カルヴァンと幼児洗礼2
<TA>
旧い契約では、こころの変化がなくても肉の割礼によって契約の中に入ります。しか
し、新しい契約はこころの割礼が先なのです。こころの割礼の外側への、また公への
しるしがバプテスマです。ですから、大宣教命令では、「弟子とし、バプテスマを施
し」という順序があります。キリストにあっては肉の割礼は無意味なので、パウロは
1コリント7章18,19節で、「召されたとき割礼を受けていたのなら、その跡を
なくしてはいけません。また、召されたとき割礼を受けていなかったのなら、割礼を
受けてはいけません。割礼は取るに足らぬこと、無割礼も取るに足らぬことです。重
要なのは神の命令を守ることです。」と言いました。
<TO>
大宣教命令の個所は、原語において、「弟子とし」は動詞で、「バプテスマを施し」
は分詞です。分詞は、「理由、時、様態、付帯状況、手段、目的、条件、逆説」など
の意味を持ち、動詞を修飾する副詞節(または名詞を修飾する形容詞節)を形成する
わけですから(Dana and Mantey, "Manual Grammar of the Grk
Test.",Macmillan,1955, pp.226-229)、必ずしも順序を表現しません。
それゆえ、「手段」と考えて、この個所は、「バプテスマを施すことによって、弟子
とし」とか、「時」と考えて、「バプテスマを施す時に、弟子とし」とも訳せるわけ
です。
もちろん、「付帯状況」と考えて、「弟子とし、そして、バプテスマを施し」とも訳
せるわけですが…。
前にも述べましたが、旧い契約においても、こころの変化は契約の中にとどまる条件
として不可欠でした。
こころの変化がなく、契約に対して「実質面において」不忠実な人々が割礼によって
救いに入るという考え方は旧約聖書においてまったく存在しません。
「心の割礼を受けよ」とのメッセージは、旧約聖書の預言者に共通した訴えです。
<TA>
…幼児洗礼擁護者は親の信仰が子どもへのバプテスマに反映できると考えておられる
ようですが、それならばコロサイ書の 「人の手によらない割礼」と外側へのしるし
としてのバプテスマの位置付けが崩れます。
親の信仰による、親の意思からきた、「人の手による」バプテスマとなるのではない
かと考えます。そして、まさしくバプテスマを人の手による、肉の割礼と同等に置く
ことになるのではないでしょうか?(バプテスマによって幼児が救われるというなら
ば話しは変わってきますが。)
<TO>
幼児については、契約の主である家長の信仰の傘の下にあるというのが、旧約聖書、
新約聖書に共通する考え方です。
もし、親の信仰によって、幼児に救いが及ぶことはない、幼児洗礼を認めることが
「人の手によるバプテスマへの逆戻り」である、とするならば、どんなに両親が信仰
の教育をして、子供を大切に育てていても、子供が自覚的信仰告白をしないままに夭
折した場合に、彼は救われないということになってしまうのです。
神が旧約聖書において家族の長と結んだ契約の恵みを家族のメンバー全員に及ぼされ
たのであれば、新約聖書においては、なおさらその恵みが及ぶと考えることは、「契
約の一貫性」と「契約の完成者キリストによる契約の恵みの完成」という意味におい
て当然のことといわねばなりません。
キリストは、旧い契約の完成者として来られました。もし完成者として来られたの
であれば、完成されたものは、未完のものよりもすぐれているはずですし、未完のも
のよりも、より多くの恵みを与えるはずです。
イエスは、「旧約聖書の預言者が見たいと願ったものをあなたがたは見ている」と弟
子たちに語りかけました。
となれば、どうして、旧約聖書において「家族のメンバーであるがゆえに与えられた
幼児への恵み」が取り去られ、新約聖書になると、「幼児は成人しない限り恵みから
もれる」ということがあるでしょうか。
幼児洗礼を「人の手による」割礼とし、「自覚的信仰のない自分の子供には人間的救
いを与えてはならない」ということが正しいならば、契約の恵みは、旧約聖書のほう
が大きかったということになり、新約聖書になってからは、神は「恵みを縮小され
た」ということにどうしてもなるのです。
「いや、旧約聖書においては、外面的な救いで救われたが、新約聖書においては内面
重視に変わった。つまり、実質が重視される時代になったのだから、さらに高いス
テップになったのであって、恵みが縮小されたのではない」という意見もあるかもし
れません。
しかし、繰り返して言いますが、「旧約聖書においても、契約は実質が中心だった」
ということです。
神は、不変のお方ですから、その「本質重視、信仰重視の姿勢」において変化はない
のです。
「わたしは、いけにえを喜ばない。服従することをよろこぶ」と旧約聖書の預言者を
通じて言われた神は、いつの時代においても、「本当の礼拝者」を求めておられるの
です。
「旧約時代でも、本来割礼は単なる外形上のことではなかった。それは確かに、契約
関係への入会を表すしるしではあったが、同時に、信仰による従順、神に献身した人
