1%の人々を探せ

 

社会の中において、物事を深く洞察し、真剣に本質を探ろうとする人々は、1%しかいないだろう。そして、残りの99%の人々は、日々の目に見える生活について心配するだけで、歴史や世界を広く深く知ろうとはしないだろう。
現代の教会が犯した大きなミスは、この99%の人々に主要なターゲットを設定したところにあるように思われる。
商売やビジネスの対象は、これらの99%の人々にある。
いくら1%の人々に好かれても、商品の購買者のごく一部でしかないので、業績には結び付きにくい。業績を伸ばしたいならば、99%の人々の歓心を買うように努力しなければならない。
しかし、聖書的キリスト教はこのようなターゲットの絞り方をしない。
聖書的キリスト教の主要なターゲットは、あくまでも1%の人々である。
キリスト御自身が主要なターゲットにしたのは、数十名の弟子達である。その中でも、12人を特別に選んで専門的な訓練をされた。
イエスは、群集に身を委ねられなかった。
群集は移り気で、すぐにヒーローを作り出そうとする。ヒーローとは偶像であり、偶像には実体がない。ヒーローになりたがる人は、ヒーローを生み出した人々に最後に裏切られる。アイドルは、最後の最後になってファンによって裏切られる。それゆえ、芸能界の大部分は虚業である。会社は、アイドルを生み出して、虚像を作り、ファンから金を取る。真の神のところに来たがらない人々――つまり、ファン――は、擬似神を求めている。彼らにとって、アイドルそのものが大切なのではなく、「ファンであること」が大切なのだ。誰かに熱中している自分に満足するのだ。彼らは、自分の宗教心を満たすことを願っている。自分の崇拝欲を満足させてくれる人々を求めているのだ。
アイドル業界とは、このような人間の宗教心を利用して金儲けをするので、非常に悪魔的なのだ。アイドルになりたがる人々は、アイドルになることによって、非常に多くのものを失う。その一番の部分は自分自身である。アイドルは、常に演技しなければならない。アイドルは自分の素顔を見せてはならない。なぜならば、ファンの願いは、アイドルのそのままの姿を拝むことにあるのではなく、自分の好みや理想の姿を拝むことにあるから。芸能会社は、ファンの希望を調査し、その姿に近い人々を探して、彼らをきらびやかなもので飾り立てる。
真の神を崇拝する人々は、アイドルに熱中できない。真の神の崇拝者は、神の姿を変えようとしない。聖書に啓示された姿そのままの神を求める。だから、真のクリスチャンは、聖書以上の教えを受けつけない。
聖書啓示を超える神を求める人々、聖書の神をまるごと受け取ろうとしない人々、聖書からこじつけの解釈をする人々は、偶像礼拝者であり、真の礼拝者ではない。彼らは、「キリストのファン」でしかない。

イエスは、こういった人々を相手にされなかった。
我々も、ターゲットをこれらの人々に絞ってはならない。我々のターゲットはあくまでも聖書のとおりの神を礼拝する人々、つまり、残りの人々(レムナント)である。純粋な福音を伝え、世俗の流れに乗らず、世の人々に迎合せず、虚飾を排して、「聞く耳のある人々」を獲得するように努めることである。

99%の人々を相手にすると、世俗的な力を利用する誘惑に陥る。「アメリカの神学校を出なければ、人々に聞いてもらえない。」とか、「何とかこの教団からの御墨付きをもらわねば。」とか、「あの先生を怒らせたら福音派ではやっていけない。」とか、「日本の伝統的な文化をそのまま受け入れて、それと調和するキリスト教にしなければ日本にキリスト教は土着化しない」とか、「メッセージをソフトにして、罪という言葉を言わないようにしよう」とか、「心理学を利用し、裁きとか滅び、地獄などというマイナスのイメージを排除した伝道方法を作り出そう」という考えに侵されることになる。

それでは、ある人々はこう言うだろう。「それじゃあ、いつまで経っても日本の弟子化は進まないではないか。1%の人々を獲得しただけでは、弟子化とは言えないではないか。」と。

私は、こう答える。
「1%の人々を獲得し、その人々の回りに徐々に人々が集まり、日本の世論の核を形成することができ、それが常識化すれば、99%の人々がこちらにやってくるのは時間の問題だ。」と。

99%の人々は、「大勢に流される人々」である。彼らは、隣の人が何をしているかを見て自分の行動を決定する。彼らは権威者に弱く、強い者の意見に耳を傾ける。とくに日本人は、このような民族である。

このような民族を変えようとして、教会が、「それでは、クリスチャンも権威や力を身につければよい」と考えては、効果は逆になる。勝利は、人間的力に頼ることによっては得られない。

我々が頼るべきものは、「正しいメッセージを、聖霊の助けを受けて、まっすぐに語る時に働く神の力」だけである。メッセージにおいて妥協は禁物である。我々には神の預言者としての忠実さが要求されている。預言者がまっすぐにメッセージを語る時に、聖霊が働いてくださり、我々の道はまっすぐになるのだ。

イエスは、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。
我々は、福音においても、文化においても、世を導くべきなのだ。
伝道のためなのか何なのか、わざと不良の格好をして、汚い言葉を吐く伝道者がいるが、彼らは、妥協すべき部分と妥協してはならない部分とを混同しているのだ。
伝道には、福音のメッセージだけではなく、そこから生まれる神的文化や行動様式も含まれる。パウロは、「ノンクリスチャンの間で立派に振るまいなさい。」と述べた。

1%の人々は、様々な階層に広く存在する。福音の言葉は、育ちや教養とは無関係である。彼らは、深く思考しているので、まがい物には見向きもしない。だから我々も、真実なもの、本物だけを提供しなければならないのだ。我々は、言葉においても行動においても立派にふるまうクリスチャンを探している彼らのニーズに応えなければならないのだ。

 

 

02/07/01

 

 

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