キリスト教再建運動のルーツ
国家との闘争
R・J・ラッシュドゥーニー
近年、教会は、ヒューマニズムと敬虔主義から強い影響を受け続けてきました。
その結果、教会は歴史の中で自らが果たしてきた基本的な役割を捨てて、神から与えられた使命から迷い出てしまったのです。もし、教会が神の命令に忠実に従い、自分の使命に再び忠実に生きようとするならば、どうしても、ヒューマニズムが構築した今日の国家と戦わざるをえなくなるでしょう。したがって、まず、私たちは、キリスト教会に一体どのような使命が与えられているのかをまず知ることから出発しなければなりません。このことこそ、今日私たちにとって、最優先の課題なのです。
教会の本質とは、何でしょうか。教会の本質を知るためには、まず、聖書において教会がどのような名前で呼ばれているかを調べる必要があります。新約聖書のギリシャ語では、教会は「エクレシア(すなわち、集会もしくは会衆)」と呼ばれています。旧約聖書においてはカハールとエダーという言葉が充てられています。ヤコブ2・2において、教会はシナゴーゲーまたはシナゴーグと呼ばれています。旧約時代、シナゴーグは長老によって運営されていました。長老の務めは、キリスト教のシナゴーグに継承されました。シナゴーグの長老になるには一定の資格が要求されていましたが、これと同じ資格がキリスト教のシナゴーグの長老にも適用されたのです(第1テモテ3・1−13)。
旧約聖書において用いられた型は、教会に忠実に継承されました。英語のpriest(祭司)という言葉はpresbyter(長老)の短縮形です。数百年にわたって、枢機卿議会は、一般人から選出された70人(民数11・16)によって構成されていました。これは、サンヘドリンと類似していました。教皇は大祭司の位置にありましたが、71人目の参加者として議会に同席しました。イエスも、会を治めたり、奉仕を行う集団(すなわちある種の執事会(マタイ10・1、17))を組織されました。これは、70人から構成され、教会の「サンヘドリン」となりました。この集団は自らを、「神のイスラエル」(ガラテヤ6・16)と称しました。
旧約聖書において、聖職者は、祭司とレビ人の二つの階級に分かれていました。祭司の働きは、祭儀に関するものであり、犠牲と献物を捧げることがその主要な務めでした。旧約聖書において実施されていたこの奉仕も、新約聖書になるとキリストの来臨とともに終了してしまいました。聖職者を司祭(priest)と呼ぶかの宗教団体でさえ、旧約聖書の祭司職は終わっていると見なしています。レビ人の主要な務めは、教育でした(申命33・10)。
概して、教育は、シナゴーグの生活において中心的な位置を占めていました。有名なヘブライの諺に、「自分の息子にトーラー(すなわち旧約聖書)と商売を教えないものは、その子に泥棒になれと命じているようなものである。」というものがあります。イスラエルは、シナゴーグにおいて今日の普通教育と同程度の教育を行っていたのです。この意味で、イスラエルは、古代世界において極めてユニークな存在でした。
ヨセフォスは、ヘブライ人の学校は、その起源をモーセに求めることができる、と言っています(Josephus:Antiquities of the Jews,4.8.12.)。『アピオンへの反駁』
において、ヨセフォスはモーセについて、このように述べています。「モーセは、次のことを命じた。すなわち、まだ知恵が付くか付かない内から子どもたちを教えなければならないこと。
そして、彼らが律法にしたがって歩むように諭すこと。彼らの父祖のわざを知ること。後者では、彼らは父たちの歩みを真似るように教えられ、前者では、彼らは律法と共に成長し、律法を犯すことのないよう、また、無知を理由に言い訳することのないようしつけられた。」
学校の起源がモーセの教えにあると考えている学者は数えるほどしかいません。しかし、大人にとっても、子供にとっても教育がいかに重要であるか、申命記においてはっきりと語られているのです。教えは人に絶大な影響を与えるものです。ヒレルは、次のように述べています。「無知な者(すなわち、トーラーを知らない者)は真に敬虔では有り得ない…。律法の教えが多ければ多いほど、生命もまた溢れる。学校が多ければ多いほど、知恵もまた増える。
助言が多ければ、合理的な行動も多くなる。」(『父たちの教え』二・5、二・7)バークレイは、この教えは、「世界に深い影響を与えてきた。というのは、つまるところ、その目標は、子供を神のしもべとして整えることにあるからである。」と言いました(William Barclay:Train Up a Child,Educational Ideas in the Ancient World, 48.[1959])。
