FAQ
Q. 2000年問題は再建主義の後千年王国説(ポスト・ミレ)と関係がありますか?
Q. 再建主義は、クリスチャンによる「一党独裁」を目指していますか?
Q. 旧約時代と新約時代の神の取り扱いの方法に違いはありますか?
Q. しかし、今日の戦争や犯罪、病、迫害などを見るならば、とてもキリストが世界の王であるとは考えられません。むしろ、サタンが王なのではないでしょうか。
Q. 千年王国はキリストが再臨されてから始まるのではないでしょうか。
Q. 千年王国は文字通り1000年間続くのではないでしょうか。
Q. 再建主義は、聖書を文字通り信じていないのではないですか。
Q. 聖書を他の個所と照らし合わせて矛盾なく解釈するというのは、「聖書は無謬である」という原則がはじめからあるからであって、無謬性を信じない人から見れば、循環論に見えませんか。
Q. 再建主義は、自分の立場が絶対正しいと考えているのではないでしょうか。
Q. 再建主義者は、他の教会と交わろうとしないのではないでしょうか。
Q. アメリカで、再建主義者の教会は冷たいという印象を聞きます。
Q. 再建主義者は、他のクリスチャンに論争を挑みかけて、分裂を引き起こそうとしているのではないですか。
Q. 真理に執着するよりも、愛と平和を保つほうが大切なのではないですか。
Q. なぜ終末論にこだわるのでしょうか。聖書は終末論をそんなに重視しているでしょうか。
Q. 前千年王国説、無千年王国説、後千年王国説のいずれを取るかは自由である、とする教会が多いと思います。あえて、それを特定する必要があるのでしょうか。
Q. キリスト教は、私たちに永遠の生命を与えることを目標にしているのであって、この世界を変えることまで要求していないのではないでしょうか。
Q. しかし、そのような命令が実現するという保証はないのではないですか。
Q. 自分が再建主義を信じると、教会がそれを否定した場合、教会内部に波紋や分裂が生じるのではないでしょうか。
Q. 再建主義者の間ではしばしば意見の違いが見られます。再建主義は一枚岩ではなく、それゆえ、信頼に値しないのではないですか。
Q. 再建主義が組織を作らない思想的運動であるならば、その目的は組織的なものではないということですね。では、それは一体何なのでしょうか。
Q. 再建主義は新しい教えを提供しないと言われますが、「後千年王国説」は新しい教えではないでしょうか。教会や集会で聞いたことがありません。
Q. 後千年王国説以外は間違った教えであるというのは言いすぎではないでしょうか。
Q. 前千年王国説は「神は世界を変えることができない」と言っているのではなく、「世界を変えるのは人間の仕事ではなく、神の仕事である」と言うのです。
Q. 「地を従えよ」との命令はアダムに与えられましたが、アダムは堕落してしまいました。堕落した人間に対して、堕落前に与えられた命令を適用することはできないのではないでしょうか。
Q. キリスト教は、この地上についての宗教ではなく、天や霊や心に関する宗教ではないでしょうか。政治とか文化などはキリスト教が扱うテーマではないように思われます。
Q. 最近流行の文明論は、「現在の資源枯渇、森林伐採、CO2の増加による温暖化…は、『人間は自然を支配する権利がある』としたユダヤ・キリスト教文明に原因があるのだ」ですが、いかがお考えでしょうか。
Q. ガリレオの異端審問のように、キリスト教は、科学を抑圧してきたのではないでしょうか。
Q. しかし、科学は古代ギリシヤや中国でも発達したのではないでしょうか。
Q. 法律を変え、日本がキリスト教国であると宣言すれば問題は解決するのでしょうか。
Q. もしそのような時代が来たとするならば、再生した人々はみんな聖霊に導かれるわけですから、特別聖書的な法律や制度を作る必要はないのではないでしょうか。
Q.聖書において家庭内暴力についてはどのように教えていますか。
Q.イエスが「不貞以外の理由で離婚する者は、妻に姦淫を犯させる」と言われたのはどういう意味ですか。
A.
再建主義は、これまで正統的な歴史的キリスト教が述べてきたことを超えません。歴史的信条を信じ、神学的な基礎として、カルヴァン主義に立っています。歴史上、カルヴァン主義がもっていた教義からはみだした教えは一つもありません。既存のカルヴァン主義者とは多少の釈義上の違いはあっても、我々の主張そのものが「異端」であると呼ばれたことはありません。再建主義と一番近いのは、アメリカの植民時代のピューリタンの立場です。それゆえ、再建主義を新ピューリタン主義と呼ぶ人々もいます。
Q. 2000年問題は再建主義の後千年王国説(ポスト・ミレ)と関係がありますか?
A.
