十戒の序文は律法全体への導入であるだけではなく、第一戒への導入でもある。
それから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた。「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない(出エジプト20・1−3)。ここにおいて、神は、まず、御自身を自存の絶対者−主−と宣言しておられる。第二、神は「ご自分は彼らの救い主であり、それゆえイスラエル人と神(「あなたの神」)の関係は恵みの関係であること」をイスラエルに思い起こさせておられる。神がイスラエルを選ばれたのであって、イスラエルが神を選んだのではない。第三、律法は恵みの民に与えられている。すべての人はすでに裁かれ、堕落し、失われている。すべての人は律法の怒りの下にある。このことは、震える山と汚れたままで山に近付くものは死ななければならなかったという事実によって強調された(出エジプト19・16−25)。
これは、あなたがたの神、主が、あなたがたに教えよと命じられた命令−おきてと定め−である。あなたがたが、渡って行って所有しようとしている地で、行うためである。それは、あなたの1生の間、あなたも、そしてあなたの子も孫も、あなたの神、主を恐れて、私の命じるすべての主のおきてと命令を守るため、またあなたが長く生きることのできるためである。イスラエルよ。聞いて、守り行いなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、あなたの父祖の神、主があなたに告げられたように、あなたは乳と蜜の流れる国で大いにふえよう(申命記6・1−3)。第一、神がこれらの命令をお与えになったのは、御自身への恐れを呼び起こすためであり、その恐れによって服従を促すためであった。神は、絶対の主・立法者なる神であり、それゆえ、神を恐れることなしには、健全な精神と常識を保つことはできない神への恐れを失うと、現実感覚も失われる。
聞きなさい。イスラエル。主はわれわれの神。主はただ1人である。心を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。最初の2節(6・4、5)は「シェマ・イスラエル」である。これは、イスラエルの朝と夕べの祈りとして朗唱された。また、「ラビはこの中に十戒の原則が含まれていると言いた」。2 「シェマ」の第二の部分(5節)は、申命記10章12、13節において繰り返されている。
イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ることではないか。3キリストは、「最も重要な戒め」−つまり、律法の基本原則−として申命記6章5節を引用された。しかし、この戒めの前提は、申命記6章4節「聞きなさい。イスラエル。主はわれわれの神。主はただ1人である」である。これをクリスチャンの宣言として言い換えるならば、「われわれは3位にして1人なる神、1人にして3位なる神を礼拝する」となる。これは、神がお1人であることに対する信仰であり、「多くの神、多くの主」4 への信仰と対照をなしている。
ある人々は、聖さを求めることが大切であると言いながら、良心を安らかに保つため、恵みを非常に強調する。また、恵みが満ちあふれるために罪を犯す自由が与えられている、と主張する。さらに悪いことには、自らのあらゆる行いが罪に汚染されているという事実を否定する。なぜならば、彼らは恵みによって律法の要求から解放されたので、罪を犯すことができないと信じているからである。キャンパスでの活動に専念しているある「福音主義的」団体は、実際に「律法はサタンによって与えられた」と教えた。(筆者の娘は、この運動のリーダーによって大学で開かれたクラスの席上でこの発言を聞きた)。このような見解は冒涜と呼ばざるを得ない。
彼らは過激派アルミニウス主義者である。彼らは聖書の具体的な箇所から自らの見解を証明することができない。その教義及び精神の全体は聖書の本文と矛盾している。しかし、他の人々、及び、現代においてすぐれた存在であると見なすことのできる、アルミニウス主義を代表する1流の学者たちは、キリストの模範と教えに則った聖い生活を唱えている。彼らは次のように言うのにやぶさかではない。「神の御心への服従−しかも、戒めを守るという意味での服従−は、再生者の心にとってある種の喜びであり、義務である。服従という言葉は、愛を冷やし、新しい創造の概念を弱めてしまうものではないか、と心配する人もいるが、聖書はそのようには教えていない。
服従すること、そして、愛するお方の戒めを守ることは、愛のあかしであり、新しい創造にとって喜びである。たとえ私が何かにおいて成功をおさめたとしても、服従を忘れるならば、私は正しいことを行っていない。なぜならば、私と神との真実な関係が失われているからだ。神の戒めを守ること、これが愛である」(ダービー『律法について』3−4頁)。ここまでは実に素晴らしい。
しかし、彼らは「ここで言われている戒めは、明確に他と区別できる律法啓示の内にはない」と言う。「律法はある特定の性質と目的を持っており、律法をその目的から切り離すことはできない。
そして、その目的のゆえに、律法は常に悪の使いである」。「律法は人々を取り扱うための原理である。それは人々を滅ぼし、責めさいなむ。(筆者はさらに言う)。
