シャウル・メイヤー・ベン・イツァクは、私がブリスを受けた時に与えられた名前です。「ブリス」とは、契約を表すイーディッシュ語(ヘブライ語ではブリット)であり、割礼を施す時に使用する言葉です。・・・
ユダヤ人の男の子は、ブリスの時に名前を授けられます。これは、恐らく、聖書において、名前は、命名された者の本質を示し、契約的生活の始まりを象徴しているからなのでしょう。・・・
私の母はニューイングランドで生まれ、父はブルックリン生まれです。どちらも東ヨーロッパの移民の家系です。祖父母は「屋根の上のバイオリン弾き」を地で行くような人々でした。「伝統−−わが生命!」といった具合です。これが私の文化なのです。
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いや、それは私の文化「であった」と言ったほうがよいかもしれません。
アメリカに移住してきた第一世代は、故郷の文化をそのまま持ち込んできます。第二世代は、この文化とアメリカンドリームを調和させようと腐心します。第三世代になると、アメリカのポップカルチャー(とくにテレビ)によって、祖国の文化は完全に骨抜きにされます。
ちなみに、この現象があるので、私は、アメリカにおいて回教徒が増加することにあまり不安を覚えないのです。2000年までに、回教徒の数はユダヤ人のそれを凌駕します。しかし、回教徒の子供たちがテレビを見ている限り、彼らもご多分にもれずこのアメリカの空虚なエセ文化に取り込まれてしまうでしょう。あらゆる絶対主義の価値観は、この相対主義的ヒューマニズムという現代の怪獣にいとも簡単に飲み込まれてしまうのでしょう。
「三代目、さて、私は一体誰なの?」というキャッチフレーズは、「ベビーブーマー」世代の性格を最もよく表しています。それは、20世紀の初めに移民してきた人々が最も多く住むこのニューヨークにおいてとりわけ顕著であると言ってもよいでしょう。ニューヨーカーたちは、自分が家族の伝統を持たぬ根無し草であることを自覚しています。三世たちは、心の奥底で、アイデンティティーを求め、コヨーテのように泣き叫んでいるのです。
ユダヤ系三世は、他の文化や伝統を理解することによって、このような精神的空虚を埋めようとしています。新興宗教に走る人々もいます。とにかく、心の拠り所となるならば何でもいい、といった具合です。今日、福音を受け入れているユダヤ人の大半は、無宗教の家庭の出身者です。そのため、ユダヤ人伝道に携わっている伝道団体の大部分は、ただ世俗化の波に乗っているだけなのです。伝道には、ユダヤ人のための特別なプログラムは必要ありません。他の人々に対するのと同じようにパワーを送り続ければいいのです。伝道に成功しているのは、ユダヤ人の中の周辺部の人々だけであって、私の父親の世代の中核を成している人々への伝道はほとんど手つかずの状態のままなのです。そして、正統派のユダヤ人に関しては、あらゆる階層において、彼らを獲得することに成功している伝道者は皆無です。
20世紀において、何十万人とも言われるユダヤ人が大量に回心しました。しかし、これが終末の証拠であると早急に結論はできません。ローマ書11章等に記されている本当の回復は、まず第一に、正統派のユダヤ人が回心することから始まらなければならないのです。つまり、宗教についてちゃらんぽらんなユダヤ人ではなく、厳格にユダヤ教の儀式を守っている人々がキリストを信じることなしには、けっして真の意味での回復は起こらないと思うのです。
正統派のユダヤ人は、まだ福音に対して頑なな態度を取っています。彼らを導くことはほとんど出来ていません。人間的な言い方をすれば、ラビ的ユダヤ教と伝統という「要塞」は、あまりにも強固であり、それが人々を支配する力はあまりにも強大です。その力の多くは、クリスチャンの交わりにおいてはほとんど見ることができないもの−−つまり、ユダヤ人の心の奥深くにしみこんでいる「契約」の感覚−−から生ずるのです。ルター派は、聖餐式にキリストが「実際に臨在される」と説きますが、これと同じように、契約は、正統派のユダヤ人の生活のあらゆる部分にしみこんでいます。契約は彼らの生活の基礎であり、それらを包み込む原理なのです。
それほど正統的な生活をしていないユダヤ人でも、歴史の中で、ユダヤ人がどのように契約を意識して生活してきたか知っています。そして、その知識のゆえに、ユダヤ人は、自らの歴史があたかも自分自身の歴史であるかのように感じることができるのです。宗教的に厳格なユダヤ人にとって、世界は「われわれ(ユダヤ人)と彼ら(異邦人)」から成り立っています。・・・
