<ご質問>
いつも早急なご解答感謝致します。様々な疑問が明らかになり、非常に嬉しく思います。また、このように導いて下さいました神に真に感謝する次第でございます。
アメリカはご存知の通りのキリスト教国家でありますが、そのような中で生活していく中で、根本的な疑問を感じるようになりました。お話申し上げてもよろしいでしょうか。。。?
イエス様はヨハネ16:12で「言うべき事はまだ多くあるが、あなた方は今それに堪えられない」と言われ、また25節では「もはや比喩では話さないで、あからさまに。。。話して聞かせる時が来るだろう」と言われていますね。イエス様は、言いたい事をすべて伝えきれずに死なれたという事ですね。
あの時、マタイ21:28-32や22:1-14でも語られたように、イエス様がまず最初に福音を伝えたかったのは漁夫や収税人ではなく、モーゼ以来の戒律を守り神に身を捧げ続けてきた信仰者達であったのに、彼らは皆イエス様の言葉を理解できず、メシアを受け入れられませんでした。これまで学び信じてきたモーゼの言葉と、イエス様が口にされる内容があまりにも違いすぎたから。今、弟子達によって世界に福音は述べ伝えられましたが、2000年前よりまた新しく、あからさまな内容を持って天の父について語るため再臨の主が戻って来られた時、人々は果たして彼の言葉を理解し、メシアと認識する事ができるのでしょうか?
イスラエルの人々はイエス様を十字架において殺害した後、マタイ21:43のように国を奪われ放浪の民族となりました。なぜヤコブの時からメシアを受け入れる為神が守り導いてきた選民がそのような結末を迎えなければならなかったのか。彼らはローマ帝国や周囲の強国から自分達を救ってくれる指導者が欲しかった。神は世界の人々を救おうとされたのに、彼らは自分達だけのメシアと勘違いをしたのではないのですか?
今日、第2のメシアを迎え世界を救うべき使命を受け継いだのはキリスト教徒ですが、世界的なキリスト教文化の動きを見ておりますと、その多くもまた、キリスト教徒のみのメシアと思い違いをしてはいないだろうかと、心配でなりません。富井様はどのようにお考えでしょうか?
<お答え>
ご質問ありがとうございました。
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「 イエス様はヨハネ16:12で「言うべき事はまだ多くあるが、あなた方は今それに堪えられない」と言われ、また25節では「もはや比喩では話さないで、あからさまに。。。話して聞かせる時が来るだろう」と言われていますね。イエス様は、言いたい事をすべて伝えきれずに死なれたという事ですね。」
「比喩では話さないであからさまに話す時」はすでに過ぎ去りました。それゆえ、イエスは、すでに父についてはっきりと告げられ、言いたいことをすべて伝えられたのです。
「これらのことを、わたしはあなたがたにたとえで話しました。もはやたとえでは話さないで、父についてはっきりと告げる時が来ます。<その日には、>あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。」(ヨハネ16・25-26)
この個所において「はっきりと告げる時」は「その日」と同時期です。そして、「その日」とは、「あなたがたはわたしの名によって求め」、「わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言」わない時です。つまり、弟子たちが、「主の御名によって祈り求め」、これまでのように「人の子として下り地上で生活したイエスが弟子たちの代わりにとりなして祈る」のではなく、「直接に、御名によって父なる神に祈る」時です。
イエス・キリストが復活され、昇天されてから、当然のことながら、もはやイエス・キリストは弟子たちに代わって神に祈ることはありませんでした。弟子たちは、「御名を呼ぶ者」(使徒9・14, 21)と呼ばれ、直接に父なる神に祈っていたのです。このことは、今日、弟子たちの末裔である私たちにおいても同じことです。私たちも、御名によって父なる神に祈っています。
それゆえ、イエスはすでにあからさまに奥義を語られたと考えなければなりません。昇天され、地上に不在となった以上、イエスを代表者としてイエスの口から父なる神に祈る時が終わり、「御名によって」直接父なる神に祈る時が到来した以上、その時すでにイエスは父なる神について「あからさまに」「たとえではなく」「はっきりと」告げられたのです。
では、それはどのようにしてでしょうか。
聖霊によってです。
ペンテコステの日に弟子たちに聖霊が下り、彼らは、地上におられた時にイエスが語られた御言葉をはっきり理解できるようになりました。イエスは、聖霊を通して、福音の奥義を弟子たちにはっきりと告げられたのです。
「彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。」(使徒4・31)
「パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。」(使徒19・6)
第1ペテロでは、弟子たちは、聖霊によって「御使いたちもはっきりと見たいと願っていること」「預言者が調べたキリストの奥義」を語る人々であると言われています。
「この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです。」(1・11-12)
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「あの時、マタイ21:28-32や22:1-14でも語られたように、イエス様がまず最初に福音を伝えたかったのは漁夫や収税人ではなく、モーゼ以来の戒律を守り神に身を捧げ続けてきた信仰者達であったのに、彼らは皆イエス様の言葉を理解できず、メシアを受け入れられませんでした。これまで学び信じてきたモーゼの言葉と、イエス様が口にされる内容があまりにも違いすぎたから。今、弟子達によって世界に福音は述べ伝えられましたが、2000年前よりまた新しく、あからさまな内容を持って天の父について語るため再臨の主が戻って来られた時、人々は果たして彼の言葉を理解し、メシアと認識する事ができるのでしょうか?」
