聖書律法綱要
すでに見たように、十分の一はレビ人の手に入り、彼らはその内の十分の一を祭司に渡した。したがって、十分の一のほんの小さな部分だけが祭司の手に入り、礼拝を維持するために用いられた。荒野の時代に、レビ人たちは幕屋を管理し、それを移動するという重要な務めを担っていたが、後で、これらは廃止された。レビ人はさらに広範な社会的任務を負うことになった。預言者はこれらの広範な務めについて批判したり、それらを廃止するように求めたことはなかった。
これは、それらの務めが神の召しによるものであることを示している。レビ人は、神の選びによれば「初子」の種族であり、それゆえ、初子として基礎的な役割を担う種族となった。言葉の意味を広くとれば、この役割は統治的な務めであったと言える。「杓」はユダ族に与えられたが(創世記49・10)、他の点において、レビ族は長子の種族であり、統治的任務を帯びていた。したがって、国家(ユダ族と王位)と広範な統治的任務(レビ族)との間には「基礎的な権力の分担」が存在した。この分担は、統治的な要素としての十分の一が消滅した時に廃止された。
中世期及び宗教改革期のヨーロッパにおいて、広範な統治的機能は十分の一の世界に属していた。 十分の一税は、地方教会や教区にも支払われた。このことは忘れられてはならない事実である。エドムントの法律は、942年から946年にわたってロンドンのある集会において発布された。そこにはこのように記されている。「すべてのキリスト教国に住むクリスチャンは、十分の一税と、教会税、ペテロ献金[教皇への献金]、耕作寄付plough-alms を支払わなければならない。支払いを拒否する者は、だれでも除名処分となる。」エセルレッドの法(1008年)の第一1章において、次のように宣言されている。
教会税は、毎年すぐに納められなければならない。すなわち、イースターの2週間後に耕作寄付を、ペンテコステに新しく生まれた家畜の中からその十分の一を、諸聖人の祝日のミサに地の産物の十分の一を、ペテロのミサにペテロ献金を、1年に3回灯火税を納めなければならない。30
聖書は、十分の一税の納税を命じている。それは、神的社会の基本法である。十分の一税の意味を完全に理解するには、聖書において「所得税はまったく要求されていない」という事実を知らなければならない。不動産に関して、国家は徴税権を有しない。なぜならば、この世に国家が徴税できる土地など存在しないからである。「土地は主のものである。」(出エジプト9・29、申命記10・14、詩篇24・1、第一コリント10・26等)
土地に課税することができるのは、神おひとりだけである。土地に対する課税権を主張する時に、国家は神であり土地の創造者であることを主張している。しかし、国家は、神の僕であり、正義のために働くように召されている(ローマ13・1−8)。神の領域を侵すことによって、国家は神の裁きを招く。
国家は土地に課税することはできないこの原則が徹底されるならば、われわれは自由を獲得することができる。土地から追い立てられることがないので、すべての人は財産を失わず、安定した生活を営むことができる。ランドは次のように述べている。
土地に課税されることがないので、主の律法の下において、財産が奪われることはない。土地を永久に失う恐れがないので、どんなに無責任な男でも、家族に財産を相続させないということがなくなる。31
土地は国家の財産ではないし、その支配の下に置かれるべきものでもない。それゆえ、国家は神の土地に対して徴税する権利がない。さらに、国家は、神と並んで所得の十分の一を徴収することができると主張できないそれは、国家が神に対して背信の罪を犯している証拠であり、専制を行っていることのしるしなのだ(第一サムエル8・4−19)。 もちろん、現代の国家は、十分の一どころか十分の三、十分の四を要求している。
十分の一税は、神への進物では「ない」。それは、土地を使用させてもらったお返しに、[持ち主である]神に対して当然支払うべき代価である。土地は、あらゆる点において、神の法とその支配下にある領域である。主への支払いが10パーセントを越えた時にのみ、捧げ物は「進物」とか「自由意思による捧げ物」になる(申命記16・10、11、出エジプト36・3−7、レビ記22・21等)。
