R・J・ラッシュドゥーニー
イスラエルという名前は、ペニエルにおけるヤコブの主の天使との格闘に由来する。創世記32章28節では、その名前が次のように定義されている。
その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」ここで神がヤコブに宣言しているのは、ヤコブが神と人と戦って(sarita)、勝ったということである。sarita は sara (戦う) の派生語である。これは、サラ(sarah=王妃)の元の名と同じ語根をもつ(創世17:15)。Sarai,Jah は君子である。イスラエルは神と共に治めることを意味しており、神も共に治める。それはルドルフ・スメンドと同様に次のように解釈することができる。
イスラエルはエル(神)が戦うと言う意味であり、ヤーウェとは、民が自らをそれに因んで名付けたところの、戦うエルのことである。戦場における宿営は民族の揺籠であり、それは最古の聖所でもあった。イスラエルもそこにおり、ヤーウェもそこにおられた。1
我々はどのようにして『格闘』や『戦い』から『治めること』を導き出すことができるのだろうか。そしてどこに『王子』や『王妃』の意味が入ってくるのだろうか。このギャップは我々にとって大きい。というのは、現代人は統治ということを漠然としかとらえることができないからである。現代人は統治と聞くと、法廷、宮廷人、バンケット、数えることのできないほど多くの召使、そして莫大な富を連想する。旧約と新約聖書においては統治を表す幾つかの言葉が存在するが、すべては行動と主権を意味している。これらのうちの一つは、sarar (王子になること)である。イザヤ32章1節には、「見よ。ひとりの王が正義によって治め、首長たちは公義によってつかさどる。」とある。正義を成功裡に実行していくことが統治なのである。箴言8章15、16節において、知恵は、知恵によってのみ「君主たちは正義を制定する。わたしによって、支配者たちは支配する。高貴な人達もすべて正義のさばきつかさも。」と宣言する。真の統治や支配は正義の支配を前提とする。同じ言葉の用例として興味深いのは、エステル1章22節である。アハシュエロスは王妃ワシュティとのトラブルの後、「王のすべての州に書簡を送った。各州にはその文字で、各民族にはその言葉で書簡を送り、男子はみな、一家の主人となるよう…命じた。」
このように、『統治』という言葉、sararの前提は、確信をもって勝利を得ようと奮闘することである。『統治』には反対がつきものであるが、明白かつ完全なる成功も前提として存在する。ヤコブがイスラエルと呼ばれたということは、この様に、彼が神が共にいる君子であることを明らかにしたあの勝利の闘いの証しであった。というのは、神は、あの格闘においてご自身の目的を遂行しつつ、そこに臨在しておられたからである。
旧約及び新約(ガラ6:16)における契約の民が神のイスラエルと呼ばれている場合、これは、彼等が神が共におられる君子であり、恵みの君子・神の友(ヨハネ15:13−15)、そして神が支配しておられる民であることを意味している。
イスラエルと言う名前は、神が神の御民の中で、また、彼等を通して、戦われ、成功裡に戦争を遂行されることをも意味している。パウロはイスラエルという名前が背信的な民には相応しくないことを明らかにしている。これは神によって召され、神によって治められている人々に相応しい名前なのである。
…なぜなら、イスラエルから出るものがみな、イスラエルなのではなく、アブラハムからでたからといって、すべてが子どもなのではなく、「イサクから出るものがあなたの子孫と呼ばれる。」のだからです。すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです。(ロ−マ9:6−8)第一、パウロは二つのイスラエルがあると言っている。ひとつは、外面的イスラエルであり、神のひとり子を拒絶したにも拘らず、尚もイスラエルであることを主張している。もうひとつは、神の本当のイスラエル、エクレシア、神の王国である。第二、神のイスラエルに加えられる条件は、けっして血縁によらなかった。それは、常にただ神の恵みによるのであり、信仰によって人は受け入れられた。アブラハムの信仰を共有する人のみがキリストに属するものであり、選ばれた民なのである。第三、血縁や生まれによって契約の民に加わろうと要求するものは、ユダヤ人であろうと教会のメンバーであろうと、贖われていない人間性を備えた肉の子であって、新生した神の子ではない。第四、ロ−マ11章において、パウロは、神の真のイスラエルが救いや祝福、勝利を受けるのに対し、名ばかりのイスラエルは、新生したイスラエルになるまで切り離されると述べている。
このように、我々は一方で裁きを持ち、一方で祝福を持つ。神の真のイスラエルは支配者である。これは、第一コリント6:1−20の要点である。聖徒は世界を裁き、治めなければならない。これゆえ、彼等は自分自身を治めることを学び、自分自身の罪を征服しなければならない。そして神の法に従い、彼等の間の紛争を解決し、生活のあらゆる領域においてドミニオンを実行する努力を継続しなければならないのである。
すでに観察したように、イスラエルという名前は、エル(=神)という言葉だけではなく、サラール(=闘う)という言葉をも含んでいる。パウロは第一コリント9:25のギリシャ語テキストにおいてこの意味を繰り返している。ここで使われている言葉は、闘うこととか競うことを意味するギリシャ語 agonizomai である。
また闘技をする(striveth for the mastery)ものは、あらゆることについて自制します。彼等は朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。ここでの象徴は、一つには運動に関することであるが、一つには王室に関するものでもある。というのは、その目標は支配や統治であって、単なる、終りのあるレースではなく、キリストにある永遠の支配だからである。
このように、神のイスラエルであるということは、主の御名によって支配する民であるということであり、キリストが直接に治める民であるということである。神が我々を贖ってくださったことにより、我々は「ご自分の父である神のための王、祭司とされたのである。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。」(黙示1:6)。これと同じ原理が出エジプト記19章6節に記されている。そこでは契約の民が祭司の王国と呼ばれている。(参照第一ペテロ2章19)。
王を意味するヘブライ語は、メレク(melek)であり、この言葉は所有とかカウンセラーを意味する古代語に関係していると思われる。このことは、真の王が知恵に満ちた助言者であるだけではなく、領地を所有する所有者であることをも示しているのであろう。我々が神のイスラエルであることは、神の助言、信条、御言葉、律法の歴史において供給者である我々が、同時に神の相続者であり、神の王国であるこの世界を所有する所有者であることをも意味する。
かくして、イスラエルという名前の中に勝利の終末論が内示されている。前千年王国論者は、その終末論において誤っているが、イスラエルの名前を神の勝利の王国と関連付けていることにおいて正しい。しかし、彼等は勝利のイスラエルを恵みの契約と同一視せずに、かえって肉の子孫と混同している。どの時代においても、真の神のイスラエルと恵みの契約とは同じである。
もし、我々が闘うことや争いを否定するならば、我々は、我々の王的地位、神の王国、そして我々の王キリストを否定することになる。
"98 ISRAEL AND DOMINION", Law and society, pp428-430, Vallecito California:Ross House Books, 1982 の翻訳。