関係ありません。再建主義者ゲイリー・ノースが2000年問題を取り上げ、Y2Kによって西洋文明は崩壊するといいましたが、後千年王国説の中にそのような教えは存在せず、また、後千年王国説からそのような結論を導きだすことはできません。後千年王国説とは、キリストの教会は、地上において勝利し、全世界の国民が弟子となると信じるだけであって、その発展の過程において2000年問題が生じると述べていません。
Q.
再建主義は、クリスチャンによる「一党独裁」を目指していますか?
A.
目指しておりません。再建主義は、人間は罪人であるので、単独の人間やグループに過大な政治的権限を与えると、危険であると考えます。ですから、民主主義のように、権力を分散し、互いにチェックし合い、バランスを取るようなシステムのほうが安全であると考えます。
A.
いいえ。諸国民の弟子化の手段は、暴力ではなく、伝道と教育にあると考えます。我々は、諸民族がキリストの弟子となり、聖書の教えをあらゆる分野に適用するような時代が到来すると信じますが、その方法は、けっして強制によるのではなく、彼らが自ら進んで聖書の教えを採用するのを待ちます。聖書の方法は、あくまでも自分の上に立つ権威を尊重し、合法的な手続きを通して、平和のうちに改革が行われることです。
A.
それは誤解です。再建主義は、「人が救われるのは、律法を守ることによるのではなく、ただイエスを自分の救い主として信じる信仰による」と信じます。
A.
律法は、神の御心を表現しているので、救われた人々がこの地上において生活する場合の指針とすべきものです。
Q.
旧約時代と新約時代の神の取り扱いの方法に違いはありますか?
A.
あります。旧約時代において、神は、ユダヤ人と異邦人の区別をし、少しの例外を除けば、救いはもっぱらユダヤ人に与えられていました。しかし、新約時代において、救いはすべての民族、国民に提供されており、この意味において、民族的な区別は撤廃されています。割礼を受けるか受けないか、ユダヤの神殿で礼拝するかしないかは、関係なく、今日、バプテスマを受けて、霊と真とを持って礼拝する人はすべて神の民です。
A.
いいえ。聖書は、民族としてのユダヤ人が全歴史を通じて存在し、異邦人の数が満ちると、神の家に回復すると教えています。そして、回復が起こると同時に世界には大きなリバイバルが起こります(ローマ11章)。ユダヤ人は依然として神の選びの中にありますが、それは、ユダヤ人が一つの民族として役割を持っていることを示しているだけであって、ディスペンセーショナリズムの前千年王国説(プレ・ミレ)のように、これからユダヤ人中心の世界が到来し、ユダヤ教の神殿礼拝が復活するとは考えません。ユダヤ人は、救いの家に帰ってきて、異邦人とユダヤ人がそろった完成された神の教会が出現します。
Q. 携挙は存在しますか?
A.
存在します。キリストの再臨の時に、信者は復活してたちまち一瞬の内に天に携え挙げられます。復活のキリストが肉体において天に昇られたように、キリストの身体である教会も、復活した肉体において天に昇ります。
A.
そうです。キリストは昇天され、神の右の座につかれました。そして、「天においても、地においても、わたしには一切の権威が与えられています」と宣言されました。
Q. しかし、今日の戦争や犯罪、病、迫害などを見るならば、とてもキリストが世界の王であるとは考えられません。むしろ、サタンが王なのではないでしょうか。
A.
いいえ、聖書ははっきりと、サタンはすでにキリストによって打ち負かされ、捕虜として凱旋の行列に加えられていると述べています(コロサイ2・15)。サタンは現在、縛られており、神の許可なしには自由に行動できません。「また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。」(ユダ6)
Q. 千年王国はキリストが再臨されてから始まるのではないでしょうか。
A.
いいえ。キリストが復活して昇天され、神の右の座に座ってから、千年王国は始まっているのです。黙示録20章の千年王国の記述はすでにキリストにおいて成就しています。(1)サタンは底知れぬ所に投げ込まれている(ユダ6、2ペテロ2・4)。(2)諸国民を惑わさない(使徒13・47-48、マタイ28・19)。(3)クリスチャンは王である(ペテロ2・9、黙示録1・6)。(4)クリスチャンは第一の復活を体験した人々である(ローマ8:11、コロサイ2・12)。(5)クリスチャンは祭司である(ペテロ2・9、黙示録1・6)。
Q. 千年王国は文字通り1000年間続くのではないでしょうか。
A.
いいえ。黙示録の数字や言葉を文字通り捉えなければならない規則は存在しません。もし、黙示録21章の天のエルサレムの記述を文字通り捉えると、2000キロ四方の広がりを持ち、65mもの城壁を持つ町が「天から下ってくる」ということを信じなければならなくなるのです。黙示録の数字は象徴表現であり、1000は完全数10の3乗であり、長い完全な期間を表していると考えるべきでしょう。
Q. 再建主義は、聖書を文字通り信じていないのではないですか。
A.
