第三戒

第四節 誓いと礼拝

 

 

カルヴァンは、第三戒についての非常に洞察力に富む分析を行っている。彼は、その中で、宣誓と礼拝との関係について次のように読者に注意を喚起している。

 

神の御名によって誓うことは、宗教的礼拝の一種もしくは一部であり、これはイザヤの言葉からも明らかである(4623)。全世界の国民が純粋な宗教に献身するようになると予言した際に、彼はこのように述べたからである。すなわち、「わたしは生きている、と主は仰せられる。それゆえ、すべてのひざはわたしに屈み、すべての舌がわたしによって誓う。」と。1

 

引用された聖句イザヤ4523節の全体を表示すると次のようになる。「わたしは自分自身によって誓う。言葉は義のうちにわたしの口から出、そして、取り消されることはない。たしかに、すべてのひざは私の前で屈み、すべての舌は誓う。」つまり、「歴史は、全世界が神を礼拝する時にその絶頂に達する。神的宣誓はすべての社会の基礎である」と神が宣言しておられる。アレクサンダーはこの意味を次のように解説している。

 

最後の部分にある屈膝と宣誓は、尊敬と忠義と忠節の行為であり、通常、同時に行われる(1列王1918)。屈膝と宣誓の行為には、「相手を主権者と厳粛に認める」という意味が含まれている・・・。この本文は、パウロによって、キリストを表すものとして二度引用されている(ローマ1411、ピリピ210)。つまり、パウロは、この個所を通じて、キリストが王、裁き主、主権者である、ということを証明している。これは、すべての人が回心して神に立ち返るということを必ずしも意味していない。というのも、ここで使用されている言葉は、自発的な服従だけではなく、強制的な服従をも意味しているからである。自発的にしろ強制的にしろ、文字通り万人がキリストを自らの正当な主権者であることを認める。2

 

ここにおいて、アレクサンダーは、この律法の基本的な意味を回復している。すなわち、神は、万人にとって絶対者であり、主権者であるということ、また、人間を創造した唯一の創造者、維持者、救済者である、ということを我々に再認識させている。神を真に礼拝するためには、救いに関してだけではなく、その他のすべての事柄について、神に絶対服従しなければならない。神お一人だけが、教会、国家、学校、家庭、そして全被造物界におけるあらゆる領域において、主であられる。それゆえ、カルヴァンが述べたように、神の御名によって誓うことは、まことに「宗教的礼拝の一種もしくは一部」である。

カルヴァンは、さらに「主の『御名』をみだりに唱える」に関する解説の中で次のように述べている。

 

このことを、あたかも、神の主権が文字や発音に限定されるかのごとく、単にエホバという名前に限定するのは愚かであり、幼稚である。しかし、たしかに我々は、神の本質を目で見ることはできないが、それにもかかわらず、神は、御自身を我々の前に明らかにし、御自身の印によって我々に自らを啓示しておられる。そうである以上、神の御名は我々の前に象徴として置かれている。それは、人間がみな、自分の名前によって自らを表すのと同じである。それゆえ、キリストは、神の御名は天において、地において、宮において、祭壇において認められる、と言われた(マタイ534)。なぜならば、神の栄光はこれらのもののうちにはっきりと見てとれるからである。したがって、神の御名は、神の至高の知恵、無限の力、正義、真理、慈愛、義と切り離される時に常に冒涜される。もし短い定義が好まれるならば、次のように言おう。すなわち、神の御名とは、パウロが言うところの、神について「知り得ること」(ローマ119)である。3

 

それゆえ、「神の主権はすべての現実を支える土台である」という事実を軽んずる時に、人間は、神の御名を例外なく常にみだりに唱えていることになる。人間は、生活のあらゆる領域において、神の主権を軽んじたり、真実を語る義務をないがしろにすることはできない。

この戒めと第九戒の間には、明らかに密接な関係がある。カルヴァンは次のように述べている。

 

神は、第二の板に記された第五の戒めにおいて、再び偽証罪を非難しておられる。つまり、隣人についての偽証を、愛に違反する行為として非難しておられるのだ。この戒めの目的は[第九戒のそれとは]異質である。つまり、神に帰せられるべき栄誉を汚さないようにすること、我々が神を話題とする時には、常に信仰に基づいて(religiously)語るべきであること、我々の間では神に対してふさわしい尊敬が払われねばならないこと、である。4

 