何世紀もの間、十分の一税の納税は法律で義務づけられていた。国家は、教会に十分の一税を支払うように法的に強制していた。バージニア州が、十分の一税の納税義務法を廃止したときに、ジョージ・ワシントンは、ジョージ・メイソンに宛てた1785年10月3日付の手紙の中で、その決議に反対の意を示し、「自分たちが告白している信仰を支えるために人々から金を徴収すること」32 はごく自然のことであると、述べた。政府が十分の一税の納税を強制するようになったのは、4世紀からのことである。
このような政策が実施されるようになったのは、「神に対して税金を支払わない国は必ずや滅亡の危機に追いやられる」という信仰があったからであった。18世紀の終わり頃から、この法律は徐々に廃止されるようになった。これは、無神論や革命運動の影響によるものであり、この傾向は、特に近年になって顕著になった。「抑圧的」な税金から人々を解放するというふれこみで行われた改革であったが、人々を解放するどころか、逆に、真に抑圧的な徴税に道を開いてしまった。
かつて社会的な責任は、十分の一税によって維持されていたが国家がその務めを請け負うことになった。社会の基礎となる諸制度を維持するためには、どうしてもお金がかかる。もし責任のあるクリスチャンが十分の一税によって支払うのでなければ、専制的な国家がそれを肩代わりするようになる。国家は、全体主義的な権力を手に入れる手段として福祉や教育を利用するようになる。
ランズデルは、このことに関して次のように述べている。
この問題を啓示の光に照らして見ることにしよう。さらに、恐らく古代のすべての民族に共通していたと思われる経験から推察することも益になるだろう。人に収益があった場合、彼はその一部を神に捧げなければならない。これを拒否するならば、彼はほとんど霊的な無政府主義者に等しい。
収入の十分の一を捧げきることができない人は、みな泥棒であると聖書に記されている。マラキの時代において十分の一税の不払いが泥棒呼ばわりされているのであれば、なおさら今日の十分の一の支払いを拒むクリスチャンは、どうして神に対して誠実であるということができるのであろうか。
正しく捧げることは、正しい生活の一部なのである。正しい捧げ物ができなければ、正しい生活をしていることにはならない。神の受けるべき配分を自分のために遣っている人は泥棒であり、彼は正しい捧げ物をしていない。33
ソ連において、宗教団体の慈善活動は厳しく取り締まられる。このことは大変重要な意味を持っている。34 なぜならば、もし教会が、教会内部や社会の中の病人や貧困者に対して救済活動を行い、資金や物品を集めるならば、すぐに国家とは独自の勢力を形成することになるからである。教会は、独自に社会の諸問題を解決する大きな権力を持つようになる。
さらに、このような活動を通じて、教会は、国家の救助活動よりもはるかに直接的かつ有効な力強い援助を行うことができるようになる。こうなると、国家としては、自分の威信を酷く傷つけられることになる。それゆえ、民主主義国家においては、孤児院の建設は国家の規制の主要なターゲットとなってきた。教会はこの事業から閉め出されてきた。慈善活動は、全体主義的権力確立の主要な手段として国家に占有されることになった。
ランズデルの言うように、十分の一税を納めない者は、霊的な無政府主義者である。彼らは自由と社会の秩序を破壊し、国家主義という悪魔を解き放つ。
l . Geerhardus Vos, Biblical Theology, Old and New Testaments (Grand Rapids: Eerdmans, 1948), p. 103.
2. Ibid., p. 104 f.
3. 1例を挙げれば、Nathaniel Micklem, "Leviticus," in The Interpreter's, Bible, vol. II. p. 60 f., and J. P. Hyatt, "Circumcision," in The Interpreter's Dictionary of the Bible, A-D, pp. 629-631.
