる」というペテロの言葉を思い出さなければならない(Iペテロ4:17)。

 教会が極めて不信仰な立場に立つとき、その不信仰な立場はすぐに他の組織によって引き継がれることに驚いてはならない。同性愛者の「平等権」獲得を目指す「コロンビア大学の学生組織」が「同様な組織をスタンフォード大学やカリフォルニア大学バークレー校にも作る計画があることを発表した。」37 と言う。アン・ランダースは人生相談のコーナーで次のように言った。


私が相談した同性愛の専門家によると、完治する見込みがまったくない同性愛者は、心理治療によってしばしば大きな益を受けるようである。その治療によって何もかも治って、彼等がすっかり普通の男性に戻れるわけではないのであるが襲ってくる罪悪感や羞恥心や自己破壊衝動から解放されて自分自身をありのまま受け入れることができるようになるらしいのである。 38
 

 これが心理治療の目的である。即ち、罪責感や羞恥心を持たずに罪を犯すことができるようになることである。不信者は公然と神に逆らう態度を取ることによって彼等の立場を正当化しようとするものである。(神の御言葉を宣べ伝えることを誓った教会のクリスチャンは自分の怠慢を正当化するためにこのような態度は取れないのである。)

 今日我々に直面する同性愛問題は、シェーファーの的を射た表現を用いるならば、「哲学的同性愛」という形で現れているのである。


今日の同性愛の形態は…単純な同性愛ではなく、哲学的な同性愛であると言える。我々は普通の同性愛問題については良く知っているが、現代の同性愛の多くはテーゼ(正)とアンチテーゼ(反)の対立的思考法の否定なのである。即ち、男性と女性の間の区別を撤去し、男性と女性の相互補完的な関係を否定するのである。これが絶望の境界線を越えた同性愛運動の形態なのである。しかしこれはある特別な人々だけの問題ではない。それは我々を取り巻く時代的精神なのである。クリスチャンは、絶対というものを否定した結果我々の回りでどの様なことが起こっているのかを理解しなければならないのである。39 


 ここで付け加えなければならないのは、同性愛と名の付くものはすべて哲学的であると言うことである。これが、「同性愛問題」の真の性格なのである。

 あなたの回りに、自分はクリスチャンであり、他の人々にも自分がクリスチャンであることを認めてもらおうとしている同性愛者がいるならば、あなたは一つの選択をしなければならない。その同性愛者の言葉を信じるのか、それとも、ロ−マ人への手紙1章の神の御言葉を信じるのか。



1. For an early example, see Morris Ploscowe, Sex and the Law (New York:Prentice Hall,1951), pp.212-215.

2. See Nathan Blackman, M.D., "Homosexuality,Genesis of," in Edward Podolsky, M.D., editor, Encyclopedia of Aberrations (New York: Philosophical Library,1953), pp.271-274; Richard C.Robertiello, M.D., Voyage from Lesbos (New York: Avon Books,1959).

3. Frank S.Caprio, M.D., Female Homosexuality, A Psychodynamic Study of Lesbianism (New York:Grove Press,1954), p.302.

4. Ibid., p.303.

5. Abraham Kardiner, Sex and Morality (London: Routledge and Kegan Paul,1955, pp.160-192.

6. See Irving Bilber, editor, Homosexuality, A Psychoanalytic Study (New York: Basic Books,1962).

7. Edmund Bergler, M.D., Homosexuality: sDisease or Way of Life? (New York: Hill and Wong,1957); and couterfeit Sex,Homosexuality,Impotence, Frigidity (New York: Grove Press,1951,1961).

8. H.R.Hays, The Dangerous Sex, p.169.

9. G.Rattray Taylor, Sex in History (New York: Vanguard Press,1954), p.81

10. Lars Ullerstam, M.D., The Erotic Minorities (New York: Grove Press,1966), p.351.

11. Ibid., pp.43, 82f.   13. Ibid., p.163.

12. Ibid., p.46.           14. Ibid., p.vi.

15. See R.E.L.Masters, The Homosexual Revolution (New York:The Julian Press,1962); Floyd Dell, Love in the Machine Age (New York:Farrar & Rinehard, 1930); Diana Frederics, Diana: A Strange Autobiography (New York: Citadel,1939,1944).

16. Richard Lewinsohn, A History of Sexual Customs, pp.222ff., 340ff. 17. A major document in the new morality has been Toward a Quaker View of Sex(London: Friends Home Service Committee,1964).

18. Del Martin and Phyllis Lyon,"The Realities of Lesbianism," in Motive, vol.XXIX, nos.6 & 7 (March-April,1969), pp.61-67. See on this issue, "When Are Church Magazines Obscene?" in The National Observer,vol.8,no.32 (August 11,1969), pp.1,15.

19. Derrick Sherwin Bailey, Sexual Relations in Christian Thought (New York: Harper & Brothers, 1959), p.242.

20. William Graham Cole,Sex in Christianity and Psychoanalysis(New York:Oxford University Press, 1955), pp.269-277.

21. William Graham Cole,Sex and Love in the Bible, p.359.

22. Helmut Thielicke,The Ethics of Sex(New York:Harper & Row,1964), pp.269-292.

23. Marilyn Bender,The Beautiful People(New York:Dell,1968), p.29. On the fear of death and aging see p.27f; on homosexuals and fashions, see pp.231, 282.

24. Lanfrance Rasponi,The International Nomads, p.78ff.

25. Roger Blake, The Free-Love Groups, pp.60,140.

26. Fernando Henriques, Prostitution and Society, Primitive, Classical and Oriental(New York:Grove Press,1962,1966), p.105.

27. Fernando Henriques, Prostitution in Europe and the Americas (NewYork:The Citadel Press,1965), p.167.

28. Kenneth S.Wuest,Romans in the Greek Nwe Testament (Grand Rapids:Eerdmans,1955), p.36.

29. Ibid.

30. Helmut Thielicke, Ethics of Sex, p.277f.

31. Ibid.,p.271f. 32.I bid.,p.279f. 33. Ibid., pp.287-292 34. Cited by Simone de Beauvoir,in Sade, The 120 Days of Sodom, etc., p.49.

35. Ibid.,p.24.

36. B.L.Smith, "Homosexuality in the Bible and the Law" in Christianity Today, vol.XIII, no.21 (July 18,1969), p.936.

37. "Homosexual Group OK'd at Columbia,"Palo Alto Times (California), Thursday, May 4, 1967, p.2.

38. Ann Landers, Los Angeles Herald-Examiner, Sunday, October 6,1968, p.G-4. アン・ランダーズがどの程度この見解に固執しているかは、次の助言を読めば明らかである。「精神の歪んだ息子を持つ悲嘆にくれた母親への親展: そうである。私が、精神科医の助言を求めることをお勧めするのは、息子さんのためであるというよりも、お母さん自身のためなのである。息子さんは同性愛者であるという事実と共存することを学びました。実際、彼は大変上手に適応してきたようである。今度は、あなたが彼をありのままに受け入れる番である。けっして、ご自分を苦しめないように。」Ann Landers, LosAngels Herald-Examiner, Monday, September 1,1969, p.A-14.

39. Francis A. Schaeffer, The God Who Is There (Chicago: Inter-Varsity Press,1968), p.39.

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