用いられる人

 

神に用いられる人は、内側をすっぽり取り去られて空洞になり、皮だけが残ったような人である。

神は試練を通して、我々の自我を砕いて、ある意味で「腑抜け」にする。

自分の野心、出世欲、名誉欲、金銭欲、権力欲、自分の意志、自分の考え・・・などを徹底して破壊されなければ、我々は、用いられることはないように思える。

心は空洞になり、自分の生存に対する執着は取り去られる。

そして、その空洞に神の霊が充満することこそが、神の御目的なのだと思う。

ある意味において、人間は、奴隷となるように作られている。

神の奴隷か、サタンの奴隷か。

パウロにとって大切だったのは、「自分に与えられた使命の実現」であった。

「もしそれが達成されれば、私の生命は少しも惜しいとは思わない」と述べたのは、このことを指しているのだろう。

その体の中身がくり抜かれておらず、内側に野心がいっぱいつまった人は、自分の気持ちを優先するため、神の計画を推進する上で、大きな障害となることが多い。

教会の中で派閥を作ったり、権力を行使しようとする人は、はっきり言って、邪魔者である。

個人の名誉やパワーは、神の国の発展とはいかなる関係もない。

従順になって神の御心だけがなるように、自我を殺していきたいものだ。

 

 

02/05/08

 

 

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