第三戒

 

第5節 宣誓と権威

 

先に引用した判例法出エジプト記2117節「自分の父または母を呪うものは、必ず死ななければならない。」に特別な注意を払う必要がある。これは、出エジプト記2115-17節の3つの節のうちの一つであり、殺人に対して死刑を求める出エジプト記2112-14節の次に記されているため、ある意味において殺人と関係があるということがわかる。第一に、「自分の父または母を殺すものは、必ず死ななければな」(出エジプト記2115)らない。第二に、「また、誰かを誘拐し、その人を売り飛ばしたり、もしくは、その人が、彼の手もとにいるのが明らかになった場合、彼は必ず死ななければな」(出エジプト記2116)らない。誘拐や強制奴隷は、死刑にあたる罪である。聖書律法は、自発的奴隷を認めている。自由よりも安全のほうを選択する人がいるからである。しかし、刑罰以外の強制奴隷は厳しく禁じられている。第三に、両親を呪うことを禁じる前述の律法は、その行為が殺人に匹敵する罪であるとも述べている。ローリンソンは注解書の中において、次のように述べている。

 

殺人には、他のいくつかの、凶悪かつ死に値する罪が結び付けられている。すなわち、それらは、(1)親に暴力をふるうこと、(2)誘拐、(3)親を呪うことである。これらの犯罪は、殺人のすぐ後に記されており、殺人と同じ刑罰が定められている。このことは、神がこれらの罪をいかに強く忌み嫌っておられるかを示している。親は神の代理とみなされているので、親に暴力をふるう者は、神の御人格を直接侮辱する者と考えられている。親を呪うことは、尊敬の欠如を意味している。また、神が働かれなければ呪いは効果がないわけであるから、親への呪いは、神に向かって、「私といっしょになって、あなたの代理者に対して逆らっていただきたい」と求めることに等しい。誘拐は、人生に主要な価値を与えるもの――自由――を奪うので、人間に対して犯される罪の中で、殺人とほとんど変わらない[凶悪な]犯罪である。

 

これと似た法律が古代の文明にもあった。古代バビロニア法は、「もし息子がその父を打つならば、彼の手を切り落とさねばならない」と述べている。 親の権威や他のあらゆる権威に対する攻撃は、ことごとくその社会全体の権威を危機に陥れることを意味する。出エジプト記211517節は、非常に早くからマサチューセッツ州法に取り入れられた。死刑が行われた記録はないが、1650年以前の事例を見ると、裁判所が反抗的な息子や、親に暴力をふるった息子に鞭打ち刑を科したということが分かる。

 

誓いや呪いと、物理的抵抗はどちらも重要なテーマである。誓いや呪いは、神に向かって「正義のために、悪と戦うために、われわれに味方していただきたい」と訴えることにほかならない。同じように、戦争という形態を取るにせよ、個人的抵抗(つまり、殺人者が攻撃してきたり、悪人がわれわれを圧倒しようと企てる場合に取られる個人的な反撃)という形態を取るにせよ、物理的抵抗も、一種の信仰的な行為であって、けっして悪ではない。悪の世界の中において、このような抵抗はしばしば必要な手段である。たしかに、それは不快で醜悪な行為ではありますが、悪ではない。ダビデは、神が自分に効果的な戦い方を教えてくれたことに感謝を捧げている(2サムエル2235、詩篇18341441)。悪の世界において、神は、われわれが、神の御言葉と法にしたがって生活することを求めておられる。

 

これに対して、多くの人々は、マタイ539節「悪に手向かってはならない」から反論する。この個所(マタイ538-42)においてキリストは、ユダヤを支配していた外国勢力への抵抗について述べている。ローマ帝国の軍隊は、ユダヤ人に強制賦役を課すことができた。1マイルかそれ以上ものを持って運ぶことを「強いる」ことができた。また、財産を没収したり、融資を強制したり、必要に応じて資産や金銭、労働を強制徴収することが可能であった。このような場合、抵抗は無益であり、悪である。抵抗するよりも、協力を惜しまず、1マイル行けと言われればもう1マイル行くほうが善である。エリコットは、マタイ541節について次のように述べている。

 

このギリシャ語には、「荷役や伝令など、ローマ政府が定めた特殊な賦役義務」の意味が含まれており、ペルシャの郵便制度に起源を持つ言葉である。ペルシャ政府は人を思いのままに徴用し、駅から駅へと政府の速達便を届けさせていた(Herod. Viii.98)。この個所から、どうもローマ政府も帝国内において同じ制度を採用してらしいことが分かる。ユダヤ人の家長は、ローマの兵隊と馬を宿泊させなければならなかった。短期または長期の賦役を強制された人々もいた。

