公的信仰と私的信仰4
>> 超越的な基準は一切存在せず、超越的な基準を持ち出すものをすべ
>>て「勝手な信仰」「個人的な信仰」であると断定し、超越的な基準に
>>強制力を与えることを拒否するのが、「みんな」信仰の専横である。
>
> この「超越的基準」というものもひとつの「信仰」「主観」であるわけ
>ですね。その主観的な「超越的基準」が、「俺の信じる神の命令で人を殺し
>ても良い」といった類の他人や社会の事を考えない「勝手な」ものであった
>場合、その基準に「強制力」を与える事はあなたでも「拒否」するのではない
>ですか?
繰り返しますが、わたしは、どのような類の「超越的基準」でもいいとか、どのような類の「超越者の強制」でもいいと言っているのではありません。
それゆえ、この質問にはイエスともノーとも言えるのです。
麻原の強制は勝手であると考えますが、聖書の神が命じた強制は理に適っていると考えます。
>逆にその基準が「みんな」が納得できるような社会的な妥当性を持つもの
>であれば、社会的にも認められてやがては強制力を持つ法律にも反映されて
>いくかもしれない。「超越的基準」が社会の法律に反映されていくかどう
>かは、その基準がどのようなものなのか、社会的にどんな意味を持つものな
>のか、で違って来ますね。
もちろん、だから具体性が重要なのです。