そうではありません。「文字通り」という言葉を「字義そのままに」という意味ならば、文字通り信じません。例えば、黙示録20章の「御使いが竜を鎖で縛った」という個所を、「文字通りの天使が文字通りの竜を文字通りの鎖で縛る」と解釈するのはナンセンスです。聖書は、聖書によって解釈するのが聖書解釈の原則です。なぜならば、我々にとって、聖書以上の権威は存在しないからです。1つの個所があれば、その個所を他の聖書の主張と照らし合わせて、矛盾無く解釈する以外にはありません。
Q. 聖書を他の個所と照らし合わせて矛盾なく解釈するというのは、「聖書は無謬である」という原則がはじめからあるからであって、無謬性を信じない人から見れば、循環論に見えませんか。
A.
事実、この立場は循環論なのです。なぜならば、もし、「聖書は人間の手によるものであり、そこに誤謬がある」という前提で出発するならば、では、神の言葉がどれであり、また、人間の誤謬がどれであるかを、人間が判断せざるを得なくなり、キリスト教は啓示宗教ではなくなり、聖書はもはや「人間を上から教える権威」ではなく、「人間がその内容を自由に取捨選択できるアドバイス書」になってしまうからです。聖書を権威として読む人々は、例えば、処女降誕を読む時に、「イエスは処女から生まれた」と信じますが、権威として読まない人は、「そんなバカな。これは、科学的に無知な人々の妄想だろう」と解釈します。もしこのような選択が許されるならば、キリスト教において、統一的な信仰は不可能になり、権威も喪失して、自分を超えた者から学ぶことができなくなり、時代の風と波によって翻弄される相対主義に陥ります。聖書が神の権威である限り、聖書の無謬性を主張し、「聖書は聖書によって解釈する」という原則を固持する以外にはありません。人間の理性とか常識、感性によって、聖書を読むのは、聖書信仰ではなく、歴史的なキリスト教でもありません。
Q. 再建主義は、自分の立場が絶対正しいと考えているのではないでしょうか。
A.
そうではありません。絶対に正しいのは、御言葉だけです。私たちは、御言葉に基づいて自分の考えに間違いがあることが分かれば、訂正するのに吝かではありません。
Q. 預言や幻は今日存在するのでしょうか。
A.
預言や幻については、再建主義者の間でも様々な意見があります。聖書が完結した以上、預言は不用になったとする意見が大多数ですが、聖書は、「聖書が完結すれば預言は不用になる」とどこにおいても述べていません。広義で言えば、牧師の講壇メッセージも預言と考えることができます。牧師のメッセージが、自分にとってピッタリであったという体験は誰でも持っているでしょう。神は、私たち個人個人の必要をご存知であり、私たちに個人的なメッセージを伝えようとされます。牧師を通して、私たちに必要なメッセージを語られる場合がありますし、また、兄弟姉妹を通しても、神が自分に語られる場合もあります。未信者を通して、さらに、動物や植物、無生物を通して語られる場合もあります。聖書が、預言も幻も今日存在しなくなったとはっきり語っていないのですから、私たちは、そのようなものの安易に否定すべきではないと考えます。
Q. 奇跡や神癒についてはいかがでしょうか。
A.
奇跡や神癒も同じように、今日それらが起こるはずがないと指摘する個所は聖書にありません。事実、奇跡や神癒を体験したことのないクリスチャンは一人もいないと思います。もし、このようなものが存在しないとするならば、祈りはまったく独り言になってしまいます。祈りは、神との語らいであり、超自然的な現象であり、一種の奇跡です。祈りが聞かれたというのは、自然現象を超えて、神が働かれたことを意味していますので、クリスチャンなら誰でも奇跡を体験しているのです。
Q. 再建主義者は、他の教会と交わろうとしないのではないでしょうか。
A.
いいえ。クリスチャンは、誰でも互いに兄弟姉妹なのですから、交流を持たないというのは、明らかに罪です。自分だけの殻に閉じこもることは、独善に陥りやすいので、積極的に他の教会と交わりを持つべきです。自分の教会が一番だとか、自分の考え方が最高だとか考えているのは、明らかに病的であり、高慢の罪に陥っている証拠です。「高慢は破滅に先立つ」と聖書は述べているように、私たちは、常に「私は知恵のない者です。あなたの導きがなければたやすく誤謬の中に落ち込んでしまいます。」と祈らなければなりません。
Q. アメリカで、再建主義者の教会は冷たいという印象を聞きます。
A.
愛がなければ、どんなに神学を勉強して、律法に忠実であっても、まったく意味がありません。私たちが主張する再建とは、まず、自分自身が愛の人として再建されることから始まるのです。原初のアダムは、愛の人でした。罪を犯してから、人間は愛を失って、エゴイストになったのです。キリストにあって生まれ変わった人が、もし、愛を失ってしまったのなら、その人の中に何等かの問題があることを意味しています。神様との正しい関係を回復する以外に愛の人となることはできません。キリストが私たちに命じられた戒めの第一は「互いに愛し合うこと」であったことを忘れないようにしたいものです。
Q. 再建主義者は、他のクリスチャンに論争を挑みかけて、分裂を引き起こそうとしているのではないですか。
A.
