聖書律法綱要

 




第9戒


司法と統治者の責任




 聖書律法の基本的な約束が最も重要な律法の中に存在する。申命記21:1−9において、「犯人が見つかろうとなかろうと、すべての悪を正すことは司法と統治者の責任である」と言われている。


 あなたの神、主があなたに与えて所有させようとしておられる地で、刺し殺されて野に倒れている人が見つかり、だれが殺したのかわからないときは、あなたの長老たちとさばきつかさたちは出て行って、刺し殺された者の回りの町々への距離を測りなさい。そして、刺し殺されたものに最も近い町がわかれば、その町の長老たちは、まだ使役されず、まだくびきを負って引いたことのない群れのうちの雌の子牛を取り、その町の長老たちは、その雌の子牛を、まだ耕されたことも種を蒔かれたこともない、いつも水の流れている谷へ連れて下り、その谷で雌の子牛の首を折りなさい。そこでレビ族の祭司たちが進み出なさい。

彼らは、あなたの神、主が、ご自身に仕えさせ、また主の御名によって祝福を宣言するために選ばれた者であり、どんな争いも、どんな暴行事件も、彼らの判決によるからである。刺し殺されたものに最も近い、その町の長老たちはみな、谷で首を折られた雌の子牛の上で手を洗い、証言して言いなさい。「私たちの手は、この血を流さず、私たちの目はそれを見なかった。主よ。あなたが贖い出された御民イスラエルをお赦しください。罪のない者の血を流す罪を、御民イスラエルのうちに負わせないでください。」彼らは血の罪を赦される。あなたは、罪のない者の血を流す罪をあなたがたのうちから除き去らなければならない。主が正しいと見られることをあなたは行わなければならないからである。


 この細部に関して、ある注解者は興味深い観察を行っている。


 ここで、殺されている動物は罪の身代わりの犠牲ではなかったので、切り裂いたり、その血をふりかける必要がなかった。首を捻るという殺し方は、殺人者が負うべき刑罰をこの動物が代わりに負っていることを象徴的に示している。…後でその殺人者が捕まったときに、彼は処刑されなければならなかった。というのは、たとえある動物が彼の身代わりに処刑されたとしても、それは、単に彼が捕まらなかったためで、彼の罪の代償として身代わりに死んだわけではなかったからである。1


 マンレーは次のように述べている。


 第六戒は人間の生命の神聖さを教えている。モーセは、「殺人は必ず償われなければならない」と述べた。ラシはこのように言っている。「子を生んだことのない一才の雌牛が、産物を出したことのない地に連れてこられ、首を捻って殺された。それは、この儀式を執り行う町の人々が、身に覚えのない殺人罪から贖われて神の裁きを免れ、再び実り豊かな生活を開始することができるためであった。」贖いと清めの概念は密接に関連し合っており、どちらもカルバリを指している(ヘブル4:13)。2


 この律法を分析することによって、いくつかの重大な事実が明らかになる。第一に、社会全体は、その中で犯された悪を矯正する責任を持つということである。これは、一般市民の持つ警察権力を意味する。ライトが言うように、


 犯罪とは単なる個人間の私的な問題に止まらない。それは、あくまでも公的な問題であり、殺人の責任は殺人者だけではなく、社会全体も負っているのである。したがって、社会はこの事実を受け止めて、神の赦しを受けるために積極的に働きかけなければならないのである。3


 第二、たとえ殺人者を捕まえることができなくても、社会はその罪を解決するために何らかの対策を講じなければならない。そうしないと、社会自体が、司法や統治者と共に有罪とされてしまうのである。この儀式の目的は、「罪のない人の血を流す罪を取り除くこと」(申命21:9)である。ただこの意味において、集団的罪責が発生するのである。神の償いの要求に答えるために働かない者は、たとえその数が何百万人あったとしても、それぞれが個人的な罪責を負うのである。一方、償いを要求しておられる神の御心を行おうとするものは、その個人的な罪責を免除されるのである。集団的罪責は本質的に個人的である。しかし、国民や社会に対する神の集団的裁きは別途存在するのである。