 

キリストは、革命的抵抗を試みてはならないと述べておられる。このことは、パウロもローマ131,2節で述べている。正当に定められた権威に対する反抗は、神の命令に対する反抗と等しいと。同時に、「ペテロと他の使徒たち」は、権威者によって説教することを禁じられた際、「人に従うよりも神に従うべきである」(使徒529)と述べている点にも注意しなければならない。

 

これらの立場に矛盾はいっさいない。正当に定められた権威に対しては、宗教的義務としてだけではなく、実際的な方針としても敬意を払うべきである。不服従や無政府主義によって世界はけっして改善されない。悪人が善良な社会を築き上げることなど不可能である。社会を改革する鍵は、個人の再生にある。われわれはあらゆる権威に服従すべきである。両親や夫、主人、統治者、牧師は、その上にある権威である神に服従すべきである。服従はすべて神の権威の下にある。御言葉がそれを求めているからである。それゆえ、第一に、契約の民は、正当な権威に逆らう時に、つねに主の御名を「みだりに」唱えている。あらゆるレベルの反抗は、神への反抗である。第二、親に暴力をふるったり、警官を襲ったり、その他あらゆる正当な権威に攻撃を加えることは、神の権威を攻撃することであり、自衛権を権威への反抗のために悪用することに等しい。第三、親は、神がお立てになった主要な権威であり、家族は、神がお立てになった基礎的な制度である。それゆえ、両親を呪うことは、神ご自身を、それらの権威に逆らうために利用することにほかならない。殺人者は、単一の個人や複数の個人の生命を攻撃し、それを奪い取る。権威に対するアナーキーな攻撃はすべて、社会全体の生命と、神ご自身の権威に対する攻撃である。

 

このような攻撃を行う者は、「良心」を口実にする。啓蒙主義の時代以来、とくに、ロマン主義が台頭してから、「良心は、自律的で絶対的な権威をもつ」と言われてきた。合衆国において、ソローは、ロマン主義的アナキズムの一例としてわれわれの頭に真っ先に浮んでくる名前である。「良心」は、善悪を正しく区別する責任を意味する。良心は、人間が被造物であり、服従者であるということを示している。良心は、権威の下にあるものであり、けっして神になるべきではない。善悪を超越して生きることを目指すヒューマニズムの願望は、実際には、責任と良心を超越して生きることを願うことである。良心の仮面をつけた攻撃が、良心と権威に加えられている。

 

無政府主義革命家は、良心を口実に自らの行為を正当化しますが、それは、まったくの嘘、ごまかしに過ぎない。近代の哲学や思潮において、良心とは、「法として君臨する己の願望」を表わす用語に過ぎない。ジェームス・ジョイスは、『ひとりの若者としての芸術家の肖像画』の中で、ステフェン・デダルスに次のように言わせている。「ようこそ、人生よ!私は、百万回目に経験というリアリティと出会い、私の魂の内側にある鍛冶場の中で、人類(my race)の、創造の産物ではない良心(uncreated conscience)を造り始めよう。」 フロイトの影響を受けた人々にとって、良心とか超自我は、たんに、外面的権威、両親、宗教、国家、学校が内面化したものに過ぎない。超自我とは、両親や他の権威の継承者であり、代表である。フロイトにとって、超自我は、イド(快楽の原理、生きる意思)の敵であり、それゆえ、それは破壊されるべきものである。イドと自我は、避けることができないが、しかし、超自我は社会の直接的産物であり、人間に対して支配力を持つにもかかわらず、人間は、その支配力の只中において、それを破壊することができる。フロイトの良心観には、様々なバリエーションがあるが、それらは、どれをとっても、現代人が抱いている良心観と同じものである。近代思想において、良心が名声を獲得することはなく、むしろ、実際には、それは批判の的とされている。唯一批判を受けない場合があるとすれば、それは、良心が法への反逆に役立つ場合である。自律的な人間は、[真の意味での]良心や権威を抑圧や専制の象徴と見なしており、彼らにとっての良心とは、それらに対する入念な反逆にほかならない。

 