初代教会、中世の教会、宗教改革の教会、そして現代のファンダメンタリストおよび正統派の教会は、このような教育の基準を守り続けようと努力してきました。E.シュバイツァーが『新約聖書における教会制度』(7b,92)において指摘しているように、教会は「甦られた主が絶えず働いておられる支配の領域」(コリン・ブラウン編著、The New International Dictionary of New Testament Theology,vol.1,p.300.[1967,1975]からの引用)なのです。
ローマは、あらゆる宗教を支配しようとし、「宗教は、規制・管理されるべきであり、課税の対象となるべきである」と考えてました。初代教会は、このようなロ−マの支配を拒み、それと対決しました。
この抵抗の土台は、キリストの主権性または至高性にありました。キリストの支配がカエサルの支配よりも低い位置に置かれることなどあり得ないことでした。カエサルが創造者であり主であるキリストの下にいるのであって、キリストがカエサルの下にいるのではありません。教会はいくつかの非公認の活動に携わっていました。
1.教会は、学びや礼拝のための集まりを無許可で開いていました。
2.教会は、(中絶を防ぐために)親に捨てられた子供を拾って教会員の家庭に養子として預け、彼らに教育を授けました。孤児を育てることもしていました。
3.教会は、教育というレビ人の務めを重んじ、図書館や学校を非常に早くから設立しました。後に、教会の学校が発達し、大学も作られました。
学校は、かつて教会の付属機関でした。それは、教会の使命の一部と考えられており、外部から干渉されることはありませんでした。今日の学問の自由は、この時代の名残です。学校教育は、教会の生命の基本であると考えられていました。この問題がいかに真剣に受け取られていたかは、教会堂が建設された(これは最初の二百年間は不可能でした)ときに、図書館(と学校)も併設されたことを見ても分かります。
ジョセフ・ビンガムは、『古代キリスト教会の生活』(一八五〇年)の中でこのように述べています。「クリスチャンによって教会堂が建設されるようになった当初から、多くの教会の隣にそのような施設も併せて作られてきた。」(Bk.VIII,ch.VII,sect.12.) ビンガムは、当時の学校や図書館について記録している古代の文献を二三挙げています(Euseb.lib.6,c.20; Hieron. [Jerome] Catalog Sireptor. Eccles.c.TS; Gesta Purgat, ad calcem Optati,p.267; Augustine, de. Haeres.c.80; Basil, Ep.82.t.3., p.152; Hospinian, de Templis, lib.3,c.7., p.101, etc.)。
また、彼は、紀元六八〇−六八一年のコンスタンチノープル第六回エキュメニカル会議で決定されたある法令について言及しています。その法令では、国内の町や村の長老たちが、すべての子どもたちのために学校を維持経営しなければならない、と定められています。ビンガムは、すべての証拠を列挙したのちに、次のように述べています。「かつて、学校は教会堂と地域教会の隣に作られていた。
これは、きわめて一般的に行われていた慣習であった。」(Bk VIII,ch.VII,sect.12.) ビンガムの認識に誤りがあったとしても、それは、次の点に気づいていなかったことだけでしょう。すなわち、「学校は、教会から分離されて設置されることもあったし、その敷地の中に作られることもあったが、いずれにせよ、単なる教会の『付属物』ではなく、中心的要素であった」。ビンガムは、高教会的見解を持っていました。そのため、彼は、教会の教育的側面よりもむしろ儀式的側面を強調しました。
学校が非常に早くから存在していたという意見に対して、多くの批評学者は異を唱えることでしょう。彼らが想定している学校にはルーツがありません。シナゴーグやレビ人がその起源である、というわけではありません。したがって、それらを回顧する必要もないのです。
さらに忘れてはならないのは、キリスト教が書物(すなわち聖書)の宗教であるという事実です。そのため、人が回心すると当然、読み書きの能力が必要とされました。