いいえ。私たちが議論しているのは、互いに真理を探り、何が神の御心であるかを学びたいからです。議論のための議論は悪であり、人々の徳を高めることにはなりません。時に白熱した議論になることもありますが、大切なのは、現状に甘んずるのではなく、互いに切磋琢磨して、一緒に成長することです。
Q. 真理に執着するよりも、愛と平和を保つほうが大切なのではないですか。
A.
聖書の教えの2つの中心は、義と愛です。聖書を信じるクリスチャンは、この2つのどちらも欠くべきではありません。「義のない愛」も「愛のない義」も、不完全であり、バランスを欠いています。この両者を常に保つように努めるのが大切だと思います。
Q. なぜ聖書を勉強するのでしょうか。
A.
聖書は、神の誤りない御言葉であり、神の御心を啓示しているからです。そして、私たちクリスチャンは、「神の奥義の管理者」(第1コリント4・1)です。管理者の資質として重要なのは、自分の主人の意志を忠実に実行することです。自分勝手な意見を主張して、自己満足しているのは管理者として失格です。聖書を深く研究せず、神の御心を知ろうとしなくてもよいと考えるのは、高慢な心から出ている態度であり、異端はこのような独善性から出ます。まず、自分の心を空っぽにして、自分の意見を捨てて、聖書から学ぶことが大切だと思います。
Q. なぜ終末論にこだわるのでしょうか。聖書は終末論をそんなに重視しているでしょうか。
A.
終末論は、歴史観を扱っているので、聖書は重視しています。聖書では、歴史の始まりである創造を重視しているので、同じように、歴史の終わりも重視していると考えることができます。
Q. 前千年王国説、無千年王国説、後千年王国説のいずれを取るかは自由であるする教会が多いと思います。あえて、それを特定する必要があるのでしょうか。
A.
特定する必要があります。なぜならば、それぞれの立場は、現在クリスチャンがどのような任務を与えられているかについてそれぞれ独自の見解を持っているからです。前千年王国説は、「キリストの王国は再臨の後に実現するので、現在の世界を改革する必要はないし、むしろ、サタンがこの世の権力を握っている以上、それは不可能である」と説きます。無千年王国説は「現在の世界がキリストの王国であるが、キリストとともに支配しているのは天上のクリスチャンだけであって、地上のクリスチャンは王ではない。それゆえ、現在の世界を改革できると考えることはできない」と説きます。後千年王国説は、「現在の世界がキリストの王国であり、天上のクリスチャンも地上のクリスチャンも王である。だから、世界を改革することは可能であり、クリスチャンは諸国民をキリストの弟子とする責任がある」と説きます。前千年王国説を取るか、無千年王国説を取るか、後千年王国説を取るかによって、クリスチャンの現世に対する姿勢は、完全に変わってしまいます。前者2つの千年王国説に従えば、現世に対するクリスチャンの姿勢は逃避的にならざるを得ません。解決が、すべて再臨後のキリストの肩にかかっているからです。クリスチャンは重荷から解放されますが、しかし、この世の悪に対して果敢に挑戦する動機がないため、サタンにとって毒にも薬にもならない存在になってしまいます。しかし、後千年王国説を採用するならば、「クリスチャンは、この世において光と塩になり、世を導き、悪を抑制することができる」という確信が与えられるので、勇敢に地上での戦いを戦い抜くことができます。
Q. キリスト教は、私たちに永遠の生命を与えることを目標にしているのであって、この世界を変えることまで要求していないのではないでしょうか。
A.
いいえ。キリストは、弟子たちに「出て行って、すべての国民を弟子としなさい。バプテスマを授け、私が命じたすべてのことを守るように彼らに教えなさい。」(マタイ28・19-20)と言われました。キリストが命じたこと、すなわち、聖書の教えを、すべての国民に守るように指導する務めが与えられているのですから、「天国行きのキップを渡すだけで充分だ」と考えることはできません。
Q. しかし、そのような命令が実現するという保証はないのではないですか。
A. いいえ。キリストは、この命令の前後に2つの約束をしておられます。一つは、「天においても、地においても、一切の権威がわたしに与えられています。」です。これは、「わたしが世界の主権者なのだから、あなたがたには敵はいない、それは必ず成功する」という保証です。また、もう一つは、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいます。」です。これは、「わたしが共にいて、助けるので、あなたがたは成功する」という保証です。
Q. 自分が再建主義を信じると、教会がそれを否定した場合、教会内部に波紋や分裂が生じるのではないでしょうか。
A.
