この裁判官のジレンマは、格別驚くべきことではない。平等に関する新しい教えの影響の下で、犯罪は善と平等に扱われるようになり、優位な立場を与えられることすらあるからである。多くの人々からアメリカ最大の詩人と賞賛されているウォールト・ウィットマンは、この平等の原理を次のように直截に述べている。「善と呼ばれているものは完璧であり、悪と呼ばれているものも同じくらい完璧である。」
しかし、平等を否定するだけでは不十分である。平等を前提とした法律が認められるならば、エリートによる専制的支配を避けることはできない真正な法律は、唯一まことの絶対者なる神に依拠しなければならない。絶対の主、裁き主である神は、万物の究極の仲裁者であり、それなるがゆえに、クリスチャンは、人間の運命の決定者である神の御言葉に服従し、神を恐れなければならない。このため、真のクリスチャンが宣誓の上で語った言葉だけが、証言に関するすべての規定の基礎となってきた。法廷に影響を与えてきた教会の基本法は次のように述べている。
法廷における証明手段という意味で行われる宣誓は、「証言において神の御名を唱え、ある特定の発言の真実性を保証する」という自身の固有の性格を維持しつつ、ある事件に関する事柄が真実であることを証明したり、その真実に至るために使用されたりする最も強力かつ効果的な手段であり、判事が判決を下す上で欠くことのできないものである。3
この同じ権威は、ここ[
この犯罪は、神の存在や属性を攻撃し、否定する異端的冒涜として現われたり、神の御名や聖人の名を中傷したり汚したりする単純な冒涜や呪いとして現れることがある。4
ここで述べられている冒涜の定義については、どちらについてもすでに触れたが、今、神の「御名」についてより具体的に説明する必要があるだろう。「あなたの神、主の『御名』をみだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を無罪とはしない。」
聖書において名前は、その人物の性格や性質を表す。性格が変わる時に、その人の名前も変化する。メレディスは次のように述べている。
「第三戒」は、宇宙の偉大な至高の「支配者」である神の「御名」、「務め」、「立場」を扱っている
聖書において、個人の名前には「意味」がある。
神のすべての御名または称号は、神の「御性格」のある特質を啓示している。神の御言葉を調べ、神が御自身を啓示するために用いられた新しい御名について学ぶ時に、我々は、神の「御性質」と「御性格」について新しい事実を知る。換言すれば、神は御自身に、「私はこのような者である」という名を付けられる!
神の真の「意味」と「御性質」を否定するような方法で神の「御名」を用いる時に、我々は、第三戒を「破っている」。5
旧約聖書だけではなく、新約聖書が示す「名前」の意味も、メレディスの主張を裏付けている。ギリシャ語新約聖書において、次のように言うことができる。
主にヘブライ的な用法では、「名前」は、その名前がカバーするすべてのことを表すために用いられる。名前を口にしたり、聞いたり、思い出すことによって、心の中に、その名前が表すあらゆること、つまり、その人の職位や権威、興味、楽しみ、命令、卓越性、行為などが想起され、体感される。6
さらに、メレディスはこう述べる。
ここで「無罪」と訳されているヘブライ語は、「清い(
ピューリタン神学者トマス・ワトソンは、その著書『神の御体』の続編として著された『十戒』の中で、このような第三戒の定義を明示している。ウェストミンスター大教理問答書も、同じことを次のように述べている。
第
答え。 第三戒は、神の御名、称号、属性、命令、御言葉、礼典、祈り、誓い、宣誓、配分、御業、その他神がそれによって御自身を知らしめようとされるあらゆるものを、思い、瞑想、言葉、著述の中で、また、聖なる告白や会話において、聖く、かつ、敬意を込めて、すべて神の栄光と、自分自身及び他者の建徳のために用いることを命じている。
第
答え。 第三戒において禁じられている罪とは、以下のようなものである。すなわち、神の御名を、命令に従わずに、無知や虚栄、不敬、冒涜、迷信、邪悪な発言の中で乱用すること。神の称号や属性、命令、御業を、冒涜や偽証のために利用すること。あらゆる罪深い呪いや誓いや宣誓、分与。合法的な誓いや宣誓の不履行。非合法的な誓いや宣誓の履行。神の命令や摂理に対するつぶやきや反抗、興味本位の詮索、不適切な適用。御言葉やその一部を、汚れた冗談に用いたり、興味本位や無益な問題、もしくは、空しい議論、間違った教理の主張のために、誤って解釈したり、適用したり、あらゆる種類の曲解を行うこと。御言葉や被造物や、神の御名の下にあるすべての事柄を、人を魅了したり、罪深い欲情や行為に誘うために利用すること。神の真理・恵み・道への中傷、あざけり、悪罵、不遜な反対。偽善や邪悪な目的のために信仰を告白すること。信仰を告白することを恥じること。または、不快・愚昧・無益・罪深い生活を送ったり、信仰から後退することによって、信仰告白に恥辱を加えること。
今日、神の御名は、善用されることよりも、悪用されることのほうが多い、ということがこの定義から分かる。合同キリスト教会のウィリス・エリコット博士は、「聖書の無謬性への固執は悪魔的である」
神は、イザヤを通じて、「聞け。ああ、ヤコブの家よ。おまえたちは、イスラエルの名で呼ばれ、ユダの水から出、主の御名によって誓い、イスラエルの神について語るが、その言葉は、真実によらず、正義に基づかない」(イザヤ
聖書には、神を表す数多くの「称号」が記されており、これらは、神の御性質の様々な側面を啓示している。しかし、神の御名は、エホバとかヤーウェ(正確な母音構造は不明)として与えられ、これは、神が「存在する者」であること、つまり、自存のお方、「我は有りて在る者」であることを意味している。これこそ、御名の中に含まれる神の啓示である。
神こそが、法と万物の定義の原理であられる。神こそが、あらゆる思考の根拠であり、すべての思想領域にとって必須の前提である。それゆえ、神を「証明」しようとの試みは、冒涜である。神がすべての証明の必然的前提であるがゆえに、思考、生活、行動、存在のあらゆる領域の根拠を三位一体の神以外のものに置くことは冒涜である。神を前提としない教育、神を前提とせず神の法に依拠しない法律、あらゆる権威を神から引き出さない市民的秩序、神の御言葉に基づかない家庭は、冒涜である。
1. "In Jail for Blasphemy; ButLucky?," Los Angeles Herald Examiner (Thursday, July 18, 1968), p.A-14.
2. Quoted by William James, in F. O.Matthiesen, The James Family, A Group Biography (New York: Kropf [1947],1961), p. 496.
3. Fernando Della Rocca, Manual of CanonLaw, trans. by the Rev. Anselm Thatcher, O.S.B. (Milwaukee: Bruce, 1969),p. 396 f.
4. Ibid., p. 586.
5. Roderick C. Meredith, The TenCommandments (Pasadena, Calif.: Ambassador College, 1960), p. 19.
6. Joseph Henry Thayer, A Greek-EnglishLexicon of the New Testament (New York: Herper & Brothers, 1889), p.447.
7. Meredith, op. cit., p. 19f.
8. "COCU 'Unifying,’" in ThePresbyterian Journal, vol. XXVI, no. 9 (June 28, 1967), p. 9.
9. B. D. Olsen, Divers Seeds and theKingdom (Richmond, Calif.: The Triumph of God Publishing Co, c. 1967).
10. Meredith, op. cit., p. 19.