しかしこれがすべてではありませんでした。「書物」の宗教であるということは、翻訳が様々な言語に対して行われたということを意味します。さらに、翻訳物を読むことができるためには、教育が強調されました。アルメニアにおいて、アルファベットは聖書翻訳のために作られました。そして、その聖書翻訳のために作られたアルファベットを学んだ人々によって、新しい文化が発達したのです。たしかに、侵略や戦争によって学校や学問の発達が遅れたり、(北ヨーロッパのように)回心した人々の多くがまだ野蛮な状態にあったために文化が停滞したということが仮にあったとしても、次の二点は明らかな事実なのです。
(1)「キリスト教にとって、教育や指導はその生命の中核であり、教会が実践しなければならない主要な使命である」と考えられていたこと。
(2)西洋世界において実践された教育は、歴史上、他に類例を見ない独特な制度であり、教会によって発展させられたものであったということ。
さらに、初代教会において、礼拝はレビ的であり、教育的であったということを覚えなければなりません。教えの(すなわち説教の)結びに、聞き手の誤解を解いたり、理解しにくい点をはっきりさせるために質問の時間が設けられていました。参加したすべての人が信者であるとは限らなかったし、来会者や未信者の夫や妻が来ることもあったので、質問が議論に発展することもたびたびでした。婦人は、この議論に加わったり牧師や教師に質問することができませんでした。パウロは次のように語っています。
教会では、妻たちは黙っていなさい。彼らは語ることを許されていません。律法も言うように、服従しなさい。もし何かを学びたければ、家で自分の夫に尋ねなさい。教会で語ることは、妻にとってはふさわしくないことです。(Iコリント一四・三四−三五)
ここで重要なのは、新約聖書に示されている教会は本来、神殿であるよりもむしろ学校であった、ということです。宗教改革運動や後のピューリタンたちは、この教会の集会の持つ教育的な性質を再び強調するようになりました。今日、人々は教会の集会の教育的性質を理解し、その重要性を力説するようになっています。アメリカの教会の朝の礼拝において、質問と答えの時間が設けられるようになっています。夕礼拝においてはさらにこの傾向は顕著です。
さらに、学校は、教会の中核的要素と考えられ、付属施設または別組織として建設が進められています。これらのうちの多くは、小学校や高校やバイブルカレッジですが、一九七八年には、神学校等が複数建設されました。人々は、これらの学校が、これまでにはない全く新しい試みの一つであるとか、教会とは無関係な活動であるとは見なしていません。彼らは、学校こそ教会の中核をなすものであると考えているのです。
旧約聖書に根ざしたキリスト教信仰の研究が進むにつれて、必ずイエス・キリストの主権と至高性が強調されるようになります。さらに、これと平行して、牧会のレビ的性質に再びスポットライトが当てられるようになります。教育は、牧会の本質と見なされるようになり、次のエレミヤの警告が真剣に受けとめられるようになります。「主はこう仰せられる。異邦人の道を学んではならない。」(十・二)
また別の要素も強調されています。教会の聖餐式と同じように、洗礼式においても、受洗者は、「私はイエス・キリストの所有であり、[戒めを破った場合には、]呪いを受けてもかまいません。」と、ある場合には口に出して、また、ある場合には暗黙のうちに誓うことになります。受洗者とその子供たちは、主のみ言葉にしたがって指導を受けなければなりません。受洗した人に対して、子供を教会の学校に入れるように求めることは、かつて一般に行われていました。このような要求は、今日復活しつつあります。
なぜならば、子供は、自分自身、もしくは、その親の洗礼によって、キリストの所有となったのであり、そのようなキリストの財産をヒューマニズムの学校の手に委ねることは許されないことであるという信仰が息を吹き返しつつあるからです。クリスチャンスクール運動はこの結果です。
ドイツの歴史家エテルベルト・シュトーファーは、『キリストとカエサル』(一九五二年、ドイツ:一九五五年、アメリカ)という重要な論文の中で、古代の教会と国家の間に交わされた闘いの根幹は宗教的であった、と明言しています。
「国家はこの地上を歩く神である」という主張がなされる国において、国家は主権を主張し、生活や思考のすべての領域を支配しようとします。この場合、自由な社会は実現できません。クリスチャンは、「世界を支配すべき主権者は教会である」と主張しているわけではありません。なぜならば、これは事実に反するからです。主権や至高性はあくまでも神の属性であって、人間に属するものではありません。「甦られた主が働き続ける支配の領域」(E.Schweizer)である教会は国家や他の組織の支配から自由である、とクリスチャンは主張しているのです。