もし、宣誓と礼拝が互いに密接に関係しており、主の「御名」や知恵、力、正義、真理、あわれみ、義を、軽率に、または、誤って用いることが冒涜であるならば、われわれは、今日のほとんどの説教は徹底して冒涜的であると認めねばならない。面白いことに、聖職者の中のある者たちは、”I don’t care a dam.”[訳注:「ちっとも気にしない」の意]という表現を冒涜であると考えているが、自分たちの説教の冒涜的性格についてはまったく脳裏から消え去っている。”I don’t care a dam.”は、もともとイギリス英語の表現であり(アメリカでは、”not worth a dam”という言い方の方が普通である)、ウェリントン公爵を通じてインドから輸入された言い回しである。damとは、最小額のインド硬貨を指すので、これは、”not worth a sou” と似ている。sou とは、ずっと昔に廃止されたフランスの最小額の硬貨である。5 つまり、”I don’t care a dam.” は、”I couldn’t care less” と同じ意味である。

 

さて、今日の説教のほとんどは、Not worth a dam (一文の値もない)とはっきりと言わねばならない。それは、信仰を否定するか、信仰をつまらない次元に引き下げているため、むしろ、冒涜と称すべきだろう。多くの説教は、意図においては敬虔「かもしれない」が、実際には冒涜である。

 

人が堕落した時に、人類にのろいが下った。それは、人間が「自分自身の神になる」というサタンの誘惑に屈したからである(創世記35)。人間は、自分自身を神と神の御名から切り離し、現実を人間と人間の名前によって再定義した。人々が再び主の御名を呼び始めると(創世記426)、彼らは神を救い主としてだけではなく、主、創造者としても見るようになった。彼らは主の御名をみだりに唱えるのを止め、正しく唱え始めた。彼らは、神を自らの唯一の救い主、法授与者、希望と認めた。彼らが主の御名を真摯に呼ぶようになればなるほど、また、彼らが生活のあらゆるものを神の支配のもとに置くようになればなるほど、彼らはのろいの下から出て、より豊かな祝福の中に入っていった。

 

主の御名を「正しく」唱えるということは、われわれの生活や行動、思考、所有、その他生活のあらゆる領域を、神と神の御言葉の上に、堅固かつ十全に据えることを意味する。

 

主の御名を「みだりに」唱えるということは、唯一まことの神を実質的に否定することを意味する。われわれの生活や行動、そしてすべての思考、所有、生活のあらゆる領域を神から切り離したり、自分のものとして独占するならば、われわれは、神の御名をむなしく唱えている。

 

それゆえ、エーラーが述べたように、「偽証は、違反者だけではなく、違反者が属する種族全体に関わる問題」6 である。 偽証は、人間と社会から恵みを奪い、それらをのろいの下に置く罪である。

真の誓いとは、真の礼拝である。正しく誓う人は、御名にふさわしい栄光を神に帰している。

宣誓と、社会の基礎や革命、宗教がどのように関係しているかについて、正しく理解しない限り、われわれは、なぜ古代の人々が冒涜をあれだけ恐れたか理解できない。イエスの発言に対して、大祭司は、「これは冒涜の言葉だ」といって非難した(マタイ2665)。大祭司の恐れは、偽善の産物であったかもしれないが、しかし、それは、普通の人間が感じる衝撃を反映している。第二次世界大戦以前の日本において、このような恐れは、実際に、社会の中で一般的に見られた。神道に対する冒涜は、非常に大きな罪と考えられていた。日本人は、それを反逆、革命、無政府主義の罪と考えていたが、これは、極めて妥当な理解であったと言うべきだろう。

今日、われわれの間で、もはや冒涜を恐れる人はいない。それゆえ、われわれの社会において、「反逆」の意味が変化したと考えざるをえない。「反逆の意味」は、非常に興味深い研究テーマである。レベッカ・ウェストは、このテーマの研究史について次のように適切に叙述している。

 

伝統や理論によれば、国家は、その境界線の内部にいる人々を保護し、その見返りに、国家の法律に従うことを求める。このプロセスは、互恵的である。国境の内部にいる人々は、その法律を守っている限り、国家に保護を求める権利を有する。16世紀にコークは、法律に関して次のような格言を残している。「保護は忠誠心を引き寄せ、忠誠心は保護を引き寄せる(protectio trahit subjectionem, et subjectio protectionem)。」イギリスにやってきて、国王と女王への謀反に参加したフランス人シェリーの事件をきっかけに、このような人間は、「国王に対して忠誠を尽くす義務がある。というのも、彼は国王の保護の下にいるからである。」という規則が定められた(1608年)。7

 

しかし、人間が神と神の主権を否定する時代において、世界は、神の権威に対して異議を唱える2種類の相対立する勢力――全体主義国家と、完全他者的・無政府主義的個人――の間で分断されている。全体主義国家は、いかなる異議も許さない。無政府主義的個人は、自分に対する以外、いかなるものにも忠誠を尽くすことを許さない。全世界が黒く塗りつぶされている場合、黒の概念は存在しない。なぜならば、区別が存在しないからである。すべてが黒ならば、いかなる定義の原理も、記述もない。全世界が冒涜の状態にある場合、万物が同一であり、冒涜を定義することは不可能である。世界が完全なる冒涜の状態に移行しつつある時に、物事を定義したり認識する能力は減退する。裁くことは必要であり、健全な行為である。裁くことは、一種のカタルシスとして、世界に未来と定義を回復する。