ユダヤ人に対して真に影響を与えるためには、教会は、契約に従う生活がいかに豊かな生活であるかを証ししなければなりません。そうでなければ、正統派のユダヤ人は「あなたたちは私たちに何を与えてくれますか。」と質問することさえしないでしょう。もし、私たちが、キリストを契約から切り離し、契約とは無関係な存在であると述べるならば、たとえ「私たちにはキリストがいらっしゃいます。」と語っても、彼らにとっていかなる意味もないのです。神はイザヤに「わたしは、あなたを民の契約となし、異邦人の光とする。」(イザヤ42・6;参照49・8)と仰いました。ここで、神は、契約とはすなわちイエス御自身であることを示されたのです。
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契約の法のない所に、契約は存在しません。
今から18年前に、筆者は、友人であり共役者でもあったデイビッド・シルドクラウト(彼は正統派のユダヤ人として育てられた)と共に、2人のカシディック派のユダヤ人に伝道しました。そのころ、私たちは熱心なディスペンセーション主義者[律法が今日では無効であると主張する立場]でした。律法の問題が話題に上った時に、私たちは彼らに「律法は今日では何の意味もないのです。」と言いました。すると、彼らは、あんぐりと口を開けて、火星人でも見るかのようにまじまじと私たちの顔を見続けたのです。しばらくの沈黙。神の聖なる法など不要であるという考えを聞かされて、彼らは恐怖の念に包まれたのです。詩篇119篇[律法への愛を謳った詩]は今日いかなる効力もなく、あの聖なる詩篇は契約の民の心情を正確に表現していないなどと主張するキリスト教とは、いったいどんな宗教なのだろう、と思ったのです。
もちろん、彼らは正しかったのです。特に、この問題について彼らの見解が正しいことを認める立場は、カルヴァン主義の信仰です。そして、イスラエルの回復を切に望み、その希望を成就する上で教会が重要な役割を果たすと信じているのも、カルヴァン主義者なのです。チャールズ・ホッジは次のように言いました。
「パウロは、ユダヤ人が神に立ち返るのは、『異邦人に示されたあわれみを通して』であると述べた。すなわち、異邦人はユダヤ人を回復に導く神の道具となる。」
さらに、ホッジは、キリスト教会とユダヤ人が互いに結びあう時に、キリストに従うすべての人々の心の中に次のような感情が生まれると述べています。
(1)義務の感覚、
(2)心からの同情、
(3)ユダヤ人への軽蔑の念の破棄 そして、
(4)ユダヤ人が神に立ち返ることに対する切なる願い
私は、さらに5番目をつけ加えましょう。私たちは、ユダヤ人が私たちよりもすぐれた信仰者となり、私たちが彼らから学ぶ時がくることを認めなければなりません。契約全体に関する考え方において、私たちはユダヤ人から多くのことを学ぶ必要があります。彼らから学ぶことなしには、私たちの契約観は、抽象的で、平面的かつ空虚なものでしかありません。・・・
契約は、御名のゆえに教会を義に導く鍵なのです。契約は、聖霊によって私たちの力を刷新し、あの「わたしが命じたすべてのことを[全世界の国民に]教えよ。」とのキリストの命令を実現させる主要な手段なのです。契約によって、私たちは、キリストにある兄弟姉妹を愛することができるようになるのです。・・・
契約は、キリストが祈られた次の祈りを歴史において実現するための秘訣です。「彼らが完全な一致に導かれ、世がそれを見て、あなたがわたしを送られたこと、そして、あなたがわたしを愛しておられるように、彼らをも愛していることを知ることができるように。」この一致は妥協の産物ではありません。これは、協力によって生み出されるものではなく、もっぱら契約において実現します。一致の鍵は契約にあります。それは、主の御名を呼び求めるすべての人々に与えられているのです。
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Chalcedon Report, No. 387, October 1997, The Covenant Key, by Rev. Steve Shlissel からの抜粋。
This article was translated by the permission of Chalcedon.