群集に振りまわされるな
よく、「日本において再建主義者は何人いるのですか?」と聞かれる。
何人いるか、何でこの人は聞くのだろう?と思ってしまう。
恐らく、この人は、人数によってその運動を評価しようとしているのだろう、と判断してしまう。
私にとって、これは非常に不思議な現象である。
なぜ、人数に拘るのか?
神の働きには、人数など関係ないのだ。もし人数が関係あるならば、カルメル山で対決したエリヤは失敗者で、偽預言者たちは成功者である。
1対450だからだ。
やたらに教会が人数に拘りだしたのは、教会成長学が流行出した頃からである。
「あなたの教会は何人ですか?」と尋ね合うのが常であった。
「400人です。」と答えると、「ほ〜!すごいですねえ。」という反応が返ってくる。
宣教大会などで、司会者が、「これからお話する○○先生は、△△県において百人教会を作った成功者です。」などというのもよく耳にした。
たしかに、神は働きを祝福されると、人数を増やしてくださる。
しかし、増やされない場合もある。なぜならば、その時ではない場合があるからだ。神には時があるのだ。こちら側に問題があって教勢が伸びない場合がある。例えば、やり方がワンマンで、信徒の自主性をつぶしているとか。こういった場合は、リーダーシップについて勉強する必要があるだろう。
しかし、そればかりではないのだ。霊的な実りを得るのに難しい土地がある。神は、パウロに、「語り続けよ。ここにはわたしの民が沢山いるから。」と言われた。神は、時代と地方に、局部的に選びの民を置かれる場合があるのだ。また逆に、選びの民が少ない地方、時代もある。
だから、一様に人数で判断することはできない。
私は、それゆえに、人数とか、献金額、社会的地位などで人を見る人をあまり信用しないことにしている。見る目がないからだ。
そういった尺度で見る人は、教えそのものに着眼することができないのだ。
もし主体的にものを考え、評価する習慣があれば、まず相手が何を言っているかに注目するはずだ。その見解を、社会的な立場とか現在の勢力とは無関係に判断するはずだ。
主体性に欠ける人は、世間から評価され、人気が出たときに、にわかに評価し出す。そういった依存的な人々に頼っても無駄である。コロコロと意見を変えるから。ひとたび、こちらの形勢が不利になるとポイ捨てをやられるから。
こういった人々のことを、聖書では「群集」と呼んでいる。
エルサレム入城の際に、棕櫚の葉を振って歓迎した群衆は、その後すぐにイエスを十字架につけた。
イエスは、群集に御自身を委ねることはなさらなかった。
「イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じた。しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。」(ヨハネ2・23-25)
経営学は、群集に委ねる学問である。経営は、不特定多数の顧客を相手にするから。商品が売れるかどうか、群集の意見は絶対である。
しかし、福音は、群集の動向を気にしない。
福音と経営とを混同してはならないのだ。
だから教会成長学は危険なのだ。この学問は、経営学の手法を利用するからだ。よほど注意しないと、教会は、群集の意見に振りまわされて、言わなければならないことも言わず、しなければならないこともしなくなる。
群集の意見に振りまわされて破綻した例が多い。
02/03/29