i・MODE→  

 

 

公的信仰と私的信仰8

 

 

>》 それゆえ、民主主義は、民主主義における主=「民」を拒否する

>》宗教や思想を許容できない。異なる主権を主張する宗教や思想と

>》「自らの“定説”とが共存できる妥協点を見つけることは可能であ

>》る」なんてのは幻想である。

>

>tom様が「思想とは行動そのもので、行動のない思想は思想でない」

>とお考えでしたら、上記のコメントは的はずれではない部

>分もあるのですが・・・・。

>

>「民主主義が許容できない」ものは、「他の主義・思想を持つ人間に

>対して、危害を加える行動」ではないでしょうか?

 

 

 いやいや、まだご理解しておられませんね。

 

 もし民主主義が、他の主義・思想を持つ人間に対して危害を加える行動を許容しないのであれば、自らが存続できません。

 

 民主主義自体が、他の主義(麻原は絶対であり、彼の発言はいかなる法や秩序をも超越できるとする「麻原教」など)を持つ人間に対して危害を加えなければ存在できないのです。

 

 どの主義主張でも、それが社会の基盤宗教となった瞬間から、それを引きずり降ろそうとする主義や宗教や主張を述べる人間を弾圧せざるをえません。

 

 民主主義国家は、どの国でも、共産主義には警戒します。なぜならば、共産主義は、「暴力革命」を唱えているからです。

 

 民主主義は、「私は、国民の総意によって政治を行う現在の政体を認めない。」というような革命宗教を弾圧せざるをえません。

 

 もし、現在の日本の共産党のように、議会民主主義の手続きに則って、「話し合い」によって合法的に政権をとろうとするならば、共産党を弾圧する理由はないので、現在の日本においては代々木の共産党は弾圧されておりません(警戒はされていますが)。

 

 

>》 キリスト教ファンダメンタリストたちが、「Praise the Lord!と言わ

>》ない者を十字架につけろ。」と言ったのを聞いたことがありますか?

>》 「キリストに従わない人間は死刑だ、懲役だ、非国民だ。」とでも?

>たしか「同性愛者=>死刑」論には覚えがありますけど・・・・

 

 まず、旧約聖書のイスラエルの社会においてすら、異なる宗教はその場を持つことができ、彼らの神々に礼拝を捧げることが許されていました。

 

 また、イスラエルの周辺の社会は異教社会であり、同性愛が行われていましたが、神は「彼らを滅ぼせ。」とは言われなかった。

 

 同性愛に死刑が適用されたのは、「神との契約を結んだイスラエルの国民」だけです。

 

 つまり、あらかじめ契約を結んで、「同性愛は死刑だ。」という条項に同意した者に対しては同性愛により死刑宣告を下すことはできるが、そのような条項に同意せず、その社会に入らなかった「イスラエルの周辺諸国」にはそのような宣告は下らなかった。

 

 現在の日本の民主主義政体を、クリスチャンは尊重します。

 法律の枠を飛び越えて、何かの主義をごり押しすることはできません。

 日本の国民の大多数がキリスト教の教義を進んで受け入れ、法律の手続きをふんで「同性愛者処刑主義」を決定するのでない限り、誰も同性愛者を処刑せよとは言いません。

 

 たしかに、同性愛は、死刑にあたる罪です。同性愛者が天国に入ることはありません。彼は、神御自身による死後の裁きにおいて、永遠の刑罰に定められます。

 

 しかし、神の地上における権力代行者としての教会や国家が、それを法律として他人に強制するか否かという問題は別のことであり、現在の政体が民主的な手続きによって、キリスト教の教義を基本法として受け入れる決定をするのではない限り、同性愛者を処刑せよと述べたり、それを実行することはできないのです。

 

 もちろん、キリスト教教義として、「本来こうあるべきじゃないか。」と述べることは可能ですが、実際の政治の現場において、「処刑せよ。」と叫ぶことはできません。

 

>》これが、あなたが毛嫌いしている「宗教ファンダメンタリスト」

>》の手作られたということを知って、どのような反応をするか見て

>みたいものだ。意味不明ですが、「今の民主主義がキリスト教文化

>の中で育ってきた」という意味でしたら、それは十分理解し、評価

>しているつもりですよ。

>私は別に「宗教ファンダメンタリスト」を「毛嫌い」していません。

>「不思議」だとは思いますがね。

 

 どうして不思議だと思うのか、不思議ですねえ。

 

 もし「教典」という人間を超越した教えを前提としなければ、それがどのような名前がついていたとしても、すべて「人間教」なのです。

 

 キリスト教であれ、仏教であれ、イスラム教であれ、「教典」よりも個人の考えが優先されるのであれば、すべて「ワタシ教」なのです。

 

 これは、思想史の上では、「啓示宗教」vs「自然宗教」という形で語られます。

 

 

 もし、キリスト教徒が、聖書は間違いだらけなので、聖書を非神話化しなければならないと主張し、「非合理的だと判断される部分」をハサミで切り取るとします。すると、聖書は自分の思想によって形を変え、ある人の聖書は200ページで、ある人の聖書は500ページあるというように、それぞれの信仰は独自のものであり、共通の信仰は不可能になります。

 

 彼らは自分の主観を第一とし、書かれた教典、啓示を無視するのですから、当然、彼らの信じているものは、キリスト教ではなく、「自分がキリスト教だと考えている自作宗教」でしかなくなるのです。

 

 これこそ、ナンセンス極まりないものです。

 

 

 

 

 




ツイート