 真の良心とは、権威の下、すなわち、神の権威の下にある。真の良心は、聖書に従い、聖書によって制御され、けっして、神や、神の御言葉の上に立たない。また、神の声になったり、それ自身が特別な啓示であるかのように振舞いない。真の良心は、神の権威に服従し、常に「神の下に」おり、自らを神や主の座に据えない。1788年に、ニューヨーク及びフィラデルフィア長老大会は、「統治形態」への「予備的原理」の中で、次のように宣言した。「神お一人が良心の主であり、神は、我々の良心を、信仰や礼拝の問題において、御言葉に逆らったり、御言葉と矛盾するあらゆる人間の教えや命令から解放してくださる。」そして、宣言は、個人の判断(private judgment)の自由を保護している。それは、神が人間の良心に対して持っておられる絶対的な権威によって、人間を国家や人々の横暴な要求から守るためである。ヒューマニズムの良心観は、神の主権を否定しますが、そうすることによって、人間の専横を不可避的に招いている。ヒューマニズムおいて、すべての人の良心は絶対の主である。1960年代と1970年代に暴動を起こした学生運動家たちは、無政府主義的革命家であり、「市民的権利」を主張する抗議家であった。彼らはみな、「良心によって」法と秩序を破壊し、社会を転覆させる権利があると主張していた。

 

出エジプト記211517節の死刑規定から明らかなことは、悪は、さらなる悪の言い訳にはならない、ということである。たとえ、両親が極悪人であったとしても、子どもは神の基本的法秩序である家族を攻撃してはならない。親は、子どもに悪を行わせたり、悪を善と呼ぶように強制してはならない。しかし、栄誉は、それにふさわしい者に与えられるべきであり(ローマ137)、両親はそれを受けるにふさわしい人々である。

つまり、これは「人間は正義を増進するために働かねばならないが、『悪と戦う人の権利には制限がある』」ということを意味している。聖書は、「復讐は神に属する」(申命記3235、詩篇941、ヘブル1030、ローマ1219)ということを強調している。パウロは、「親しき友よ。自分で復讐してはならない。復讐は神に任せなさい。『裁くのは私である。私が彼らに報復する。』と主は言われる」(ローマ1219、バークレイ訳)とはっきりと述べている。

 

神の復讐には2つの合法的形態がある。第一、神の絶対の正義と完全な義は、最後に完全な正義をもたらする。歴史は、キリストの勝利においてその絶頂に達し、すべて[の悪]に対して報復が行われる。第二、神がお立てになった権威、両親、牧師、市民的権威などは、神の正義と報復を行う責任がある。彼ら自身も罪人であるため、正義を完璧に行うことは不可能である。しかし、いかに不完全であっても、正義は正義である。曇りの日を真夜中と呼ぶことはできない不完全な正義は、不義ではない。

 

神の人は、完璧な正義や報復を期待しない。彼は、人間からそれを期待することはまったくできないことを認めている。聖書には、報復の例や、昔の悪に対して裁きが下った事例が記されている。しかし、ポティファルの事件について、ヨセフの身にそのようなことはまったく起こらなかった。ヨセフは、姦淫の嫌疑をかけられて牢に入れられたが、そこから出され、大きな権力を与えられた。パロにとって、彼の過去は些事に過ぎなかった。明らかに、ヨセフは、死ぬ日まで、「あいつは前科者だ。強姦をしようとしたために牢屋にぶち込まれたのだ」と陰口を叩かれ続けたことだろう。しかし、ヨセフは正しい統治を行いた。兄弟たちと対面した時に、彼はその権力を用いて、彼らに報復した。それは、彼らの内面を探るためであった。たとえ彼がポティファルやその妻を罰したとしても、何も得られなかったことだろう。この夫婦にとって、かつて自分の奴隷であった者が、エジプトにおいてパロにつぐ権力を持っていることを知った時ほど、恐ろしい瞬間はなかったことだろう。神がヨセフを守ってくださった。

 

完全な正義を達成し、嫌疑を完全に払拭し、汚名を徹底して晴らそうとする人は、僭越にも、神から、ご自身にのみ属する復讐の務めを奪い、悪人の一味に加担している。このような僭越な行為は、たとえ主の御名によって行われたとしても、やはり冒涜にほかならない。「自分の父または母を呪うものは、必ず死ななければならない」(出エジプト2117)。

 

 

1. George Rawlinson, “Exodus,” in Ellicott, I, 267.

2. H.W.F. Saggs, Everyday Life in Babylonia and Assyria (New York: G. P. Putnam’s Sons, 1965), p. 143. James B. Pritchard, ed., Ancient Near Eastern Texts (Princeton, N. J.: Princeton University Press, 1955), p. 175.

3. George Lee Hskins, Law and Authority in Early Massachusetts (New York: Macmillan, 1960), p. 81.

4. Ellicott, VI, 30.