公的信仰と私的信仰3
>他人にはまったく理解できない「神の言葉」
他人に理解できないと勝手に決め付けないでくださいよ。
なにも理解できない言葉を使っているわけじゃないんですから。
理解できないのではなく、理解したくない、ということでしかないのでしょう。
>> 数が多ければ「公的な信仰」で強制力を持つ権利があり、数が少な
>>ければ「私的な信仰」「勝手な信仰」だから強制力を持つ権利がない
>>というわけ?
>> ユダヤ人は劣等民族であり抹殺されるに値すると「みんな」様が議
>>会で決定すれば、ユダヤ人を皆殺しにしてもいいわけ?
>
> 多数決主義の陥りかねない問題として、「多数の暴力」と言う事はある
>でしょうね。そのような暴走を防ぐために人権と言う価値観を尊重し、
>様々なチェック機能や反論の機会と言うものがあるわけですが、社会に他
>人と共存していくという意識、互いの思想・宗教を尊重する「寛容」さが失
>われれば、暴走しかねない。
だから、こういった「人権」「寛容」という価値観すらも、「人間の議論によって何事も決定する機構」においては、否定される恐れがあるのですよ。
「超越的法」を完全否定する世界は、このようにまったく白紙から出発しようとするわけですから、「人権」も「寛容」もへったくりもない。
こんな社会怖くないですか?
> ところで、「宗教教祖の意見を押し付ける」社会では、教祖が「信じ
>て」いれば「強制力」があり、「教祖」や教祖の信じる「神」が誰かを
>殺せと言えば殺しても良いわけですか?
私はどの宗教の教祖の意見でもよろしいなんて言っておりません。
私は、聖書において啓示されている神の強制を正しいと信じます。
聖書において、神は、故意の殺人を犯した者を殺せと言います。
しかし、殺人をしたわけでもない善人を殺せとは言いません。
刑罰は罪の軽重によって変わります。
聖書のこのような同害刑法の基準は近代の法制度を支配しています。
ちなみに:
近代国家の法制度は、イギリスのピューリタン革命に起源を持ちますが、ピューリタンは、国王の専制を拒否して、国王すらも、神の法に基づいて定められた国法の下にいると宣言し、彼が自分勝手に刑罰を下すことを禁じました。ここに法治国家が成立したわけですが、それゆえ、近代の法体系の中にはピューリタンの原理が濃厚に反映することになりました。
ピューリタンの原理とは、カルヴァン主義のキリスト教であり、立憲政治はカルヴァンのジュネーブにおける改革に起源を持ちます。