これは、聖霊が律法を用いる方法であって、キリストが律法を用いる方法とは対照をなしている。キリストは御教えの中で、けっして人々を律法の下に置き給わなかった。聖書は『ある意味であなたは律法の下にいないが、別の意味では律法の下にいる。つまり、義と認められるために律法を守る必要はないが、生活の規則としては守らなければならない』とは述べていない。
聖書は次のように宣言する。『あなたがたは律法の下にはおらず、恵みの下にいる。もし律法の下にいるとすれば、あなたは責められ、呪われるのだ。
もはやその下にはおらず、そこから解放されたものによって、どうして縛られなければならないのだろうか』」。(『前掲書』4頁)
この教え−キリストの教えや戒めと律法の命令を区別し、前者はクリスチャンの良心を拘束するが、後者はそうではない、とする教え−は部分的無律法主義に他ならない。これは本質において新しい律法主義である。なぜならば、旧い時代に関する律法だけが否定され、それ以外はキリスト教倫理の原則を体現し、キリストの御霊の生命と力に結びついている、と考えるからだ。6
彼(モーセ)は次のことを知らせたかった。「第一戒は他のすべて[の戒め]を測るものさしである。それらはこれに従属しなければならない」と。それゆえ、もしそれが信仰と福祉のためになるならば、第五戒を破って人を殺してもよい。アブラハムは王たちを殺したし(創世記14・15)、アハブ王はシリアの王を殺さなかったために罪を犯した(第一列王20・34)。このような混乱した発言は、さらなる混乱しか生まない。
同じ事は神の敵に対する盗み・待ち伏せ・騙しについても言うことができる。あなたは敵の財産・商品・妻・娘・子ども・下僕を奪ってもよいのだ。主を愛するためには自分の父母を憎むべきなのだ(ルカ14・26)。つまり、あることが信仰と愛に逆らうのであれば、それ以外のことが神か人間によって命じられていると理解してはならない。しかし、それが信仰と愛のためになるならば、あらゆる場合にそしていかなる所でも、すべてのことが命じられていると理解すべきなのだ。
というのも、次の御言葉が有効だからだ。「私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい」。これらのことばが心を支配すべきである。さらに、もしそれらが心の内にないならば、きっとだれもこの「柔和さ」を理解したり、それに従うことはないだろうし、律法を適切・安全・合法的に使用することもできないだろう。それゆえ、パウロは第一テモテ1・9においても次のように述べている。「律法は義しい者のために定められたのではない」。
それは、律法は良い心と偽りのない信仰(第一テモテ1・5)から履行されるからである。信仰は、いかなる律法も持たない場合、または、あらゆる律法を持っている場合、律法を合法的に使用する。いかなる律法も持たずというのは、もしそれらが信仰と愛のために働くことがないならば、いかなる律法も拘束力を持たないからである。また、あらゆる律法を持っているというのは、もしそれらが信仰と愛のために働くならば、すべてが拘束力を持つからである。
それゆえ、モーセは次のことを言いたかった。「もし他の神々を避けるために第一戒を正しく真に理解したければ、1人の神を信じ、かつ、愛のために行動し、自分を捨て、あらゆることを恵みによって受け、あらゆることを感謝をもって行え」と。9
あなたの神、主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地にあなたを導き入れ、あなたが建てなかった、大きくて、すばらしい町々、あなたが満たさなかった、すべての良い物が満ちた家々、あなたが堀らなかった掘り井戸、あなたが植えなかったぶどう畑とオリーブ畑、これらをあなたに与え、あなたが食べて、満ち足りるとき、あなたは気をつけて、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主を忘れないようにしなさい。第六の原理は、「神のねたみ」である。これは極めて重要な事実である。選ばれた民は、労せずして得た豊かな土地を占領し所有する時、自分を解放し、繁栄を与えてくださった神を忘れることがないようにせよ、と警告されている。神に敵対する文化が生み出した富を目の当たりにして、神の契約の民は「主に帰依しなくても成功や繁栄を手中におさめることができるのではないか」と考える誘惑にかられる。
あなたの神、主を恐れなければならない。主に仕えなければならない。御名によって誓わなければならない。ほかの神々、あなたがたの回りにいる国々の民の神に従ってはならない。あなたの神、主、ねたむ神が、あなたの最中におられる。あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、主があなたを地の面から根絶やしにされないようにしなさい。13
もしあなたが、誓約事項を神と関係づけ、それを神の御名において理解するならば、あなたは、神の御名によって誓うことになる。それが神の不興を買うことを知っていれば、あなたは誓わないだろう。同じように、神の御名において人々に仕える時にのみ、あなたは神に仕えていると言える。イエスの誘惑の記事の中で、3つのサタンへの御答えの中の2つは申命記6章からの引用である。つまり、「あなたの神である主を試みてはならないとも書いてある」(マタイ4・7、申命記6・16)と、「下がれ、サタン。あなたの神である主を礼拝し、主にだけ仕えよと書いてある」(マタイ4・10、申命記6・13、10・20)である。3番目の答えは、関連箇所−申命記8章3節−から引用されている。