再建主義は、何か新しい主義や主張ではありません。ただ、「聖書的キリスト教に立ちかえる」運動でしかありません。これまで歴史上、正統的キリスト教会が述べてきたことを繰り返しているだけであって、「新しい教えを発見した」というような運動ではないということです。それゆえ、再建主義の主張を教会に持ち込んだとしても、教会はそれに反対することはできないはずです。充分に説明すれば、必ず理解してもらえると考えます。もしそれでも拒絶反応が起こった場合は、まだこちらの考えを飲み込んでおらず、誤解が残っているか、それとも、その教会が聖書に真っ向から反対の教えを信じている場合です。前者の場合は、誤解を解くために努力する必要があるでしょう。後者の場合は、すでに教会が動かしがたい意見を持っているならば、話し合いが無益に終わる可能性が大です。その場合、自分の意見として教会の中で静かに保っておくしかありません。もしくは、自分がその働きのために積極的に働くために召されていると感じ、共同して行うことが不可能であると判断した場合は、こちらから平和裡に教会を去るべきでしょう。その教会の権威に反抗し、秩序を乱してまで残るべきではないからです。
Q. 再建主義者の間ではしばしば意見の違いが見られます。再建主義は一枚岩ではなく、それゆえ、信頼に値しないのではないですか。
A.
再建主義は、教団を形成して、団体として行動しようとする「組織的運動」ではなく、聖書信仰を発展させることを望む個人が自由に研究し、活動している「思想的運動」なので、細かな点において意見の違いが見られるのは当然です。しかし、その理念「セオノミーによる神の御国の地上的発展と完成」と、その具体策「前提主義、統治主義、セオノミー、契約主義、後千年王国説」(http://www.path.ne.jp/~millnm/5points.html)において大まかな一致があります。例えば、言語学の学界が、団体として一枚岩の行動をとらず、その内部の各人が互いに意見の違いがあるからと言って、言語学そのものが信頼を失うわけではないのと同じように、神学的意見において互いに不一致があるからといって、再建主義神学が信頼を失うとは言えないのです。
Q. 再建主義が組織を作らない思想的運動であるならば、その目的は組織的なものではないということですね。では、それは一体何なのでしょうか。
A.
「様々な教会が聖書的信仰に帰ること」であり、教派、団体を問わず、各教会に聖書的信仰が浸透することです。ですから、再建主義者は、「再建主義」という名前が広がることはほとんどどうでもよいと考えているのです。教会が聖書のみに立って、世界のあらゆることについて首尾一貫して考え、世界の諸国民の弟子化を真剣に考え、その可能性を信じ、実行するようになれば、その目的のほとんどは達成されたとみなすことができます。
Q. 再建主義は新しい教えを提供しないと言われますが、「後千年王国説」は新しい教えではないでしょうか。教会や集会で聞いたことがありません。
A.
後千年王国説(ポスト・ミレ)は、紀元4世紀にアウグスチヌスが確立し、その後、20世紀の前半まで、キリスト教界の主流の終末論として受け入れられてきた教えです。現在、隆盛を極めている前千年王国説(プレ・ミレ)は、初代教会の教父の数人と、宗教改革時代のアナバプテスト、17,8世紀の少数の人々が信じていただけであって、歴史的に教会は前千年王国説を「珍説」(19世紀初めのスコットランドの大説教家デイビッド・ボウグ)や「異説」と考えてきました。カルヴァンは、それを「幼稚な教え」であり「反論する値もない」と述べましたし、ルター派は、「異端」と述べました。歴史的に見れば、後千年王国説が教会の主流の終末論だったのですが、1830年代からディスペンセーショナリズムの前千年王国説が世界を席巻し、20世紀初めに第一次世界大戦が勃発して、人類の進歩に対する疑いが生じてから、クリスチャンまでもが、悲観主義に陥り、前千年王国説が主流となりました。
Q. 後千年王国説以外は間違った教えであるというのは言いすぎではないでしょうか。
A.
後千年王国説以外は、実質的に「神は世界を変えることができない」と考えるので、決して言いすぎではありません。
Q. 前千年王国説は「神は世界を変えることができない」と言っているのではなく、「世界を変えるのは人間の仕事ではなく、神の仕事である」と言うのです。
A.
神は、アダムに対して「地を従えよ」(創世記1・28)と言われました。人間は世界を神の御心にしたがって管理するために創造されたのです。また、キリストは、「すべての国民を弟子とせよ。」と命じられました。弟子とする働きは、人間に委ねられたのですから、「世界を変えるのは人間の仕事ではない」とは言えません。
Q. 「地を従えよ」との命令はアダムに与えられましたが、アダムは堕落してしまいました。堕落した人間に対して、堕落前に与えられた命令を適用することはできないのではないでしょうか。
A.
この命令は、原罪を背負っているノアにも与えられました(創世記9・1−2)。
Q. キリスト教は、この地上についての宗教ではなく、天や霊や心に関する宗教ではないでしょうか。政治とか文化などはキリスト教が扱うテーマではないように思われます。
A.