のしるしであった。つまり、真の割礼は、単に外側のことではなく、心の内面のこと
でもあった(エレミヤ4・4)」(宇田進、『新聖書注解』新約第3巻、いのちのこと
ば社、p.58)
旧約聖書と新約聖書を「信仰の実質性」という面で対比することは絶対にできませ
ん。もし、このような対比が可能であるならば、「神は低い状態から高い状態に進化
した」ということに等しいのです。
このディスペンセーショナリズム的神進化論は、現代のクリスチャン(そしてノンク
リスチャン)が抱いている迷信です。曽野綾子が聖書講義において、「旧約聖書の神
は怒りの神で、新約聖書の神は愛の神」としたのは、これと同じ類の謬説です。
「いや、旧約聖書においては、動物犠牲により贖罪があった。つまり、形式によって
救われた。しかし、新約聖書においてはキリストが犠牲となり、信仰による救いが説
かれ、実質が重視されるようになったのだ」という意見もあるかもしれませんが、旧
約聖書における犠牲は、あくまでも「キリストを指し示していた『型』」なのです。
神は、実物教育のために動物犠牲を制定されたのであって、動物によって罪が赦され
るとはどこにおいても述べられていないのです。旧約の人々は、動物犠牲を行う際
に、常に来るべきメシアを望み見るべきであったのであって、動物が人間の罪をあが
なうことができると考えてはならなかったのです。ヨブは祭壇で動物をいけにえに捧
げていましたが、
「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれること
を。」(ヨブ19・25)
と述べ、動物犠牲がメシアの贖罪を象徴しているという信仰を暗に告白しています。
パウロが、「人の手によらない割礼」と言ったのは、当時、コロサイ教会に侵入して
いた異端の宗教が、「行いによる救い」を説いていたからです。パウロは、この誤解
を解くために、「割礼は取るに足りないこと」といったのです。
ディスペンセーショナリズムは、旧約聖書を行為義認的教えと考え、パウロは、その
旧約聖書の宗教と対決したのだと、言いますが、そうではありません。パウロが対決
したのは、旧約聖書を曲解して、それを「行為義認」と考えていた「パリサイ的律法
主義」だったのです。
パウロは、どこにおいても、旧約聖書の宗教を行為義認の宗教と述べていません。彼
があたかも律法を否定しているかのように解釈し、「律法を悪いもの」と考えていた
とする人が多いのですが、パウロはけっして律法を拒否していません。「律法は廃棄
されるべきものではない」「信仰は律法を確立する」「律法にもあるように…しなさ
い」と述べて、律法を尊重する姿勢を崩していません。
パウロが、コロサイ2章で対決していたのは、「むなしい、だましごとの哲学」であ
り、「人の言い伝えによるもの」「この世に属する幼稚な教え」です。これらの教え
を説く人々は、「食べ物と飲み物、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて」
クリスチャンを批評していました。「すがるな。味わうな。さわるな。」という禁欲
主義を説き、救いの条件として、割礼を信仰者に強制していました。
これに対して、「クリスチャンは、人の手によらない割礼を受けているので、実質的
に割礼を受けている。だから、外面的割礼によって救いが左右されることはない。」
と述べたのです。さらに、「もはや旧い契約の本体であるキリストが現れ、それを成
就されたので、外面的な割礼にもはや意味はない。」とすら述べているのです。
パウロは、「旧い契約は間違っているか、または、劣っている。新しい契約において
は、実質が尊重されている。だから、外面的な契約入会儀式である割礼は、実質を重
視する洗礼は異なるのだ。」とは述べていません。「旧い契約も新しい契約と同様に
信仰中心、実質中心であり、契約入会儀式である割礼も洗礼もともに内面が整ってい
なければ無意味である。」と述べているのです。
「それでは、幼児についてはどうか。幼児は自覚的信仰を持たないのであるから、外
面的な儀式にならないか。」という疑問が起こるでしょうが、それに対しては、くど
いようですが、「神は、旧約におけるように、新約においても、両親の信仰によっ
て、子供の契約の立場を決定される」のです。これは、けっして「人の手による割
礼」ではありません。旧約聖書において、神が割礼を授けた両親に対して「おまえた
ちは、無自覚な幼児に契約入会の儀式を授けている。実質を軽んじる不届き者だ。」
と言われなかったように、新しい契約においても、幼児に洗礼を授ける両親に向かっ
て、このようには言われないのです。
神の契約は、旧約においても新約においても、個人主義ではありません。神は、家族
全体を祝福されるのであり、家族のメンバーをばらばらに扱うことをなさりません。
パウロが、ローマ書やガラテヤ書、コロサイ書において、ことさらに「実質的」「人
の手によらない」「信仰中心」を主張しているのは、旧約聖書の宗教に対してではな
く、旧約聖書を土台として人間が作り上げた行為義認の異端宗教だったのです。
02/10/24