聖書律法綱要

 




第2戒


いけにえ と責任




 「犠牲制度は人間の原始時代の遺物に過ぎない。」一般の人々は、犠牲制度に関してこのような意見を持っている。犠牲制度が神の命令に基づいて制定されたものであることを聖書から示そうとする人々の言葉に、まじめに耳を傾ける人はいない。ある人は「犠牲制度の起源に関する単元発生説的理論を持ち出しても、丁重に断られるだけだろう。」と言った。1 このような慇懃な拒絶の背後には、人間の自律への信仰と、反神的世界観が横たわっている。

 犠牲は、聖書の教理の基礎であり、聖書律法の土台である。聖書律法を研究する人々はみな、犠牲が聖書律法において中心的位置を占めていることを悟るようになる。

 犠牲が法にとっていかなる意味を有するかという問題(というのも、本稿の関心は、社会学的というよりも法的な問題に向けられているので)を分析するには、まず第一に、次の事実を認める必要がある。すなわち、「(罪人が人間の身代わりに犠牲となることはできない、という事実を認めた上で)聖書の犠牲制度は、人間犠牲の教理の上に成立している。」ということである。イサクの犠牲に関してヴォスが述べたように、「人間犠牲は原則として非難されるべきものではない」2 。彼はさらに次のように述べている。


 聖書的犠牲はすべて、次の考えを土台として成立している。すなわち、「神に生命を捧げる行為は、それが聖別のためであれ、贖罪のためであれ、宗教の活動と回復にとって必要不可欠な要素である」という考えである。人間から神に譲り渡されるものは、財産とは見なされておらず、むしろ、たとえそれがある象徴的事柄を目的として行われる財産譲渡であったとしても、常に、結局のところ、生命の譲渡を意味している。

そして、原初の構想において、このことの目的は、自分以外の生命の償いや聖別にあるのではなく、犠牲を捧げた本人の生命そのものの献上にある。犠牲の概念の基本に存在する第二の原則は、「罪という異常な関係の中にある人間は、自分の生命を自分の名において捧げる資格がない」ということである。

それゆえ、ここに、「ある生命が他の生命の身代わりとなる」という代償の原則が働くことになる・・・。人間の生命の犠牲そのものが旧約聖書において非難されているのではなく、普通の罪人の生命を犠牲として捧げることが否定されている。モーセ律法において、これらは、複雑なシンボリズムの中に示されている。3


犠牲は「償い」と「聖別」のどちらにとっても有益であるという点に留意すべきだろう。ヴォスが指摘しているように、犠牲は、「犠牲を捧げた本人の生命そのものの献上」である。しかし、「罪による資格喪失」によって、「代償の原則」、すなわち、神が備え給うた代理の原則が導入されている。オエラーは、あらゆる種類の供物と犠牲について、次のように断言している。「供物全般の本質は、神に対する人間の献身にあり、それは、外面的な行為において表現される。」4 そして、これは、犠牲の本質でもある。すなわち、「神に対する人間の全的献身」こそ犠牲の真の意味である。

 第二、このような、神に対する真の全的な献身が実現するためには、愛と信仰に根ざした「神の律法への服従」が不可欠である。十戒の宣言に続いて、完全献身に基づく服従が要求されている。「それゆえ、あなたがたは、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたがたの神、主を愛さなければならない。」(申命記6章5節)。モーセは、まずシナイ山の第一日目に服従を命令し、その後はじめて犠牲について語り始めた(出エジプト19章5、6節)。

律法が与えられ、犠牲が捧げられたのは、第三日目になってからのことであった。エレミヤが強調したのは、この服従の重要性であった(エレミヤ7・21−24)。エレミヤ33章10、11節によれば、犠牲は服従と結びつかなければならない。そして、それは、回復の日に実現する。形だけの犠牲は預言者によって非難された。犠牲が、神に対する完全献身を意味するためには、どうしても服従が必要不可欠である。5

