キリストは天の幕屋で大祭司として贖いを成し遂げられた

 

<質問>
[姦淫の現場で捕らえられた女について]を興味深く読ませていただきました。ここに書かれている論理に私も同意いたします。真の神はご自身の立てられた律法を遵守されイエスキリストを贖いとして備えられたことになっていますが律法的な問題で、単に十字架の上で死ぬだけでは律法的な贖罪の求めを全うしていないのではありませんか。
人類の罪を贖罪するためにはイエスの血を神殿にあった契
約の箱に振りかけるという行為が求められるのではありませんか。この時代、どこかで羊や牛が血を流して死んだとしても贖罪とは見なされなかったのではありませんか。
しかし聖書の中でこの事が完結されているのはわかります。そうであればこの取り決めが地上において無視されるはずはなく、それが記録されていないことを不思議に思うのですがどうなのでしょう。

<答え>
ヘブル書には、十字架のキリストは、永遠の幕屋において贖いを成し遂げられた、とあります。だから、儀式を文字通りエルサレムの神殿において実現する必要はありません。

「そこには金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、箱の中には、マナのはいった金のつぼ、芽を出したアロンの杖、契約の二つの板がありました。
また、箱の上には、贖罪蓋を翼でおおっている栄光のケルビムがありました。しかしこれらについては、今いちいち述べることができません。
さて、これらの物が以上のように整えられた上で、前の幕屋には、祭司たちがいつもはいって礼拝を行なうのですが、
第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけはいります。そのとき、血を携えずにはいるようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。
これによって聖霊は次のことを示しておられます。すなわち、前の幕屋が存続しているかぎり、まことの聖所への道は、まだ明らかにされていないということです。
この幕屋はその当時のための比喩です。それに従って、ささげ物といけにえとがささげられますが、それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません。
それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序の立てられる時まで課せられた、からだに関する規定にすぎないからです。
しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブル9・4−12)



 

 

02/12/09

 

 

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