 第三、これは判例法であるから、その原理を理解することが肝心である。その原理とは償いである。この法が要求しているのは、犯罪は必ず償われなければならないことと、悪は必ず正されなければならないということである。神はあらゆることが正しい秩序に回復されることを望んでおられる。それは、神に関することがらだけではなく、人間に関することがらにおいてもである。償いの原理は普遍的であり、ありとあらゆる領域に適用されなければならない。殺人者の代わりに動物を殺すというこの儀式を行うことによって、社会は「真の秩序を回復することは選択ではなく、神の命令なのだ」という信仰を表明しているのである。

 この問題を考えることによって、われわれは殺人に対する償いの原理についても考えさせられる。すでに多くの観点から償いについて考察してきたが、さらに深い観点からこの問題について考えてみたい。律法が殺人に対して要求する償いの方法のひとつは、死刑である。もう一つの方法は、出エジプト記21:30−32にある金銭による償いである。殺人者の個人的財産は、(妻の財産を除いたすべてが)没収されて売却された。

その代金は被害者の身内の者に対する償いとして支払われた。聖書律法を適用した社会の歴史を調べると、犯罪の中には内容の重大さから二倍の刑罰が課せられたものがあったことが分かる。中世の法廷では、借金を返済しない者に対しては、借金完済の義務が課せられただけではなく、偽証罪が適用された。それは、その被告が借金を支払うという契約を結んだにもかかわらずそれを破ったことは、偽証をしたことに等しいと考えられたからである。4 犯罪者が逮捕された場合、社会は神のみ前でその犯罪者に対して償いを要求しなければならない。しかし、逮捕できなかった場合でも、償いの義務は依然として残る。その場合、このようなケースに備えて特別に蓄えられた税金や罰金の中から国家が犯罪者に代わって償いをしなければならないのである。

 すべての悪が正され、すべての歪みが元どおりにされることは神の目的である。犯罪者が逮捕されない場合、国家や社会は贖いと償いを実行しなければならない。贖い(atonement)と償い(restitution)はほとんど同義であるが、贖いは償いよりもっと包括的な意味を持っている。それは、神と神の作られた現実世界との関係の中での償いという、より本質的な意味を含んでいる。

 この原理は西洋の法律の中に取り入れられている。ウォーラーは、イギリス法に関する著作の中で次のように述べている。



   犯人が捕まらない場合犯罪が発生した地区の住民に罰金を課すことを定めたこの法律は、今日最も効果的な法的救済措置となっている。これは注目に値することである。5



このような法律がないために、アメリカの多くの地域が犯罪の温床になっている。賠償法によって償いの義務が課せられないので、殺人、泥棒、様々な種類の犯罪がこういった地域に溢れ、堕落した役人や実業家のふところを肥やしている。賠償法に基づく刑罰が施行されないところでは、実利主義的な不法行為がはびこるのである。法廷と官吏と実業家が結託して、犯罪を見過ごし、そこからうまい汁を吸っている。どの様な事件に関しても賠償義務が課せられる地域においては、このような堕落した連合は存在できない。6

 第四、祭司が法廷に出席した事実に注目しなければならない。ヨセフォスの記録を読むと、モーセの律法の規定にしたがってレビ人が法廷に定期的に出席していたことが分かる。



 どの町でも、徳と正義を実践することに最も熱心な人々を7人選び、さばきつかさとしなさい。そして、この7人にそれぞれ2人の役人を割り当て彼らに仕えさせなさい。これらのさばきつかさとして選ばれた人々に大きな栄誉が与えられるように。そして、だれも彼らの前で彼らを罵ったり、彼らに対して無礼な振る舞いに出ることのないように。高貴な人々に対する敬意があるところには、神への恐れと敬いもあるものだ。これらのさばきつかさたちが賄賂を取って裁きを曲げたり、不正な裁判を行ったことが証明されるのでない限り、彼らが正しいと思うままに彼らに決断させなさい。判決は利得のために曲げられたり、地位や身分によって偏って下されたりしてはならない。

まず第一に何が正しいのかということが判決の基準にならなければならない。そうしなければ、このことをとおして、神は蔑まれ、彼があたかも身分の高いものや権力者よりも一段劣るものであるかのように見なされることであろう。また、さばきつかさたちは彼らへの恐れのゆえに判決を歪めることにもなるであろう。正義は神の力である。さばきつかさのうちのだれかが、権力者を喜ばせようとして裁きを曲げるならば、このような行為をとおして、彼は「権力者のほうが神よりも強い」という信仰を表明しているのである。