 第三、罪人の体を神への供物として捧げることは、神に対する恐るべき罪であり、裁きを招来します(エレミヤ7・30−34)。犠牲の本質は、神への献身であり、それゆえ、人身御供は、神の法を退け、神への人造接近法を発見する試みとなる。人身御供は徹底したヒューマニズムであり、人為的規準に基づく贖いの実現である。

 第四、供物と異なり、犠牲は、罪のない完全無欠な人間であるキリストを象徴している。キリストは、神への完全献身によって、律法をことごとく守り通された。キリストは、罪なき人間として、選びの民の罪を贖うために、神に受け入れられる犠牲となった。選びの民は、神の贖いの血によって贖われる。それゆえ、キリストを象徴するには、犠牲の動物には傷があってはならなかった。

 第五、信者はみな、神との平和と一致の絆としての犠牲を捧げなければならなかった。キリストの犠牲によって罪を覆われていない人々は、死刑宣告の下にいる。犠牲制度において、信者は、「自分の手を全焼のいけにえの頭の上に置」きた(レビ記1・4)。この「置く」という言葉をもっと語義に忠実に訳すと、自分の手を「寄り掛からせ」た。6 犠牲やあらゆる肉の特定の部分は、人間が食べることのできない部分として取っておかれた。

それは、血、内蔵を支える腹膜のひだ(または脂肪)、脂肪のついた腎臓であった。羊の場合は、尻尾(及び脂肪)であった。これらは、常に聖別された部分であり、祭司のために取り分けられた部分とはっきりと区別されていた(出エジプト29・22、レビ3・9、7・3、4、8・25、9・19、20)。受け入れられた動物犠牲は、牛、羊、子やぎ、家禽、キジバト、子バトであった。これらはすべて「清い」動物の中に含まれていた(レビ9・3、14・10、5・7、12・8、民数記28・3、9、11、7・16、17、22、23等)。

 血を流すことは、信者と神との一体性の基礎となった。オエラーは次のように述べている。


 第一に、契約の仲保者は、神に対して血を捧げる。これは「純粋な生命」を表す。これは、神と民との間に現れ、民の罪を覆い、贖いを成し遂げる。これに関して、祭壇への血の振り掛けは、単に神が血を受け入れたことを象徴するだけではなく、同時に、エホバが民と交わるために入る場所を聖別する役割も果たす。しかし、神によって受け入れられた血は、民にも振り掛けられた。

それは、「民の贖いのために捧げられたまさにその生命が、民自身を聖別し、神との契約的交わりを可能にするためにも備えられた」ということを示すためだった。それゆえ、聖別の行為は、生命の刷新の行為−−すなわち、イスラエルを神の御国へ導き入れる行為−−となる。神の御国は、神の生命エネルギーに満ち溢れている場所であり、祭司の王国、聖なる民の国として聖別された場所なのである。7

あらゆるものは血によって清められなければならない。そうしなければ、裁きの対象となる。

 第六、犠牲制度は、ある基本的な原則を法の中に導入する。それは、「責任が大きければ大きいほど、違反も大きくなり、罪も深まる。」という原則である。これは、レビ記4章においてはっきりと宣言されている。ここにおいて、罪には4つの段階があることが記されている。

(1)大祭司の罪(4・3−12)。大祭司の罪のためには、雄牛が捧げられなければならない。これはもっとも大きくて、高価ないけにえであり、「民全体が罪を犯した場合とまったく同一の供物で」した。8 宗教的な指導者は、神の律法に関して主要な責任を負っていたので、それだけ罪も大きく、神によって厳しく裁かれた。

(2)民全体の罪。民全体が犯す罪はそれに次ぐ大罪とされている(4・13−21)。ここで、「集会」とは、ヘブライ民族を表する。実際に、民が集団として罪を犯すことがあった。無知のゆえであれ、律法を守り行うことにおいて欠けがあった場合であれ、それはやはり罪として扱われた。この場合も、雄牛を捧げなければならなかった。