キリスト教は、「地を従えよ」(創世記1・28)との命令を中心的なテーマとしています。この命令が廃棄されたとどこにおいても記されておりません。また、歴史的なキリスト教は、この命令を真摯に受け止めてきました。カルヴァンは、ジュネーブ市において、生活全般において聖書の規範に基づく統治を実現しようとしました。むしろ、霊と肉に分ける霊肉二元論(グノーシス主義や新プラトン主義など)は、教会から異端として排撃されてきたのです。イエスが、「御心が天で行われているように、地上でも行われますように。」と祈れと命じられた以上、私たちが「御心を地上で行う」ことに専心しなければならないのは当然のことです。
Q. 再建主義は奴隷制を認めるのではないですか。
A.
いいえ。聖書にある「奴隷」とは、我々がよく考える、人身売買によって労働を強制され自由を奪われていたアメリカの黒人奴隷のようなものとはまったく異なります。奴隷は、借金などを返すことができなくなった人、罪を犯して被害者に償いをしなければならない人が、その相手のために無償で一定期間(最長6年間)働く状態を指します。ある意味で、懲役(現代日本の懲役は被害者への弁済はないが)のようなもので、主人のもとで働く間に仕事を覚えて、その期間が終わると、解放され、自立して働くことができました。さらに、奴隷は家族の一員と見なされ、雇い人よりも高い地位が与えられており、過越の食卓に家族と共に与ることができ(出エジプト12・44)、財産の相続が許されていました(エゼキエル46・17)。聖書における奴隷は、「償い」の制度であって、「束縛」の制度ではありません。
Q. 最近流行の文明論は、「現在の資源枯渇、森林伐採、CO2の増加による温暖化…は、『人間は自然を支配する権利がある』としたユダヤ・キリスト教文明に原因があるのだ」ですが、いかがお考えでしょうか。
A.
たしかに、ユダヤ・キリスト教文明の中心は、「地を従えよ」との文化命令にあります。しかし、それは、ただ自然を搾取し、自分の我欲のために、神から与えられたものを身勝手に利用することを意味するのではありません。神の御心にかなった方法で、自然を管理し、それを発展させることが人間の務めなのです。現在の、自然破壊は、聖書の文化命令の「世俗化」によって引き起こされたものです。近代科学の動機は、もともと、フランシス・ベーコンの「科学による文化命令の実現」にありました。神が与えてくださった自然を利用して、神の栄光を表す文明を建設することが目標だったのです。これは、初期の科学者の圧倒的大多数がプロテスタントのクリスチャンであったことからもわかります。しかし、近代の世界に、無神論、人間中心主義がはびこり、神の使命を忘れた結果、科学そのもの、金儲けそのものが目的になり、人間の自分勝手な欲望による搾取が始まりました。聖書律法には、木をむやみに伐採してはならないという掟があります。「長い間、町を包囲して、これを攻め取ろうとするとき、斧をふるって、そこの木を切り倒してはならない。その木から取って食べるのはよいが、切り倒してはならない。…ただ、実を結ばないとわかっている木だけは、切り倒してもよい。それを切り倒して、あなたと戦っている町が陥落するまでその町に対して、それでとりでを築いてもよい。」(申命記20・19-20)これは、「生産は軍事に優先する」という聖書の基本原則を表しています。この原則を破ったために、過去巨大な帝国は、軍艦や砦を築くために木を伐採し、そのため、土地の生産性が失われて砂漠化が起こって自ら墓穴を掘ったのです。聖書の文化命令は、環境破壊の原因ではありません。
Q.
ガリレオの異端審問のように、キリスト教は、科学を抑圧してきたのではないでしょうか。
A.
ガリレオは科学の陣営で、キリスト教は反科学の陣営であり、キリスト教はガリレオを抑圧したという図式が学校などで教えられていますが、問題はそう単純ではありません。日本における科学史の権威東大名誉教授渡辺正雄氏は、次のように述べておられます。
「ガリレイは、生涯誠実なキリスト教徒であり、カトリック教徒であった。・・・ガリレイは、この(コペルニクスの)地動説に賛成であり、1632年に『天文対話』を出版して地動説を弁護したことで、罪に問われた。しかしそのガリレイは、何も教会に反対したり、キリスト教に反対したりしようとはまったく考えていなかった。彼はむしろ、教会がいつまでも地動説に無理解のままでいたのでは、教会のためにも、また彼の母国イタリアのためにもよくないと思っていた。アルプスの向こう側、ドイツには、ケプラーという優れた天文学者がいて、素晴らしい成果をあげつつあった。ガリレイは、このケプラーと親しく手紙のやりとりをしていた。そのケプラーは、ガリレイの仲間の研究者であるとともに、いい意味の競争相手でもあった。カトリックのイタリアは、プロテスタントのドイツに負けてはならない。こういう気もちでガリレイは、法王やローマ教会の主だった人々に何とか新しい天文学を理解してもらおうと努力していた。」(『科学者とキリスト教』68ページ、講談社)
科学が長期的な発展を遂げたのは、キリスト教文明圏だけでした。これは、キリスト教には、「宇宙は合理的な神の手による合理的な被造物である」という世界観があるからです。多神教のように、場所や時代によって統治の原理が変わりうる世界観では、「普遍的な価値」や「合理性」を追求するための動機が得られません。アメリカで発見した法則が、古代中国でも有効であったかどうか分からないというような世界観では、科学的精神は醸成されにくいと言えます。渡辺氏が次のように言われたように、近代科学はキリスト教の産物だと言えるのです。
「科学とは、西洋の思想・文化、具体的にはキリスト教的世界観が生み出したものです。この世界を神の被造物と見て、自然を神のみわざを読み取ることができる「第二の聖書」と信じ、深求を積み重ねることで科学が誕生し、発展してきた。」(朝日新聞5月2日夕刊「日本の科学受容に問題―総合的な観点に欠ける」)
Q.
