聖書以外に判断基準は存在しない
今日の教会を支配している考えは、ローマカトリックと同じように、「聖書以外にも判断基準は存在する」という謬説である。
聖書を「生活のあらゆる領域、あらゆる考えについて」絶対の基準としないということの根源的な動機は、「自分を法制定者にする」という野心である。
神が支配されない領域を造りたい、という不従順が、今日の教会の律法嫌いを生んだのだ。
ローマ・カトリックは、神の創造の前にすでに「自然秩序」が存在したと考える。しかも、その神の創造以前のことに関して権威は教皇であると考える。当然のことながら、教皇は、この領域の事柄(つまり、自然秩序、自然法、自然権)について神の法を超越していると考えることが許される。
これと同じことを今日の根本主義者も行っている。政治や経済、芸術、スポーツ、教育…において、自分たちには聖書を越えた判断基準を持つことを許されていると主張するのだ。だから、彼らは、すべての領域の事柄について人間の判断の究極的権威は聖書であると主張する我々を追い出したくなるわけである。
私は、以前、「政治や経済などを聖書に基づいて考えるなどという危険な教えを信じ、それを伝えた」ということで、牧師を罷免されそうになった。幸い心有る長老が免職に反対してくださったおかげで、免職にはならなかったが、「もし教会員に働きかけるなら、その時点で免職とする」と釘を刺された。
このようなトンデモない決定を下す教会の指導者たちの本質的な動機は、「聖書の神に支配される領域を限定したい」ということ、つまり、「ある領域については私が王様になりたい」ということにある。
もし「政治生活は神が支配されない領域である」というならば、「性生活は神が支配されない領域である」と言ってもよいということにならないだろうか。万物が無から創造された以上、政治も性もすべてを神の支配の下に置かねばならない。神が権威ではない領域など、この宇宙には存在しない。少しの部分においても人間の自律を許すならば、その人は、もはやクリスチャンとは言えない。
02/09/04