公的信仰と私的信仰1
>> つまり、今日の日本の法律が「個人の信仰」ではなく「公的な
>>信仰」であると考えているのは、そのように考える人が多数派を
>>占めているからであって、それが「公的な信仰」「普遍的な真理」
>>であるという保証はどこにもないのですよ。
> 日本の法律が「普遍的な真理」ではない、というのは社会における
>主観的存在である国民の「議論」を通して制定されたものである以上
>そうですね。
そう。だから、「日本の法律→客観→強制力を持てる」
「宗教→主観→強制力を持てない」
という単純な図式を描くことはできない。
>「誰かの神の言葉」という信仰が「普遍的」真理である、という保証
>を持たないのと同様に。
これは繰り返して主張してきたとおり。
キリスト教の教義にしろ、日本の法律における価値観にしろ、「信仰」は主観の領域から一歩も外にでることはできない。
宗教的教義を科学によって証明することはできないから。
>そもそも、法律とは何か形而上学的な「真理」を明らかにするため
>ではなく社会を運営するために定めるものであって、社会や人間の意識
>の変化にあわせて変えて行くものでもある。
まあ、今日の民主主義政体においてはこのような手続き論は当然とされているが、その手続きが正当であるかはわからない。
「法律とは国民の『議論』によって形成され、民意の反映であるべきである。」というのは「信仰」であって、それを科学的に証明することはできない。
実際あなたのような「法律とは、社会や人間の意識の変化にあわせて変えて行くもの」という立場が主流になったのは20世紀に入ってからのことであって、それまでは法哲学の主流は「自然法」に法律をいかに合わせていくか、という立場だった。
ギリシャから近世まで、「宇宙には普遍の法がある。個々の国家の法はそれに合わせて形成されるべきである。」とする立場が主流だったが、進化論によって、自然法思想も崩れてしまい、「普遍的法など関係ない。法は、時代時代、地域地域の事情により、国家の構成員の純粋な主観によって変化させるべきだ。」という法実証主義が主流となった。
> もっとも、法律は「個人的」というよりは社会的な視点で「議論」され
>制定されている以上、あなたが言われてきた「自分の信じる神の言葉」
>のような「個人の信仰」とは性質が大きく異なりますが。
何度も言ったように、わたしが言った「自分の信じる神の言葉」が「個人の信仰」であって、あなたが主張する「みんなで議論して作った信仰」が「公の信仰」であるという定義そのものが、正しいかどうかは不明である。
先にも述べたように、必ずしも「法とは社会的な視点で議論されて制定されている以上、みんなで議論して作るものだ」という意見が、正しいとは限らないからである。
それは、今日の民主主義政体における日本人の思いこみであって、そのような手続きが万古不変の真理とは限らない。
むしろ、歴史的に見れば、「神が定めた永遠不変の法にしたがって法律を決定しよう。」とする立場のほうが一般的である。
実際、アメリカ合衆国の憲法は、「偉大なる建設者(the Great Architect)」を前提としている。