幼児洗礼と類的配慮

 

この世界が三位一体の神によって、自己啓示として創造された以上、そこに含まれるすべてのものには一と多の両方の側面があります。
つまり、「個」と「類」の側面です。
人間は、「個人の側面」を持つと同時に、人類という「グループの側面」も持っています。
ヒューマニズムの影響のゆえに、キリスト教の中に、「個」だけを重視する思想が入りました。
それが洗礼において顕著に現われています。
「洗礼は、個人と神との関係を確立するためのものだ。パウロは、『割礼を受けていても、信仰がなければ何の意味もない』と言ったではないか。本当に確信を持ってイエスを主と受け入れない限り、誰にも洗礼を授けてはならない」と言う人々が、人間の類的側面を無視して、理性的に受け入れない人々、とくに、幼児への洗礼を拒否してきました。
近代のキリスト教が、幼児洗礼や、幼児への聖餐を拒絶してきたのは、この「類的側面」を軽視したからにほかなりません。

もし幼児洗礼を拒否するならば、私はそのように主張する人々に尋ねたいのです。
「それでは、あなたのお子さんたちには、あなたが神と結ばれた契約においてどのような地位が与えられているのですか。」と。

幼児洗礼を徹底して拒否する人ならば、当然のことながら、「いかなる地位もありません。うちの子は、他のノンクリスチャンの子と同じ立場にあり、神から特別な祝福や恵みを受けているとは言えません。」と答えなければなりません。

しかし、このような答えが聖書的ではないのは、聖書全体に渡って示されている神の「類的配慮」を見ると分かります。
パウロは、「未信者の夫は、信者の妻ゆえに聖められている」と述べており、使徒の働きでは、看守に対して「あなたもあなたの家族も救われる」と述べています。

神は、アブラハムやイスラエルの民に対して、救いを「家単位」または「民族単位」で与えておられます。

イスラエルのスパイは、ラハブに向って、「あなたの家の中に留まるならば、その者は救われる。この人々の生命について我々には責任がある。しかし、そこから出る者は殺されることがある。この人々の生命について我々には一切責任がない。」と言いました。

聖書における血統や、系図の記述は、人間が類的存在であることを例証しています。

今日、個人主義化したキリスト教は、相続について無関心です。「子孫に美田を残さず」などと言って、子供たちに財産を残すことを否定する人々すらいます。もし類についての関心が回復するならば、クリスチャンは、聖書が教えるとおりに、子供たちに有形無形の相続を残すことに関心を向けるようになるでしょう。

ホームスクーリング運動やクリスチャンスクール運動は、この関心の復活を意味しています。

ヒューマニズムは、神を否定したために、世界を類的にとらえることに失敗しています。なぜならば、もし世界が創造されたものでなければ、個物と個物の間にいかなる紐帯をも見ることができないからです。ヒューマニストにとって、個物についての知識を普遍化することには、いかなる客観的正当性もありません。たとえ彼らが「普遍」を主張していたとしても、その根拠を聞かれたときに、彼らは答えに窮するのです。(*)

もし私たちが本当に世界を三位一体の神による創造物であると認めるならば、私たちは、あらゆる事柄について、「特殊性」「個別性」だけではなく、「普遍性」「類性」を見なければなりません。

神は、私たちを個としてだけではなく、類としても見ておられます。
クリスチャンは、「一匹狼」ではなく、「群れ」なのです。

神は、私たちを救いに召しておられると信じるならば、それは、単に私たち個人の救いだけではなく、私たちの家族、私たちが属する民族、私たちが属する共同体の救いをも視野に入れておられることを認めなければなりません。

私たちが救われるならば、神は私たちが属する集団をも救いつつあるのです。



(*)カント哲学以降、形而上学的知識は、客観的な根拠を失ったために、人々は、堂々と世界の構造について主張できなくなりました。
つまり、近代哲学は、「この世界は造られた世界と認めることはできない。」と宣言したので、世界の中にある個物と個物を結びつける客観的な土台を失ったのです。
例えば、りんごの実と人間の味覚とは、一切の連関を失いました。
この世界が創造された世界であると認めることができれば、「神はこのりんごの実を我々の味覚に合わせて作ってくださった。だから、りんごは美味しいのだ。」といえますが、神を否定した人々は、りんごがなぜ美味しいのかを説明できません。
りんごは、りんご、人の味覚は人の味覚、として別個のものとして考えるようになりました。りんごが美味しいのはたまたまそのようであるだけで、その背後に創造者がいるとは考えてはならないのです。(なぜならば、人間の経験から厳密に考察するならば、創造者がいるかどうか不明だから。創造者がいると主張することは、形而上学的な主観的断定を下すことであり、厳密な帰納法的な認識方法から逸脱することであるから。)

さて、万物は、それゆえに、バラバラな個物の無機的集合となりました。個物と個物を結び付ける文脈はどのようなものでも、「形而上学的・主観的断定」というレッテルを貼られるようになりました。

現代の科学においても、このような考え方が通用しています。世界を創造の文脈で解釈することは不可能です。もし、「この法則は、神が造られたから美しいのだ。」と論文の中で言うならば、彼は学会から追放されます(もちろん、アインシュタインなど様々な学者が「神」について言及していますが、論文の中で論の根拠に含めることはできません)。

ここにおいて、科学は、大きな壁にぶつかりました。なぜならば、「もし一切の背景とか文脈といったものを排除するならば、『個物』についての特殊な、一度限りの知識を『類』についての普遍的知識とすることは一切できない。」ということになったからでです。

これこそ、ヒューマニズムにおける、現代まで解決がつかない根本の問題なのです。
もし、カントのように、「人間が与えた文脈で個物と個物を結び付けてよいのだ」と開き直って考えるならば、実証主義者から「そんなのはやはり主観主義に逆戻りすることではないか」と批判を受けます。実証主義者の主張のように、いかなる文脈も否定すると、今度は、人文科学などのように、「総合的認識」が主要な位置を占める学問はどうしても成立しません。自然科学において、実験室での実験から確認された法則が、本当に「普遍的な」法則であることを証明できません。たとえ、100回同じ結果が出たとしても、101回目にどうなるかは予測不可能なので、それを「普遍的」法則と呼ぶことはできません。

そもそも、創造者を除けば、科学は「原理的に」成立しないのです。
個物と個物を結び付ける背景の文脈を設定しない限り、宇宙は、「バラバラの個物の無機的寄り集まり」にしかなりません。これでは、「普遍化」を仕事とする科学は死んでしまいます。

このように、神を捨てたヒューマニズムの世界は、「一」と「多」の調和を取ることに失敗しているのです。

本当に科学を成立させたいならば、三位一体の神を信じる以外にはありません。

神にあって、宇宙に存在するすべての個物は、互いに有機的に連関しています。真の科学は、「この宇宙の背景には、三位一体の神による創造という文脈が存在する」ということを認めます。この文脈の上にたって、はじめて人間は、個物を正しく解釈できるとするのです。宇宙は神の「第二の聖書」です。宇宙に存在するすべてのものは、ことごとく神の自己啓示なのです。
それゆえ、人間には、科学をする正当な権利があり、また、それは義務でもあります。

科学を「神の自己啓示に応える行為」と考えないならば、それは真の科学ではありません。それは、神を無視する僭越の罪であるだけではなく、「特殊と普遍」のジレンマを解決できないために、原理的に実現不可能な試みなのです。

 

 

カルヴァンと幼児洗礼

02/09/14

 

 

 ホーム

 




ツイート