律法の否定的性格

 

  

 第三戒は次のように宣言している。「あなたの神、主の御名をみだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を無罪であるとはされない。」(出エジプト20・7、申命5・11)

 

 この戒めを分析する前に、律法の中でも、特に現代人を不愉快にする側面に注意を向ける必要がある。その側面とは、「律法の否定的性格」である。十の戒めのうち、八つは否定形で述べられている。他の二つの戒め「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」と「あなたの父母を敬え。」も、その下に否定形で記された数々の細則があり、これらの戒めを補強している。安息日の戒めには否定命令も含まれている。「いかなる仕事もしてはならない。」(出エジプト20・10、申命5・14)。したがって、完全な形として見るならば、十のうち、九つの戒めが否定命令であることが分かる。

 

 現代人の目には、否定命令の律法は、抑圧的・専制的に映る。彼らは、[否定的な制度である]警察を廃止し、それに代わる肯定的な行政官[制度]を導入しようとしている。ブラックパンサーの指導者であり、『平和と自由』党の大統領候補のエルドリッジ・クリーバーは、1961年に次のように述べた。「私が当選したあかつきには、貧困計画(poverty program)を中止し、警察に代えて『公共安全保安官(public safety officials)』を設置するつもりである。」1 公安は、フランス革命において、恐怖政治の元凶となった。これは当然のことと言わなければならない。なぜならば、肯定的な法律からは、専制と全体主義しか生まれないからである。

 

 法の肯定的な概念をもっとも的確に表現したのが、ローマ法の原理「国民の健康こそ、最高の法である。」であった。この原理は世界の法律制度に受け継がれ、あらゆる領域に浸透した。その浸透ぶりが徹底したものなので、今日、この原理に疑いの目を向ける者はみな、その国家の根本的前提に戦いを挑んでいる者と見なされる。このローマ的原理は、アメリカの発展の基礎となった。法廷は、合衆国憲法の「一般福祉」箇条を、1787年の原意とまったく異なる意味に解釈してきた。

 

 「否定的」法概念は、二重の利益をもたらする。まず、法の否定的概念は、特定の悪を現実主義的に扱うので、実際的である。それは、「盗んではならない。」「偽証してはならない。」と言った。否定命令は、特定の悪を直接的かつ明確に禁止する。それは、特定の悪行を禁止し、非合法であると宣言する。法の役割は「穏健」である。「法は限定されており、それゆえ、国家も限定されている。」法の執行を託された代理者としての国家の仕事は、悪を取り扱うことだけである。国家は、万人をコントロールする権限を与えられていない。

 

 第二、「法の否定的概念は自由を保障する。」これは、第一の点と密接に関連している。いかなる人も、禁止されていない事柄について、法の拘束を受けることはない。法は、そのようなことについて無関心である。もし戒めが「盗んではならない。」と言うならば、その戒めは窃盗について述べているのであって、それ以外のことについては述べていない。それゆえ、合法的に得られた財産について、この戒めは何も言うことができない。ある法が冒涜や偽証を禁じている場合、それ以外の発言は本質的に自由である。「法の否定的性格は、肯定的な生活と人間の自由を保全する。」

 

 しかし、もし法律が肯定的な機能を備え、人々の健康が最高の法となるならば、国家は、人々に完全な健康を与えるために徹底した支配権を持つことになる。そうすると、人々は、すぐに二重の刑罰を受けることになる。第一、国家には全権が与えられ、全体主義国家が生まれる。あらゆるものは、人々を健康に導いたり、逆に、人々を害する可能性がある。それゆえ、国家は、万物をその支配下に置こうとする。「法が限定されていないので、国家も限定されない。悪を制御することではなく、万人をコントロールすることが、国家の仕事となる。」すべての全体主義国家の基本的理念は、「法は肯定的な役割を担っている」という認識である。

 

 第二、このことは、人間にはいかなる自由の領域も存在しないということを意味している。つまり、国家が人民の健康保全の名目で支配することのできない領域は存在しないということになる。国家はあらゆることに関心を持ち、あらゆる活動、関心事、思想に干渉するようになる。国家には国民の福祉を向上させ、人々の一般的かつ完全なる健康に奉仕することができると考えることは、国家が全能であることを認めることに等しい。そして、国家が全能であると認めることは、国民が無能であることを認めることに等しい。その時、国家は、子供っぽくて未熟な国民に奉仕する子守役となる。法には肯定的な役割が与えられるべきであると主張する人々は、国民は本質的に子供であると考えている。