さらに、これは国家が主権者であるとの教義を否定します。当時の神学的背景の故に、主権という言葉自体合衆国憲法の中には見あたりません。歴史家、A.F.ポラードは、次のように述べています。
[アメリカ]植民地の人々は、一六八八年にジェームス二世をその権威の座から引き下ろすことを望んでいた。その熱意は、一七七六年に議会から自由になることを切望するのと同じぐらい強烈なものであった。彼らは、あらゆる国家のすべての主権に対して敵意を燃やしていた(それが自らの国家の主権であっても同様であった)。アメリカ人は、国家の主権の教義に対して本能的に反抗した英語圏民の一員と定義できるかもしれない。ピルグリムファーザーズの時代から今日に至るまで、彼らはこのような態度を固守しようと奮闘してきた。もちろん、その試みがすべて成功したわけではなかったのだが…。
なぜ人々は、アメリカ革命に対してかくも深く、永続的な関心を寄せ続けているのであろうか。それは、この革命があらゆる主権を拒否したためにほかならない。ピルグリムファーザーズが大西洋を渡ってやってきたのは、この権力から逃れるためだった。ワシントンは権力を「怪物」と呼んだ。オックスフォードのアメリカ史の教授はそれを「化け物」と呼んだ。…そして、ランシング氏は平和会議に関して次のように語った。「あらゆる国際間の問題の90パーセントは、主権といわゆる主権国家間の問題に起因している。」(A.F.ポラード:Factors in American History,p.31f.[1925])
英国の学者ポラードは、当時の憲法論の大家であるため、この発言には並々ならぬ関心が寄せられているのです。もちろん、ポラードの時代から今日に至るまで、合衆国の連邦政府と国家は一貫して自らの主権を主張し続けてきました。そして、その主張はますます強くなっているのです。同時に、彼らの法律観はますますヒューマニズムの色彩を強めています。彼らは、ヒューマニズムを「公けの」宗教、すなわち公立学校の宗教として確立しました。
現在の闘争の新しい側面は、「教会やクリスチャンスクールが米国史上類を見ない自由を要求している」ということにあるのではなく、「アメリカの各州政府が、今まで行使されたことも、また、存在したこともない支配権を要求している」ということにあるのです。新しさは国家の側にあるのです。それは国家が主権を要求したために生じた問題なのです。
この要求によって、国家は教会と衝突するようになりました。さらに、唯一の主権者である神とも衝突するようになったのです。一八三九年四月三十日の「憲法記念祭」において、ジョン・クインシー・アダムズは、国家主権に基づく教書に反対の意を唱えました。一七七六年に、植民者たちは議会の全能と主権を拒否し、神の全能と主権を提唱しました。アダムズは次のように述べました。
ここに、独立宣言がある。そして合衆国憲法がある。彼らの口をして語らしめよ。独裁的国家主権。そして、己のもろもろの義務を独占的に裁き、それらの義務不履行に際して地上・天上のいかなる権力に対しても責任を負おうとしない無責任な裁判官。このようなまったく不道徳で不正直な教義はそこには記されていない。独立宣言は、「それは私の内にはありません。」と言う。憲法は、「それは私の内にはありません。」と言う。(S.H.Peabody,editor;American Patriotism,Speeches,Letters,and other Papers,etc.,p.321.1880)
これは、宗教的な戦いであり、多数の殉教者を生んだあの激烈なロ−マ=教会間の戦いと同値なのです。それはキリストとカエサルの戦いであり、クリスチャンにとって、いかなる妥協も許されない真剣な戦いです。今危機に瀕しているのは、クリスチャンの財産や関心や収入などではありません。キリストの御支配、すなわち、「甦られた主が絶えず働いておられる支配の領域」こそその存在を脅かされているのです。(一九七九年一月)
R.J.Rushdoony: The Roots of Reconstruction(Vallecito: Ross House Book, 1991), pp.1-5 の翻訳。
This article was translated by the permission of CHALCEDON.
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