しかし、科学は古代ギリシヤや中国でも発達したのではないでしょうか。
A.
たしかに、ギリシヤ思想の中にも「合理的自然秩序」の考え方がありました。それゆえ、古代ギリシヤにおいて科学の発達が見られ、近代科学の源流となったのは事実です。しかし、ギリシヤ思想では、「歴史は循環する」という循環史観が支配的であったため、「知識の蓄積による科学の発展」には強い動機が与えられなかったと言えます。キリスト教の場合、「人間は知識を蓄積して、後代に伝え、科学を発展させて、被造物支配を完成する」という強い動機がありますから、科学がキリスト教文化圏だけで長期的な発展を遂げたのは当然のことなのです。
Q. 再建主義は教育をどのように位置付けますか?
A.
再建主義では、教育の目的は、第一に、契約の継承です。神と自分が結んだキリストにある「恵みの契約」を自分の子どもに伝えることがなければ、子どもは契約から外れて、信仰を継承しない恐れがあります。「若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。」(箴言22・6)親は、子どもが神の契約の基準を守り、祝福され、さらに大きな力と富を蓄積できるように整えてあげる責任があります。子供のわがままを放置して、契約に違反するようなことになれば、彼の人生は不毛の人生になる危険性があります。ユダヤ人が子どもの教育の中心に「律法の暗誦」を置いたのは、子どもが神の規範を守り行って祝福された生涯を歩んで欲しいという願いがあるからです。「あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおりに守り行ないなさい。右にも左にもそれてはならない。あなたがたの神、主が命じられたすべての道を歩まなければならない。あなたがたが生き、しあわせになり、あなたがたが所有する地で、長く生きるためである。」(申命記5・33)
第二に、被造物支配の発展です。教育を通じて、文化を継承させるのは、神が我々にまかせておられるこの地上にキリストの御国を広め、万物を神と和解させて回復させるためです。どの程度、我々が効率的に文化命令を達成できるかによって歴史の進展のスピードが変わってきます。世界のあらゆる国々、生活のあらゆる領域において、神中心主義が広まり、世界がキリストの弟子となれば、キリストは再臨され、歴史が完成します。「それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物が回復する時まで、天にとどまっていなければなりません。」(使徒3・20-21)この目標のために教育を行うのでなければ、クリスチャンの教育とは、サタンの跳梁を許し、世界をサタンに明渡してしまうことになるので、決して祝福されず、むしろ、キリスト教が次第に衰退してしまうことになります。戦後の日本に入ってきたキリスト教は、「個人の救済」を中心とした「半キリスト教半ヒューマニズム」であり、クリスチャン子弟の教育に明確な方向性を与えることができませんでした。そのため、世代が交代しても、クリスチャン家庭が強くなることがなく、むしろ、次世代を喪失する傾向すらあります。クリスチャンは、「御国の拡大」という歴史観を子どもに教えて、「世界の弟子化」という明確な目標のもとに教育を行うのでなければ、何年たっても、日本において伝道は進まず、日本人にインパクトを与えることはできないのです。
Q. 法律を変え、日本がキリスト教国であると宣言すれば問題は解決するのでしょうか。
A.
いいえ。たとえ日本の国会で、「今日から日本はキリスト教国である」と宣言し、法律を聖書律法に基づくものに変えたからと言って、日本が神の御国になり、キリストの弟子となることはできません。
法律によって世界を変えようとするのは、ヒューマニズムの考え方です。ヒューマニズムは、人間の内面を問題にするのではなく、「制度」「法」を変えればうまくいくと考えます。つまり、ヒューマニズムの基本にあるのは「環境決定論」なのです。しかし、聖書は、人間の問題はそのようなところにはない、と言います。聖書が主張しているのは、「心の堕落こそ、人間の本当の問題である。」ということです。どんなに素晴らしい制度を作り、法を作っても、人間の心が変わらなければ、何にもなりません。それゆえ、聖書は、キリストを信じる時に起こる「再生」を問題解決の基本に置きます。それまで神と敵対していた心が神と和解することがなければ、絶対に問題は解決しません。
今日、日本の社会がおかしくなっているのは、法が不備だからではなく、社会を構成している人々の心が堕落したからです。それゆえ、もし日本がキリストの弟子となるならば、まず、キリストを信じて再生することが必要です。御国に敵対していた人が、御国のために働くようにならなければ、どんなに「キリスト教的な法律」「キリスト教的な制度」ができても何にもなりません。それゆえ、再建主義は、「まず再生を!」をモットーとしているのです。再生した人々が、国家の構成員の大多数を占めることなしには日本民族の回復はありえないのです。
Q. 日本民族の大多数が再生することなどあるのでしょうか。
A.