まず、小さなことですが、イエスがまず最初に福音を伝えたかったのは、「契約の民」でした。そして、その中には、漁夫や収税人も含まれます。モーセの契約は、「将来、御民を贖うメシアが到来する」ことを前提として成立していました。動物犠牲や様々な贖いの諸律法はすべてメシアの贖いを象徴するものでした。それゆえ、イエスの第一の目的は、契約の中にいた人々に贖いの約束が成就しつつあるということを伝えることにありました。
漁夫や収税人も割礼を受けている契約の民でした。パリサイ人やサドカイ人など聖職者と呼ばれる人々は、その契約の民を指導する立場にある人でした。
これらの聖職者たちがイエスの言葉を受け入れなかったのは、モーセの言葉と違うからではなく、彼らが実質的にモーセの戒律の本質(あわれみと誠実)を尊重せず、ただ表面的な儀式を守ることによって神の御心を損ない、人々を間違った方向に指導していたからでした。
「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。目の見えぬ手引きども。あなたがたは、ぶよは、こして除くが、らくだはのみこんでいます。忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。」(マタイ23・23-25)
彼らは、律法を救いに至るための手段と考え、善行を積むことによって救われると考えていました。しかし、モーセの律法は、(動物犠牲制度を見ても分かるように)「贖いによって救われる」ということを教えており、イエスは、このことを主張したため、支配者として君臨していた当時の聖職者たちに憎まれたのです。
イエスは、モーセ律法を守ることを命令し、一点一画たりともそれが地に落ちることはないと明言されました。
「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」(マタイ5・17-18)
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「今、弟子達によって世界に福音は述べ伝えられましたが、2000年前よりまた新しく、あからさまな内容を持って天の父について語るため再臨の主が戻って来られた時、人々は果たして彼の言葉を理解し、メシアと認識する事ができるのでしょうか?」
再臨の主が戻ってこられる時は、万物の秩序が回復し、すべての国民がキリストの弟子となり、世界が祝福が満ち溢れている時ですから、だれもがイエスをメシアと認識することができます。
「それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時(原語では、『万物が元通りの状態に回復する時』)まで、天にとどまっていなければなりません。」(使徒3・20-21)
キリストは、万物が元通りの状態、つまり、創造のはじめの、神中心に完全に世界が回っている状態になるまで、「天にとどまっていなければな」らないのです。
「しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、 それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。」(ヘブル10・12-13)
キリストは、「その敵(つまり、サタン)がご自分の足台となる」まで再臨されません。
「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々(原語では『国民』または『民族』)を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」 (マタイ28・19-20)
全世界の「あらゆる」民族がキリストの弟子となるまで、「バプテスマ」と「教え」が続くことは、ここから明らかです。宣教は、世界がキリスト教化されるまで続き、キリストの再臨はそれまで起こりません。
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「イスラエルの人々はイエス様を十字架において殺害した後、マタイ21:43のように国を奪われ放浪の民族となりました。なぜヤコブの時からメシアを受け入れる為神が守り導いてきた選民がそのような結末を迎えなければならなかったのか。彼らはローマ帝国や周囲の強国から自分達を救ってくれる指導者が欲しかった。神は世界の人々を救おうとされたのに、彼らは自分達だけのメシアと勘違いをしたのではないのですか?
今日、第2のメシアを迎え世界を救うべき使命を受け継いだのはキリスト教徒ですが、世界的なキリスト教文化の動きを見ておりますと、その多くもまた、キリスト教徒のみのメシアと思い違いをしてはいないだろうかと、心配でなりません。富井様はどのようにお考えでしょうか?」
イスラエルの人々は、自分たちは選民だと考えていました。しかし、現実は、異邦人であるローマ帝国の「属州民」の一つになっていました。契約の民が、他国の人々に蹂躙されているのは、「契約違反」が原因でした。
「私が、きょう、あなたに命じるあなたの神、主の命令にあなたが聞き従い、守り行なうなら、主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせない。ただ上におらせ、下へは下されない。」(申命記28・13)
しかし、彼らは、この悲惨な現実の本当の原因を理解せず、武力によって革命を起こすことによって解放されると考え、それを実現してくれる政治的メシアを待望していました。
つまり、問題解決の方法は「倫理」ではなく、「パワー」であると考えていたのです。
イエスが政治的メシアでないことがわかると、人々は彼を捨てて、十字架につけて殺しました。彼らは、へりくだることよりも、傲慢を選び、間違った選民意識を捨てることができなかったのです。この傲慢に対して神は「離散」という刑罰を下されました。
仰るように、現在、アメリカは、「倫理」ではなく「パワー」によって覇権を拡大しようとしております。
これは、「服従を通しての支配」という聖書の主張と矛盾する動きです。
ですから、アメリカをキリスト教国と見ることはできません。
アメリカを実質的に支配している人々は、「パワー崇拝者」であり、クリスチャンではありません。