(3)統治者の罪。行政上の指導者の罪は3番目に大きな罪とされた。罪のいけにえは、「傷のない雄の子やぎ」(4・22−26)であった。「統治者」とは、「あらゆる行政官を含む。ここでは、行政官の負っている大きな責任について記されている。これは、箴言24章12節『もし統治者が偽りに耳を貸すならば、彼の部下もみな悪者となる。』とまったく同じ内容である。」さらに、聖書本文は「彼の神、主」についても語っている。それは、「統治者は特に、敬けんな人とならなければならないからで」した。9 

(4)個人の罪。土地の住民が犯す罪は、罪のリストの中でも最後に取り上げられている(4・27−35)。金持ちや裕福な人の場合、雌の子やぎが捧げられた。子やぎを捧げることができない場合は、小羊で代用することができた。不注意による罪の場合、貧しい人々は2羽のキジバトか、2羽の小鳩を捧げた(レビ5・11)。他のいけにえの場合においても同様に、この貧者のいけにえを捧げることが可能であった。したがって、個人の中には、統治者とほとんど同じくらい大きな責任を持つ者もいる。それは、彼らが社会の資産やある階層を支配しているからである。

心理学的に言えば、雌の子やぎは雄の子やぎよりも価値が低いと感じられるのに対して、生産面において、雌やぎは雄やぎよりも価値が高い。しばしば個人の中には、行政者よりも大きな権力を行使する人々がいる。彼らの罪はその責任に見合ったものとなる。このリストの中で、もっとも明らかなのは、宗教的指導者に明白かつ偉大な優位性が与えられ、統治者にはそれよりも低い地位が与えられているということである。

箴言29章18節はこのように述べている。「幻がなければ、民は滅びる。しかし、律法を守るものは、何と幸いなのだろう。」バークレー訳では、次のような注が付けられている。「幻」とは、「預言者の務め」を指す。この務めがなければ、「民は放縦に振る舞う。」と。法と秩序は、神の預言の言葉を誠実に伝えるかどうかにかかっており、それなしでは、社会は、無政府状態に陥る。

 第七、法の無知は、言い訳にはならず、不注意に起因する罪もやはり罪である。このことはレビ記4章と5章から明らかである。ここでは、そのような罪に対して犠牲を捧げるよう命じられている。ボナーは、律法のこの側面が重要であると述べている。


 ここにおいても、「罪とは律法の違反である。」ということが分かる。われわれが罪を犯すのは、ただ良心の命令に反することを行った場合だけではない。良心の呵責がない場合でも、罪を犯している場合がある。10


現代の自律的人間は、たとえこの問題について考えることがあっても、良心に痛みを覚えさせる罪だけが罪であると考えている。しかし、聖書律法では、罪と無法は、知識がなくても発生するし、良心の呵責を感じない場合でも起こり得ると述べている。実際、人間は良心的でありながら罪を犯すことがある。しかし、良心が痛まなかったから、罪を犯した事実も消えるのだということはできない。食人や人身御供は、どちらも人間の良心から出ている。その他にも多くの邪悪な風習が良心のゆえに行われてきた。堕落した人間の良心を立法の規準とすることはできない。

 モーセ律法の中で中心的な供物は全焼のいけにえ、穀物の捧げ物、和解のいけにえ、罪のいけにえ、罪過のいけにえであった。全焼のいけにえとして捧げられたのは、雄牛、やぎ、雄羊、小羊、キジバト、小鳩であった。これらは、動物の皮と祭司の分け前を除いて、祭壇の上で完全に焼き尽くさなければならなかった(レビ1章、6・8−13、7・8)。

