預言の二重性
現在のプレ・ミレ(一部ア・ミレも)の議論の中心には、「大患難がもうすぐやって来る」という預言解釈がある。その根拠は、マタイ
24章の「終末預言」である。プレ・ミレの人々は、この預言は、「世界の」終末に成就するのだと言う。
しかし、この預言が「世界の」終末預言であるということを示す個所は一つもない。
むしろ、その反対を証言する決定的な個所がある。
それは、一連の前兆を挙げた後に、イエスはこのように言われた。
「まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。」(マタイ
24・34)この「時代」にあたる言葉γενεαは、英語の
generation(世代)の語源になった言葉であり、「30-33年のスパンを持つ時代、同世代」を指す。手元にギリシャ語辞典があるならば、調べていただきたい。(*)つまり、イエスはここにおいて、これらの大患難は、イエスの同時代に起こると預言されたのだ。
この預言は、紀元
70年のユダヤ戦争において成就した。神殿は破壊され、旧約の民ユダヤ人は滅亡した。歴史家ヨセフォスは、マタイ24章の前兆「戦争や戦争のうわさ、ききん、地震、にせ預言者、にせキリスト…」がすべてこの時代に成就したことを記している(ユダヤ戦記)。つまり、イエスが言われたのは、「世界の」ではなく、「イスラエルの」終末預言だったのだ。さて、もしこれが事実であるとすれば、プレ・ミレの中心的な柱は崩れ、その預言解釈の体系全体が音を発てて崩壊する。
そこで、彼らは、ある妙案を考え出した。それは、「預言の二重性」という教理(?)である。
この預言は紀元
70年に一度成就し、その後、世界の終末においてもう一度成就するのだ、というのだ。しかし、このような解釈は、イエスがルカ
21章5節から言われたマタイ24章の平行個所を見るときに徹底して否定されるのだ。「宮がすばらしい石や奉納物で飾ってあると話していた人々があった。するとイエスはこう言われた。『あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやって来ます。』彼らは、イエスに質問して言った。「先生。それでは、これらのことは、いつ起こるのでしょう。これらのことが起こるときは、どんな前兆があるのでしょう。」イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私がそれだ。』とか『時は近づいた。』とか言います。そんな人々のあとについて行ってはなりません。…」
ここで、イエスは、これらの前兆を語る前に、「あなたがたが見ている」これらの物について言う、と但し書きをつけておられる。
つまり、イエス御自身が「あなたがたが見ている」という限定句をつけて、「わたしが神殿という場合にどの神殿を指すか指定しよう」と言っておられる。
それにも関わらず、もし我々が「この神殿とは、弟子達が見ていた神殿だけではなく、終末にユダヤ人が再建するその神殿である」と考えるならば、それは明らかにイエスの御言葉に逆っており、「私的解釈」になってしまう。
もちろん、私的解釈は厳に禁じられている。
「また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。」(
2ペテロ1:19-20)聖書は、自分の勝手な主観によって読み込みをしてはならないというのは、聖書解釈のイロハである。
マタイ
24章の預言が終末にもう一度起こるなどということを言うのは、明らかに、以上のイエスの2つの時代限定の言葉を無視することになり、私的解釈である。そもそも、預言の二重性などということを言い出したら、聖書の至るところを、現代の預言と解釈してもよいことになり、限度がなくなる。
ヨナがニネベに対して「あと
40日したらニネベは滅びる」と言った預言は、終末において、もう一度起こると考えることができるということにならないだろうか。また、イエスが「私は祭司長、律法学者たちに殺され、三日目によみがえる」と言われた預言も、もう一度終末に成就すると解釈できることにならないだろうか。
「いやいや、イエスの十字架はあの時代だけの
1回限りの出来事であって、終末に再現されるなどと考えることはできません」と言うだろうか。それならば、マタイ
24章だけがもう一度起こり、他の個所は再現されない、と区別する根拠や基準はどこにあるのだろうか。プレ・ミレの方々は、もし、聖書を神の御言葉ととらえ、それに対して最大の恐れを抱いておられるなら、この重大な質問に答える義務があるだろう。
そうでなければ、今、テロ事件を契機に、プレ・ミレの方々が盛んに「大患難は近い」などと人々の不安を駆り立てているのは、偽預言者の業と判断されてしまうから注意が必要である。
(
*)ちなみに、これを「民族」と解釈する人がいる。つまり、「この民族は滅びることがありません」と訳する。しかし、この言葉が使用されている他の41の聖書個所のうちで「民族」という意味で使用されている個所は一つもないのだ。例えば、マタイ 16:4 「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」そして、イエスは彼らを後に残して立ち去られた。
マタイ 17:17 「イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」」
マタイ 23:36 「はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる。」
マルコ 8:12 「イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」」
ルカ 16:8 「ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた。この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である。」
使徒 2:40 「ペテロは、ほかになお多くの言葉であかしをなし、人々に「この曲った時代から救われよ」と言って勧めた」
使徒 14:16 「神は過ぎ去った時代には、すべての国々の人が、それぞれの道を行くままにしておかれたが、」
エペソ 3:5 「この奥義は、いまは、御霊によって彼の聖なる使徒たちと預言者たちとに啓示されているが、前の時代には、人の子らに対して、そのように知らされてはいなかった。」
ピリピ 2:15 「それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」
1テモテ 1:4 作り話やはてしのない系図などに気をとられることもないように、命じなさい。そのようなことは信仰による神の務を果すものではなく、むしろ論議を引き起させるだけのものだ。
ヘブル7:3 「彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です。」
この他に、マタイ
1:17、マタイ11:16、12:39、12:41、12:42、12:45、24:34、マルコ8:38、9:19、13:30、ルカ 1:48、1:50、7:31、9:41、11:29、11:30、11:31、11:32、11:50、11:51、17:25、21:32、使徒8:33、13:36、15:21、エペソ3:21、コロサイ 1:26、テトス3:9、へブル3:10、7:6 があるが「民族」という意味で使用されている個所は一つもない。七十人訳においても、γενεαが「民族」と訳されている個所はほとんどなく、あっても例外中の例外である。
日本語訳聖書では、新共同訳、口語訳、新改訳も「時代」と訳している。英語訳聖書でも、
NIV, NASB, NLT, KJV, NKJV, RSV, KJ21, NIV-IBS, YLT, DARBYも同じだ(NIV, NASB, NLT, NIV-IBSには「または民族」との但し書きあり)。フランス語Louis Segond、イタリア語CEI、ラテン語VULGATE、ロシア語RUS-IBSなども「時代」と訳してある。
02/02/03