だが、もし神の御名において仕えていなければ、あなたは神に仕えていない。そのような誓いによって、あなたは自らの奉仕を神だけに捧げることができ、けっして神と関わりのない仕事や誓いに逸れていくことはない。
それゆえ、キリストはマタイ23章16−22節において、「神殿や祭壇や天を指して誓う者は、神によって誓っている」と言われたのだ。また、マタイ5章35−36節において、キリストは、エルサレムや自分の頭、天、その他何物をも指して誓ってはならない、と言われた。というのは、これらすべてにおいて、人は神によって誓っているからである。うわついた気持やむなしい心で神に誓うことは、神の御名をみだりに唱えることに他ならない。
それゆえ、ただ御名によって誓うことを神が求めておられる場合、その理由は2つある。すなわち、(1)真理(すなわち、神)を求める者は、神御自身の確証以外、いかなる者の確証をも求めるべきではないからであり、さらに、(2)人は神だけに仕え続けるべきであり、あらゆるものを神に関係づけることを学び、あらゆるものを神の御名において行い、所有し、使用し、堪え忍ぶことを学ばなければならないからである。
もし別の名前を用いるようになると、彼らはいつのまにか正道から外れるだろう。そして、あたかもその名前が神とは無関係のものであるかのような錯覚を抱きつつ誓うことに慣れてしまう。そして、悪い使用を続けるうちに、ついに彼らは、神への奉仕に役立つ行為と、役立たない行為との間に区別立てをするようになる。しかし、神は、「人はすべてのことにおいて神に仕えるべきであり、すべてのことを恐れを抱きつつ行え」と命じておられる。なぜならば、神は[人のすべての行いを]見、裁くために臨在しておられるからである。それゆえ、誓いは、剣や性交とまったく同じように利用すべきである。キリストが言われたように、剣を取ることは禁じられている−「剣を取る者は、剣によって滅びる」(マタイ26・52)。つまり、[上からの]命令によらず、自分の欲望にかられて剣を取る者は滅ぼされる。
しかし、剣を帯びることが神によって、または、人を通して命じられた場合、それは命令であり、神への奉仕なのである。というのも、それは、パウロが「彼は、あなたに益を与えるための神の僕である」(ローマ13・4)と述べたように、隣人の益のために、主の御名において生まれたからである。また、肉体を性的に利用することも禁じられている。
なぜならば、それは無秩序な欲望だからである。しかし、性交が結婚によるものである場合、肉体を利用すべきである。そして、あなたは神の律法に報いる−つまり、命じられたことを愛する−。同じように、人は誓いを利用すべきである。あなたは自分のために誓うのではなく、神や隣人のために主の御名によって誓うべきである。そうすれば、あなたはいつも神だけに仕え続けることができる。14
あなたがマサで試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。あなたがたの神、主の命令、主が命じられたさとしとおきてを忠実に守らなければならない。主が正しい、また良いと見られることをしなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、主があなたの先祖たちに誓われたあの良い地を所有することができる。そうして、主が告げられたように、あなたの敵は、ことごとくあなたの前から追い払われる。サタンがイエスに行わせたかったのは、実にこのこと−つまり、神を試みること−であった。イスラエルはマサで神を試んだ。彼らはこのように言った。「主はわれわれの内におられるのだろうか」(出エジプト記17・7)。
第一の方法は、手近にある必要物を利用することではなくて、手近にない他の物を探すことである・・・。ゴロゴロしてばかりいて働こうとしない人は神を試みているのだ。彼は、「仕事をしなくても神は当然支えてくださるだろう」と思っている。箴言10章4節(「無精者の手は人を貧乏にし、勤勉な者の手は人を富ます。」)において明らかにされたように、神は仕事を通して人を養ってくださるのだ。この下品な独身主義はこれに類似している・・・。シェマ・イスラエルと申命記6章の軽視は、律法軽視の中で最も重要な要素である。
第二、回りに神の御言葉しかなく、必要な物がすぐに手に入らない場合、人は神を試みる・・・。というのも、不信心な者たちは、神の御言葉に満足しないからである。彼らが決めた時と場所と方法で、神が約束なさったことを実行されないと、彼らはあきらめて信仰を捨てる。しかし、神に対して場所や時間や方法を指定することは、実際、神を試みることであり、いわば、神がそこにおられるのかどうか試すことに等しい。しかし、これは神を制限し、神をわれわれの意志に従わせようとすることに他ならない。これは、実際の所、神から神性を奪うことなのである。神は自由であり、何物にも束縛されたり制限されるべきではない。神は、われわれに対して場所や方法や時間を指定されるお方である。それゆえ、どちらの誘惑も第一戒に違反している・・・。16