摂理
R・J・ラッシュドゥーニー
以前、(123号で)すでに指摘したように、キリスト教は、神の御言葉によって物事と物事との間に境界線を引き、それらを区別することを求めます。罪と義を区別し、善と悪を分け、救われる者と滅びる者を分別します(マタイ10・34−35)。区別にはある一定の基準が適用されますが、それは、神の基準であって人間の基準ではありません。
ヒューマニズムが支配し、人間讃歌が響きわたる社会において、万人を平等に扱うように求める声は、時を経るにつれてますます強くなっていきます。犯罪者と遵法者は同等に扱われ、金持ちと貧困者の区別は撤廃されます。知識人と無学者とを分ける間隙はすべて埋め尽くされ、万人は、民主主義と平等の名のもとに、一つの共通の地位にひとくくりにされます。ヒューマニズムにおいて、万物の価値の決定者は人間であり、それゆえ、人間を裁く基準は人間が決定したもの以外であってはならないのです。人間を裁くことのできる唯一の存在は人間自身なのです。
人間が唯一の基準となると、(神だけではなく)人生も世界も自らの存在意義を失います。もし人間が自分自身の神であり法であるならば、自分以外の基準や法は無用であり、それらが人間を裁くことはけっしてできません。しかし、そうなると、あらゆる基準という基準がすべて崩壊してしまうので、社会にとってそれ以上の発展は不可能となるのです。もし人間が自分自身にとっての神であるならば、人間には進歩も発展も不要なのです。なぜならば、神とは進歩したり向上したり教育されたりする必要のない存在なのですから。
歴史の草創期に、極東では数々の偉大な文明が発生しました。それらは、きわめて高い水準に達しましたが、停滞と滅亡の運命を避けることはできませんでした。なぜアジアは没落してしまったのでしょうか。なぜ、成長を止め、バイタリティーを失い、凋落と敗北主義に堕ちてしまったのでしょうか。
それは、その文明を支えている思想が、ことごとく世界と人生を否定していたからなのです。文明の凋落の原因は、人間以外のあらゆる絶対者を否定するヒューマニズムを受け入れ、それによって支配されたことにありました。中国の慈悲の女神「観音」は、このようなヒューマニズムの典型でした。彼女は、天国に入ることを拒み、このように言います。今生きている者、これから生まれるべき者たちがすべて天に迎え入れられるまで「自分の個人的な救いを受け入れることはすまい」と。
このような平等主義の教義は、天国を拒み、地上におけるいかなる平和も存在しないと宣言しているのです。その教えは次のように主張します。「全員が救われるのでなければ、それは天国でもなんでもない。」「万人はすべて等しく義と認められるべきであり、最善のものを受け取る権利がある。」と。
しかし、これはあり得ない話です。そのようなことを主張すれば、皮肉と絶望と悲観論しか残りません。いかなる基準も存在せず、万人と価値の完全なデモクラシーしかない世界においては、善悪の区別は撤廃され、万人が平等に扱われるので、生命にも死にも等しい価値が与えられ、この世のあらゆる存在は無意味になるのです。このようなデモクラシー信仰と、万物への博愛は、万物に対する均等なる憎しみしか生み出さず、終いには、「無」だけを称揚する宗教に行き着かざるをえません。結局、アジアの思想と文化が衰微したのは、アジアの世界が「無」を賛美し、「無」に文明の土台を据えていたからなのです。
このような思想はギリシャにも侵入し、その文化を滅ぼしました。ニヒリズムはローマの衰亡を促し、中世の世界をも衰退に導いたのです。中世の末期に、ヒューマニズム的相対主義は再び日の目を見るようになりました。吟遊詩人たちが放浪の先々でこの教えを民衆の間に広めました。教会の教師たちも講壇からそれを語りました。
今日、これと同じ状況が私たちの目の前に広がっています。現代のヒューマニズムは、これとまったく同じような「価値の破壊」を行っているのです。少し前までは見向きもされず、文明の遺物として葬り去られていたアジアの古い思想が、突如として脚光を浴び、大変魅力的な装いで現代人の目の前に現れたのです。アジア思想の「無」の教義は、現代人の心の空洞に鳴り響いています。人々は、禅仏教や道教、ヒンズー教(超越的瞑想)など数多くの思想を、押し入れから引き出し、埃を払って使っています。このようにして、現代人は自分自身の埋葬の準備をしているのです。
これらの思想には、摂理の信仰はありません。そこにあるのは、ただ、「無」と、「無意味という大海を背景に浮き立つ人間の孤独な思い」だけなのです。人々は声高に愛を唱え、宇宙には人間の理想を実現にまで導くある種の非人格的な傾向が存在するという漠然とした期待を胸に抱いています。しかし、これらは単なる願望でしかなく、現実ではありません。このような無思慮な「神」に対する曖昧模糊とした信仰だけによって、人間ははたして[人生の]プレッシャーに耐えることができるのでしょうか。
摂理の存在しない宇宙とは、神も意味もない宇宙なのです。愛と憎しみ、善と悪、生命と死、これらはどちらも等しく無意味です。人間が自らを神とする時、彼は宇宙から意味を奪い去っただけではなく、自分自身をも奪い去ったのです。人間と動物の間の境界を消し去り、生物と無生物の間の区別も曖昧にしてしまったのです。
「主であるわたしが聖いように、あなたがたも聖くなりなさい。」(レビ19・2)と宣言される時、神は御自身が聖別されたお方であることを示すと同時に、私たちも、神の法と召命と契約によって聖別されるように求めておられるのです。神の創造と再創造の原理は「聖め」、すなわち、「万物を神の創造の目的と召命に従って聖別すること」にあるのです。
人間は、神の「聖め」の意味を理解し、聖なる領域を被造世界全体に広げていく任務を帯びています。「聖」と「非聖
profane」との間、すなわち、「神の御国の領域(すなわち神殿)の中に置かれたもの」と、「その外にあるもの」との間には、明確な一線を引かなければなりません。
堕落の結果、[現在、]世界と民は「非聖」の状態にあります。それらは、まず、神の恵みによって聖化されなければなりません(私たちは、このことを訴える責任があります)。次に、万物及び人間は神の律法の基準に沿って進歩を遂げ、自らの潜在能力を開花させねばなりません。そして、御国の諸々の目的を実現するために挺身しなければならないのです。聖めには支配が必要です。[神の]支配下にないものは、聖ではありません。そして聖でないものは、神を冒涜する(
profane)ものなのです。
観音教の現代版では、「究極の冒涜」は「至福」「究極の救済」と見なされています。無の原理(
nothingness)は、万物を均質化し、それらをことごとく神から切り離そうとするのです。観音教は、「聖別」と「進歩」の概念に敵対します。たとえそれが「進歩」を唱道したとしても、その「進歩」とは、「万物を最低レベルにまで落として、そこにおいて平等を図る」ということにほかなりません。それゆえ、現代の観音教の信者たちは、キリスト教・進歩・技術革新・自由、その他人間や諸国家の間に格差を生み出すあらゆるものに敵意を燃やすのです。「格差はすべて撤廃されなければならない」からです。
このような平等化の宣伝を耳にする時に、私たちは「中世において、平等や民主主義を代表するシンボルは『死』であり、それはきわめて妥当な表現であった」ということを思い起こさなければならないのです。
(
R.J. Rushdoony, Providence, in 'Chalcedon Report' No. 131, July, 1976)
This article was translated by the permission of
Chalcedon.
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