罪のいけにえと罪過のいけにえは、すでに見たように、群の中の雄または雌の動物か、キジバトと小鳩、そして、小麦粉1エパの十分の一であった。罪のいけにえは、神の分け前を除いたすべてを祭司に渡すことになっていた(レビ6・24−30)。罪過のいけにえの一部も同じようにした(レビ7・1−7)。穀物の捧げ物として捧げられたのは、上質の小麦粉、穀物の青い穂、乳香、油、塩であった。これも、一部は祭司に奉献された(レビ2章、6・14−23)。和解のいけにえとして捧げたのは、雄か雌の雄牛、小羊、やぎ、そして、油を混ぜた種入れぬパンと聖餅であり、種の入ったパンも献上された(レビ3章、7・11−13)。

祭司が分け前として受け取ることができたのは、揺祭において捧げられた肩と胸の肉であった。人間の罪の身代わりとして奉献されたいけにえが祭司の手に渡ったという事実には、ある象徴的な意味が含まれている。それは、「民の犯した罪の記念物は、御怒りの火の中で焼き尽くされるが、祭司は、民の中から罪が取り除かれたことを示すために、自分の分け前を受け取る。」11

 しかし、第八、律法は、この聖めを行う前に、まず「償い」を完遂しなければならないと述べている。律法だけではなく、いけにえもまた、神の法秩序の回復を目指している。償いは、人に対してだけではなく、神に対しても実行されなければならない。ボナーは、レビ記16章について次のように述べている。


 神の家からだまし取る者は、その行為によって利益を得ることはできない。彼は、自分の犯した罪の刑罰に苦しむ。これは、時間の世界においても起こる。彼は、神から奪い取ったものに、その代価の五分の一を追加した金額を支払わなければならない。これは、民の宗教的指導者であり、聖なる務めにおける神の代理者である祭司に支払われた。

これは、「二重の十一税」であった。なぜならば、彼は神からだまし取ったからである。(通常の十一税は、神が十一税を受ける権利があることを認める行為であり、この二重の十一税は、神を欺こうとした者は、その欺きの行為の結果としてこの権利を「二重に」認めなければならないことを確認する行為であった。)12


 最後に、第九、種を入れたささげものは、和解のいけにえの一部であった。これは、重要な事実です(レビ7・13)。種(イースト菌)は、罪の象徴または型であると考えられているが、むしろ、それは腐敗の象徴であった。これは、和解のいけにえとして受容された。他のいけにえは、無傷・無罪の動物の血によって人間の贖いを成し遂げた。

人間は神との交わりを回復し、その結果、いかに不完全なものであっても、神はその人の行為を受け入れることができた。神への奉仕には、必ず腐敗の要素が伴う。人間のあらゆる仕事、建物、献品、奉仕は腐敗し、消えていく性質のものであるがそれにもかかわらず、神の律法を成就し、神に受け入れられる供物となることが可能である。

人間の業が受け入れられるのは、その人間が完全な存在であるからではなく、神が完全なお方であり、神が選びの民のために贖いを成し遂げてくださったからである。人間の律法遵守は、和解のいけにえであり、明らかに腐敗する運命にある。しかし、神の権威と命令に対して忠実な者が捧げる供物は、神の目において喜ばしい「いけにえ」であり、それゆえに神から報いを受け取ることができる。


1. T. H. Gaster, Sacrifice, in Interpreter's Dictionary of the Bible, vol. 4, R-Z, p. 147.
2. Vos, Biblical Theology, p. 106.
3. Ibid., p. 107.
4. Oehler, Theology of the Old Testament, p. 261.
5. Vos, Biblical Theology, pp. 282-294. を参照せよ。
6. Andrew Bonar, Leviticus (London: Banner of Truth Trust, 1846, 1966), p. 15.
7. Oehler, Theology of the Old Testament, p. 264.
8. Bonar, Leviticus, p. 67.
9. Ibid., p. 80.
10. Bonar, Leviticus, p. 88.
11. Ibid., p. 97.
12. Ibid., p. 102 f.



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