4. Micklem, Interpreter's Bible, II, 60.
5. A. M. Stibbs, The Meaning of the Word Blood in Scripture (London: The Tyndale Press, 1948, 1962), p. 30 f.
6. Stibbs, op. cit., p. 11.
7. The Torah, The Five Books of Moses, A New Translation (Philadelphia: Jewish Publication Society, 1962).
8. Patrick Fairbairn, "First-Born," in Fairbairn's Imperial Standard Bible Encyclopedia (Grand Rapids: Zondervan [189l], 1957), II, 297 f.
9. G. Vos, Biblical Theology, p. 107.
10. Waller, in Ellicott, II, 44 f.
11. P. W. Thompson, All the Tithes or Terumah (London: The Covenant Publishing Co., 1946), p. 19.
12. Rev. George Rawlinson, in H. D. M. Spence and J. S. Exell, eds., The Pulpit Commentary: Exodus, vol. II (New York: Funk & Wagnalls), p. 305. 次も参照のこと。J. C. Connell. "Exodus," F. Davidson, A. M. Stibbs, E. F. Kevan, eds., The New Bible Commentary (Grand Rapids: Eerdmans, 1953), p. 128; Keil and Delitzsch, The Pentateuch, III, 210-212.
13. U. Z. Rule, Old Testament Institutions Their Origin and Development (London: S.P.C.K., 1910), p. 322.
14. A. Edersheim, The Temple, Its Ministry and Services as they were at the time of Christ (New York: Hodder and Stoughton, n.d.), p. 385.
15. John M'Clintock and James Strong, Cyclopaedia of Biblical, Theological, and Ecclesiastical Literature (New York: Harper, 1894). III, 574.
16. Joseph Bingham, The Antiquities of the Christian Church (London: Bohn, 1850), I, 189.
17. 中世の英国における十分の一税の納税については、次を参照のこと。Sacheverell Sitwell, Monks, Nuns and Monasteries (New York: Holt, Rinehart, and Winston, 1965), illust. between pp. 42 and 43.
18. George C. M. Douglas, "Tithe," in Fairbairn's Bible Encyclopedia, VI, 290.
19. 十分の一税については次を参照のこと。Oswald T. Allis, "Leviticus." in Davidson, Stibbs, and Kevan, op. cit., p. 161; Davis, op. cit., p. 783 f.; H. H. Guthrie, Jr., "Tithe," in Interpreter's Dictionary of the Bible, R-Z, p. 654. 本著では、3種類の十分の一税は、後期ユダヤ教(つまり、新約時代の始まる前及び新約時代)の実践であると考えられている。
20. Davis, op. cit., p. 44.
2l. Henry Snyder Gehman revision of John D. Davis, The Westminster Dictionary of the Bible (Philadelphia: The Westminster Press, 1944), p. 34.
22. Henry Lansdell, The Tithe in Scripture (London: SPCK, 1908), p. 32 f.
23. ibid., pp. 23-36.
24. P. W. Thompson, All the Tithes, p. 30.
25. Ibid., p. 22 f.
26. Rawlinson in Pulpit Commentary, Exodus, II, 205.
27. P. W. Thompthon, All Thine Increase (London: Marshall, Morgan & Scott, 1937, 3rd edition), p. 109.
28. ibid, p. 140 からの引用。
29. Ibid., p. 216.
30. William E. Lunt. Papal Revenues in the Middle Ages. vol. II, Records of Civilization, Columbia University, n. XIX (New York: Columbia University Press, 1934). p. 56 f.
31. Howard B. Rand, Digest of the Divine Law (Merrimac, Mass.: Destiny Publishers, 1943, 1959), p. 111.
32. Jared Sparks, ed., The Writings of George Washington (Boston : Ferdinand Andrews, 1838), IX, 137.
33. Lansdell, Tithe in Scripture, p. 148.
34. St. Mary's School of Religion for Adults, An illustrated Digest of the Church and State Under Communism (Port Richmond, Staten Island, N. Y., 1964), p. 15.
-
- ホーム