 

 この点で、聖書も同じことを述べているのではないか、と主張する人々もいる。聖書は「人間は罪に堕ち、全的堕落の状態にある」と述べているから、同じように人間を子供扱いしているのではないか、と。しかし、これ以上に真理からかけ離れている意見はない。人間は長い時間を経て発達してきたとする進化論の信仰によれば、人間は原始的な本能や衝動を持ち、まだ子供の状態にいて、まだまだ進化する可能性があるといいる。

 

 しかし、聖書は、もともと人間は成熟と善良さを備えた存在として創造された、と主張する。人間の問題は、その原始的な性質や子供っぽさにあるのではなく、無責任にある。人間は成熟することを拒み、無責任なままでいることを望んでいる。人間は反逆者であり、彼の行動の特質は幼児性ではなく罪であり、無知ではなく意図的な愚劣である。

 

 本来、愚か者は保護の対象にはならない。というのは、愚か者の問題は、他者にあるのではなく、自分自身にあるからである。箴言は、愚か者について多くのことを語っている。キドナーは、愚か者について箴言がどのように語っているか、次のように述べている。

 

彼[愚か者]の問題の根は、霊的であって、精神的ではない。彼は、愚かさを「愛している」。彼は「犬がおのれの吐いたものに戻るのと同様に」(26・11)愚かな行為に戻る。愚か者は真理を尊ばない。むしろ、自分の心を軽くしてくれる幻想の方を好む(14・8、及び注を参照せよ)。彼が心底において拒否しているのは、神を恐れることである(1・29)。彼が愚かになっている原因は実にこの点にある。愚か者の自己満足が悲劇的な結果に終わるのは、神を恐れることを拒んでいるからなのである。「愚か者の安心は、自分を滅ぼす。」(1・32)
 
一言で言えば、愚か者は「社会」にとって脅威である。愚か者と話しても、時間の無駄である。「知恵の言葉は彼のうちにはない。」(14・7、モファット訳)さらに深刻なのは、愚か者が何かを思い立つと、誰も彼を止められなくなるということである。「愚かさにふけっている愚か者に会うよりも、子を失った熊に出会う方がましである。」(17・12)それが、悪ふざけであっても(10・23)、喧嘩であっても、彼らの愚行を止められる者はいない。愚か者は争いを巻き起こし(18・6)、ついには死に至る(29・11)。愚か者に近づいてはならない。「愚か者の友となった者は、そのことを後悔するようになる。」(13・20)愚か者を使いに出すことがあっても、彼にことづけしてはならない。(26・6)2

 

愚か者の愚行への走りやすさを示す例は、枚挙にいとまがない。愚か者は、苦境から救い出されても、すぐに新たな泥沼にはまり込む。インチキ医者から逃れても、さらに悪い医者にだまされる。これは別に驚くべきことではない。というのも、愚か者の本性は、愚行を求めているからである。

 

 法が肯定的に機能してきたと大部分の人に信じられている分野である医療について考えてみよう。医療に対する国家の統制を押し進めていたのは、主にロックフェラー財団であった。医療業務だけではなく、医療関係の学校も国家の統制下にあった。公認されていない医療行為は、非合法とされた。このような統制のおかげで医学は大きな進歩を遂げてきたと言われてきた。

 

 しかし、医学の発達は、本当に国家の統制によるものだったのだろうか。それとも、医療関係者の努力の賜物なのだろうか。医療行為そのものが、医学の発展に貢献してきたのではないだろうか。昔と比べて、インチキ医者が少なくなっているとは思えない。いや、むしろ増えているのだろう。権威筋が「でたらめ」と認定した医療行為に対して、1966年の一年間に20億ドル以上もの大金が投じられたと、連邦政府は推定している。厳密に言えば、それには、詐欺から非公認の診療に至るあらゆるインチキ医療行為が含まれてはいる。3 さらに、公認を得られない医療研究員は、インチキ医師と見なされるだけではなく、深刻な法律上のトラブルに巻き込まれることがある。製薬会社と共に、普通の公認の医師も医療過誤の責任を議会から追及されてきた。試験的に使用され、十分な実験を経ないままに市販されている様々な「特効薬」によって、深刻な問題が発生している。4 医療関係の雑誌は、病院における医薬の過剰投与の実態を明るみに出している。5

