1963年という年

 

ゲイリー・ノースは、ケネディの暗殺があった1963年という年は、アメリカにとって特別な年だったと言っていたが、たしかに、アメリカにおける離婚率の上昇と未成年女性の出産率の上昇共通一次試験の成績の低下、凶悪犯罪発生件数の上昇など、この年の前後を比べれば明らかに何かアメリカ社会に大きな変化があったといわざるをえない。

 

ちなみに、ビートルズがデビューしたのが1962年で、それ以後、ビートルズの音楽や彼らが若者に与えたニューエイジ的な影響は非常に大きなものがあったと言えるだろう。

 

しかし、アメリカにとってもっとも大きな打撃は、この年、アメリカの公立学校において祈りが禁止されたことであろう。アメリカは、もはやピューリタンの国ではなくなった。

 

学校教育が、キリスト教から離れて世俗化していくにつれて、学校は荒れて、風紀の乱れは進み、ついに銃乱射事件のようなものが頻繁に起こるようになった。

 

キリスト教の影響が弱まれば、当然、社会にはおかしなことが多くなる。世田谷の一家惨殺事件も、非常に奇妙な事件である。未成年者の犯行であると言う識者も多い。

 

近年の、未成年者の犯した事件を見ると、基本的に人間としてやってよいことと悪いことの区別を教えられていないのではないか、と感じる。殺人を犯してみたかった、とか、人間の死ぬのが見たい、とか。

 

明らかに霊の働きがあることは事実であるが、悪い霊の働きを抑えるのが教育である。悪いものに子どもを近寄らせない、良いものを見たり聞いたりするように導く。教会に通わせ、聖書を学ばせる。こういった良い影響を受けることができるように環境を整えてあげるのが親の責任だと思うのだが、どうも、事件を起こした子どもたちは、親から放任されていた子が多いようだ。あの神戸の事件の少年は、自分の部屋に閉じこもり、残虐なゲームをやったり、ビデオを見ていたというではないか。

 

現代の日本人は、無神論教育を受けて、世界があたかも物質だけでできているかのような世界観しか教えられていない。だから、このような倫理的・霊的な世界に起因する問題に答えを与えることができない。

 

クリスチャンは、世の人々に光を照らすべきである。携挙に逃げ込んで、世の人々が苦しんでいるのを無視してはならない。

 

 

 

 




ツイート