新約時代における十分の一とは?

 

<ご質問>
Uコリント9:7の解釈、運用について
よくここを引いて、「献金額は自由であり、おのおの決めたとおりに喜んですれば良い。
つまり、十分の一にこだわる必要は無い」ということを聞くことがあります。
しかし、ここは文脈からいうと8章から続いてる話しであって、パウロがエルサレムの教会の欠乏を補うためにコリントの兄弟姉妹たちに勧めていることであり、「十分の一」とは別のものだと解釈するべきだと思いますが、いかがでしょうか?

<お答え>
まさにそのとおりだと思います。
「私は律法を廃棄するために来たのではない。成就(または確立)するために来た。律法の一点一画たりとも天地が滅びない限り廃れることがない。律法を破るように教える者は、天においてもっとも小さな者と呼ばれる」という御言葉から判断すれば、旧約聖書に記されたことが、新約聖書においてそれ以下の義務に変わるということはないと考えられます。

それは、姦淫ということ一つとってもそうです。
旧約聖書において姦淫とは、「実際の行為」ですが、新約聖書においてイエスは、「情欲を持って女を見る者は心において姦淫を犯した」と述べており、さらに厳しい規定になっています。
旧約聖書において、十分の一を捧げるように命じられていたが、新約聖書においては、自由でよい、という意見がもし正しく、神もそれを是認しておられるとすれば、その命令の意味は、「自由に十分の一以上を捧げよ」ということになるでしょう。

イエスは、有り金全部にあたるレプタ銅貨二枚を捧げたやもめの行為を褒めておられます。最善を尽くす行為を奨励している新約聖書が、どうして、出し惜しみする行為を是認するでしょうか。

<ご質問>
収入のない者の十分の一献金について
私たちの教会には、ご主人がノンクリスチャンで自身収入の無い(働いていない)姉妹がいます。
この姉妹は自らの収穫がないわけですから、捧げられる分も無いことになります。
この場合、自分で自由に使える分(例えば小遣い等)があればその十分の一を捧げればよいということでよろしいでしょうか?

※ちなみに、「ノンクリスチャンである夫の収入の十分の一を捧げなさい」という教会があると聞きました。夫は神との契約関係に入っておらず、神を主権者とも認めていないわけですから、これはいくらなんでも無茶な話しだと思うのですが。

<お答え>
そのとおりだと思います。
ノンクリスチャンの夫の収入の十分の一を捧げるならば、もし夫がそれを肯定すれば別ですが、そうでなければ、自分の直上の権威をさしおいて革命を行い、秩序と平和を破壊することになります。
しかし、神が望んでおられるのは、自分の上に立てられた権威を(御言葉の範囲の中で)敬い、それに従うことを通して、神を崇めることです。

もし、この教会の主張が正しければ、自分が勤める会社の収入の十分の一を勝手に教会に献金してよい、ということになります。

 

 

02/05/03

 

 

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