 

 たしかに、賢明な処方を怠った責任を医師の側に問うことはできる。しかし、多くの患者たちは、新薬の(場合によっては旧薬の)危険性を熟知しつつも、それを処方してくれることを望んでいる。あらゆる法的な予防策が講じられたとしても、どうして、医者や患者に完全を求めることができるのだろうか。医者にしても、患者にしても、愚行に走る者はいつの時代にも必ずいるものである。

 

 しかし、問題の本質はもっと根深いところにある。医療に対する国家の統制が強まるにつれて、同時に、医療過誤に対する訴えも増えつつある。医師は、たえず訴訟の危険にさらされている。アメリカの医療技術や外科手術がこれほど高い水準に達したことはなかった。それにもかかわらず、訴訟はかつてないほど増加している。これは奇妙な事実を浮かび上がらせる。つまり、国家は医療関係者から基本的な業務遂行に関する権利を奪ってきたにもかかわらず、その責任を負おうとはせずに、逆に、医師に対して法的に過剰な責任を負わせている。連邦政府は医薬品に許可を与える。しかし、一たび問題が起こると、責任は医師にかかってくる。

 

 国家は、国民の健康や一般的な福祉の保障において積極的な役割を演じますが、その責任は負おうとはしない。国民も責任を免かれる。そして、医療関係者(または企業や資産家等)が「完全責任」が負わされることになる。完全責任への過程は徐々に進む。しかし、福祉経済の下では、この進行をくい止めることはできない。

 

 歴史家はしばしば、古代の異教国家においてすばらしい医療が実践されていたと述べる。彼らは、実際よりもはるかにすぐれた業績を古代人に帰すのが常である。そして同時に、キリスト教こそ、医療の発達を阻害し、退歩させた張本人であると述べる。しかし、古代における医療の退歩が始まったのは、古代人自身が述べるところによれば、紀元前3世紀からである。6 エントラルゴは、実際のところ、無益な前提から医療を救済したのはキリスト教であった、と指摘している。7

 

 古代エジプトやバビロンやその他の国々において、医者にはすべての責任が負わされていた。患者が死亡した場合、医者も死を免れなかった。たとえ、それが医者の責任によるものではなくても、医者が完全責任を負わなければならなかった。医者の側に責任がある場合でも、なぜ医者は完全責任を負わなければならないのだろうか。患者は自分の意志で医者のところにやってきた。医者は神ではない。それとも、医者は神になるべきなのだろうか。他の異教社会と同様に、ヨーロッパが異教国であった時代に、医学は神々と密接に関係していた。医者には禁欲的苦行が要求されていた。その結果、医者は次第に僧侶に変わっていった。キリスト教の初期の数百年間、ネオプラトニズムの影響と共に、異教の影響によって、医者は苦行者として扱われるようになった。ピックマンは、ゴール人について次のように述べている。

 

当時禁欲主義的がなぜ大衆に人気があったかと言えば、苦行が苦行者自身に心理的な効果があったからというよりも、苦行者のところに救いを求めてやってきた人々に対して苦行が身体的な効果を表したからということは明らかである。それは、人道主義者たちの強力な武器であった。それなるがゆえに、僧侶とならない医者は、すぐにも医療行為を禁じられることとなった。8

 

西洋がキリスト教化されるにつれて、このような医療に対する異教的な考え方も徐々にではあるが衰微していった。そして、これとともに、医者を神に見立てたり、苦行者になることを要求することもなくなっていった。

 

 医療関係者に対して国家が統制を加えるようになると、このような過去の要求が復活した。医者はたえず訴訟に苦しめられることになった。このような過剰な責任のゆえに、医者が事故現場における緊急治療に携わることが難しくなった。それには、高いリスクが伴うからである。もしこのような傾向が続けば、患者が死亡した時に医者が殺人者呼ばわりされるようになる日もそう遠くはないだろう。スターリンの晩年のソ連において、これと似たような状況があった。