私たちの周りを見ると、未信者ばかりで、そんなことあるはずがないと思うのが普通だと思います。しかし、聖書は、はっきりと、そのような時代がやってくると証言しています。「終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、国々の民はそこに流れて来る。多くの異邦の民が来て言う。『さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。』それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。」(ミカ4・1-2) 「わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く。」(イザヤ11・9-10)
Q. もしそのような時代が来たとするならば、再生した人々はみんな聖霊に導かれるわけですから、特別聖書的な法律や制度を作る必要はないのではないでしょうか。
A.
再生した人々は、たしかに聖霊に導かれます。だから、何が善で何が悪であるかを知るように導かれます。しかし、そのような導きは、必ず聖書を通してなのです。聖書を書いたのは聖霊ですから、聖霊が聖書と異なることを教えるはずがありません。そして、人間の心は非常に過ちを犯しやすいものです。たとえ再生した人々であっても、この滅ぶべき身体にある以上、利己心や貪欲などから完全に自由になれる人はいません。それゆえ、神は、聖書という書かれた言葉を残され、クリスチャンが歩むべき指針をそこにおいて客観的に示されたのです。それゆえ、「聖霊だけでよい。」と言うことはできないのです。これと同じことが法律や制度についても言えます。聖霊に導かれるからと言って人間は、聖書の基準を参照しなくても正しい制度や法律を必ずしも作れるわけではありません。
Q.聖書において家庭内暴力についてはどのように教えていますか。
A.聖書は、申命記において、夫が妻を中傷した場合に、一生妻の奴隷となるほどの償いをしなければならないと規定しています。(申命記22・13-21)。
中傷ですら、これほどの償いですから、暴力はなおさらです。
聖書が、妻の名誉をこれほど尊重しているならば、なおさら妻の健康を尊重していると結論できます。
妻の男親は、娘の名誉を守るために、国家に対して訴える(つまり訴訟を起こす)ことができるのですから(申命記22:15-17)、娘の健康や安全を守るために同じことができると言えないわけがありません。
また、教会は、その夫に訓戒を与え、度重なる訓戒にもかかわらず、それを無視するならば、除名しなければなりません。除名された人は、「契約的死人」なので、神の目には死んだ人とみなされ、その人との結婚関係を解消しても罪ではありません。
Q.不貞以外の理由で離婚はできないのでしょうか。
A.離婚は、(1)不貞だけではなく、(2)配偶者が確信犯として合法的な秩序・権力に対して意図的に違法行為を犯し続ける場合にも可能です。結婚は、神の国を地上に拡大し、神の御心が世界中で行われるために存在する制度だからです。神が立てた権威に逆らう人と結婚関係にあることは、自分も神が立てた権威に逆らうことになってしまいます。
Q.イエスが「不貞以外の理由で離婚する者は、妻に姦淫を犯させる」と言われたのはどういう意味ですか。
A.イエスが反対されたのは、「勝手気ままに離婚する」ことです。この御言葉から「不貞以外絶対に離婚は許されない」ということを証明できません。自分の配偶者が、職業泥棒や職業革命家、職業犯罪集団のメンバーである場合、または、公に教会の権威を軽んじ、反抗し、除名処分になり、どの教会にも属していない場合、そのような人と離婚することは罪ではありません。
Q.再建主義者は姦淫を犯した人を即死刑にせよと言いますか?
A.いいえ。聖書において、「刑罰の程度は、直接の被害者が決定する」という考え方があり、死刑にすることを求めるか、それともそれに相当する慰謝料を請求するか、離婚するか、それとも、まったくなかったことにするかは、被害を受けた配偶者が決定できるのです。マタイの福音書において、ヨセフは、マリアが妊娠したのを知って、死刑に訴えませんでした。ただ、「内密に離縁しようとした」のです。これは、「律法を超越した愛があった」からではありません。なぜならば、ヨセフは「義人だったので」と書いてあるからです。聖書において「義人」とは「律法を守る人」のことを意味します。それゆえ、聖書は、「姦淫罪を犯した人を内密に離縁してもよい」と述べているのです。必ずしも死刑にしなければならないと書いてありません。つまり、聖書の、姦淫に対する処刑規定はあくまでも「最高刑」であり、被害者の裁量によって、刑罰の程度が決定されるということです。