もしこれらのさばきつかさたちが自分の前にやってきた訴訟を正しく裁くことができないならば(こういったことは頻繁に起こることではあるが)、その事件を聖都エルサレムに送り、大祭司や、預言者、サンヘドリンに審議してもらいなさい。そして、彼らの判断に委ねなさい。7 


これらのレビ人は律法の決定と適用において権威を持っていた。さばきつかさたちは犯罪を扱い、証人の証言を聞いた。レビ人は、律法を具体的事例に適用した。


 すべての争いや暴行事件はレビ人の口によって裁かれなければならない。文字通り、どんな紛争もどんな暴行事件も彼らの口の上に置かなければならない。彼らはその行為を調べ、その性質を明らかにしなければならない。彼らが決定したことは、そのとおり実行されなければならない。(参照10章8節、17章8節)。この事例において、審判席にレビ人が在席していたことは、その裁定が有効であることを示している。8   


第五に、ホセア4:14を見ると、罪が広がり大きくなる時、姦淫の妻たちに対する神の個別的な裁きは、普遍的な裁きに変わっていることがわかる。雌牛の首を折る儀式は、妬みの裁判と同じ時期(紀元1世紀)に終わった。タルムードは、このように述べている。


 我らのラビ曰く、殺人者が増えたとき、雌牛の首を折る儀式は終わる。なぜならば、その儀式は疑いがあったときに行われるものだからである。しかし、殺人者が増えて平然と巷をかっ歩するようになれば、雌牛の首を折る儀式は終わるのである。9


どのような文化においても、一つ一つの事件に対する個別的な裁きがなくなれば、普遍的な裁きが続いてやってくるのである。罪があるところにかならず裁きもある。罪があるならば裁きを避けることはできない。もし犯罪者が法廷に引っ張られず、償いをするように求められないならば、国家が彼に代わって償いをしなければならない。偉大なる主であり、すべての人とあらゆるものの所有者であられる神は贖いを求めておられる。また、犯罪の被害者も正当な贖いを求めている。この二者の正当な要求は完全に満足されなければならない。もし満足されなければ、最終的に、社会全体に神の裁きが下るのである。

 キリストの贖いは、新しい人間性を創造するための賠償的行為であった。キリストは、神の律法を完全に守り、選ばれたものたちの身代わりに死なれた。このことによって、彼はご自分の民のための償いの御業を完了されたのである。主の民となり、新しい人間性を与えられた者たちは、神の御恵みへの応答として、人間と人間との間の償いの業を実践しなければならない。キリストを通して神と和解していない者たちは、人間とも和解していない。

 名ばかりのキリスト教会は、償いについて説教しないし、悪を正すこともしない。教会の問題に対する彼らの取り組み方は、実用主義(プラグマチズム)である。ある信徒奉仕者が道徳的問題を持っていても、その人が教会にとって非常に重要な人物である場合、争いを避けるため牧師のほうが追い出されてしまう。牧師が道徳的な罪を犯しているか、もしくは、牧会に適さない場合でも、教会を移されるだけで免職されることはあまりにも少ない。償いではなく、制度的な安全が彼らの目標なのである。




1.Keil and Delitzsch: The Pentateuch,III,404f.

2.G.T.Manley,"Deuteronomy," in Davidson,Stibbs, and Kevin: The New Bible Commentary,p.215.

3.G.Ernest Wright,"Deuteronomy," in The Interpreter's Bible,II,460.

4.F.R.H.DuBoulay:An Age of Ambition,English Society in the Late Mid-dle Ages(New York:The Viking Press,1970),p.138.

5.C.H.Waller,"Deuteronomy," in Ellicott,II,58.

6.参照:Ovid Demaris: Captive City(New York: Lyle Stuart,1969)

7.Josephus: Antiquities of the Jews,Bk.IV,viii.

8.W.L.Alexander: Deuteronomy,p.338;Spence and Exell: The Pulpit Com-mentary.

9.Sotah,47b;p.251.


ホーム