 

 なぜ法律は肯定的な役割を担うようになるのだろうか。それは、国民が否定的な要素であると信じられているからにほかならない。つまり、国民は無能で、幼稚であると考えられているからである。そのような国家において、「責任のある人々は完全な責任を負わされ、罰せられることになる。」 その犯罪によって無能であることが明らかである犯罪者がある人の家に侵入したとする。侵入者は法律によって自分の権利を守られる。しかし、自分の生命が明らかに危険にさらされていず、すべての逃避の手段が試みられていることが証明されない限り、その侵入者を殺害した責任のある遵法的な市民は殺人罪に問われる。ある無法者が、柵を乗り越え、門をこじ開けてある人の家財を奪いる。途中でふたを閉めていない穴や溝に足を入れて骨折した。この骨折の責任は、その持ち主にあるという。

 

 「その否定的性格を失い、肯定的な性格を帯びた法は、犯罪者や愚か者を守り、責任のある人々を罰するようになる。」

 

 「責任と責務を排除することはできない」ある領域から責任や責務が失われても、それらはけっして完全に無くなってしまうのではなく、単に別の領域に移されるだけである。もしアルコール中毒者や犯罪者が無責任な人ではなく、単なる病人でしかないのであれば、だれかが彼らを病気にした責任を負わなければならなくなる。カリフォルニア大学バークレー校犯罪学研究所のリチャード・R・コーン教授は、売春婦は、「さらにすぐれた生活様式を求める疎外された哀れな子どもたち」なので、逮捕したり投獄すべきではないと言った。9 もしこれらの売春婦たちが「さらにすぐれた生活様式を求める疎外された哀れな子どもたち」にすぎないのであれば、だれか他の人々が彼女たちの状態について責任を負わなければならない。なぜならば、売春婦たちの意図は健全なものだからである。そのような責任をいわゆる「社会」に負わせようとする人々はけっして少なくない。しかし、売春婦やポン引き、犯罪者たちは、その一般的な意味における社会の一部を成している。明らかに彼らは罰を受けずにいる。責任を負わなければならない社会とは、責任感のある成功した人々であるということも明らかである。共産主義は、クリスチャンや資本主義者が社会のすべての悪について完全に責任を負わなければならないと主張する。完全に責任を負わなければならないので、彼らは粛正されなければならない、という。

 

 「責任や責務を回避することはできない」聖書が教える責任の教理を否定するならば、異教の教えが支配するようになる。もし聖書が教える法の否定的な性格が拒絶され、肯定的な性格を持つ法律がそれに取って代わるならば、キリスト教と自由に敵対する革命が支配するようになる。法の否定的な性格は、自由への保障であるだけではなく、生命の保障でもある。

 

 

1. Van Nuys, California, The News, Channel 28 to Interview Black Panther Leader (Sunday, August 11, 1968), p. 10-A.

2. Derek Kidner, Proverbs, An Introduction and Commentary (Chicago: Inter-Varsity Press, 1964), p. 40.

3. 参照・James Harvey Young, The Medical Messiah, A Social History of Health Quackery in Twentieth Century America (Princeton, N. J.: Princeton University Press, 1967).

4. 参照・Morton Mintz, By Prescription Only. Second edition, revised (Boston: Houghton Mifflin, 1967).

5. 参照・Medical Care Can Be Dangerous, in Prevention (August, 1968), p. 80ff.

6. J. Beaujeu, Medicine, in Rene Taton, ed., History of Science: Ancient and Medieval Science, from the Beginnings to 1450 (New York: Basic Books, 1957, 1963), p. 365.

7. Pedro L. Entralgo, Mind and Body, Psychosomatic Pathology: A Short History of the Evolution of Medical Thought (New York: P. J. Kenedy and Sons, n.d.).

8. Edward Motley Pickman, The Mind of Latin Christendom (New York: Oxford University Press, 1937), I, 457.

9. New Approach to S.F. Vice, Oakland, Calif., Tribune (Friday, August 16, 1968), p. 10.