 

今日の法律と社会の基本的前提は、相対主義である。相対主義は、万物を共通の色、共通の灰色に引き下げる。その結果、反逆や犯罪を定義することは不可能になる。犯罪者が法律によって保護される。なぜならば、法律はだれが犯罪者であるかを知らないからであり、現代の法律が、善と悪を定義する正義の絶対性を否定するからである。定義できないことに、制限を加えたり、保護を与えることは不可能である。定義とは、対象の周りに垣根をめぐらすことであり、保護壁を設けることである。定義は、対象をそれ以外のものから引き離し、そのアイデンティティーを保つことである。絶対神によって定められた絶対法は、善と悪を分離し、善を保護する。このような法が否定され、相対主義が支配するようになれば、事物の区別や認識の原理は無効になる。全世界が等しく、同一であるならば、いったい何を、誰から守る必要があるのだろうか。全世界が水であれば、守るべき海岸線は存在しない。すべての現実が死であるならば、守るべき命は存在しない。今日、犯罪を正しく定義できない世界において、裁判所は、相対主義に冒され、ますます判断能力を失っている。そのため、ますます多くの正しい人々や遵法者が保護を受けずに苦しんでいる。エミール・ダークハイムは、「犯罪者は、進化におけるパイオニアかもしれない。いや、実際にパイオニアであることがよくあるのだ。彼らは、社会の未来図を描いてくれている」という内容のことを語っている。8 ダークハイムの相対主義的社会学によれば、犯罪者とは、遵法的な市民よりもすぐれた人になるかもしれない。それに対して、今日遵法的と言われている市民は、未来において保守的もしくは反動的な人物になり下がるかもしれない。

 

相対主義の社会は、「開かれた社会」であり、あらゆる悪に開かれているが、善には開かれてはいない。相対主義の社会は、善悪の定義を変えることによって、善悪を超越するため、その社会の構成員を悪から守ることができない。むしろ、相対主義の社会は、聖書に基づいて善悪を定義しようとする人々を構成員から遠ざけ、彼らから社会を守ろうとする。

最高裁裁判長フレデリック・モーア・ヴィンソンは、第二次大戦後、「現代社会において、『絶対は存在しない』という原則ほど確実なものは何もない。」と述べた。彼は、この発言によって、「唯一の明確な悪とは、神の絶対法に堅く立つことである」ということを表明した。至高の法として確立された「『絶対は存在しない』という原則」は、聖書が教える絶対の基準に敵対し、それに対して宣戦布告する。このような法の主張を一言で言えば、「『キリスト教という恥と不名誉』は払拭されなければならない」である。これは、啓蒙主義運動を象徴するEcrasez L'infameにおいて唱えられた台詞である。この[戯曲の]中において、ヴォルテールは、ディドロに賛辞を捧げ、彼のことを「私の、崇高で、尊敬すべき、親愛なる反キリスト」と呼んでいる。ヴォルテールは、「すべての分別ある人々、すべての尊敬すべき人々は、キリスト教を恐怖の対象として見なければならない」というテーゼを自らの原則としていた。9 ヴォルテールはただ言葉を述べただけであったが、現代の裁判所はこの信仰に基づいて実際に活動している。このようなことが続けば、最後には、恐怖の支配しかない。昔のヘブライの賢者が述べたように、「主を恐れる者は、主の前に自分の心を整え、自分の魂をへりくだらせる。そして、『我々は、人の手の中にではなく、主の御手の中に落ちよう。主は主権者であられるだけではなく、あわれみ深いお方でもあられるから』と言う」(伝道者217,18)。

 

1.      John Calvin, Commentaries on the Four Last Books of Moses, II, 408.

2.      Ibid., II, 409.

3.      参照・Montagu, Anatomy of Swearing, pp. 92 f., 296-298.

4.      Joseph Addison Alexander, Commentary on the Prophecies of Isaiah (Grand Rapids: Zondervan), p. 188.

5.      Calvin, op. cit., II, 408f.

6.      Oehler, Theology of the Old Testament, p. 250.

7.      Rebecca West, The New Meaning of Treason (New York: The Viking Press, 1964), p. 12 f.

8.      Emile Durkheim, “On the Normality of Crime,” in his The Rules of Sociological Method, in Talcott Parsons, Edward Shils, Kaspar D. Nargele, Jesse R. Pitts, eds., Theories of Society (New York: Free Press of Glencoe, 1961), II, 872-875.

9.      Peter Gay, The Enlightenment, An Interpretation. The Rise of Modern Paganism (New York: Knopf, 1967), 391.