契約と肉体
聖書において肉体のもつ意味は重要である。
パウロは、「主は肉体のためであり、肉体は主のためである。」とすら述べている。
現代にまで影響を及ぼしているギリシャ思想は、肉体を軽視する。ギリシャ思想の影響を受けたキリスト教の教派(カトリックだけではなく、プロテスタントも)は、肉体を軽視する傾向がある。無教会派のキリスト教などその典型である。無教会派のリーダーだった矢内原忠雄は、「洗礼や聖餐など形式でしかない」と断言し、洗礼は水でなくてもよい、聖餐はご飯でもよいと述べた。
今日にいたるまで、キリスト教の中の大きな欠陥は、この「肉体軽視」にあるといってよい。
キリスト教において、御言葉の説教と、礼典が並んで置かれているのは、キリスト教が「霊の宗教」だけではなく、「肉体の宗教」だからでもある。霊だけではなく、肉を重視する。
人間がなぜ生まれながらに神の敵であるかと言えば、それは、我々がアダムの直接の子孫であるからである。生まれながらの人間はみな、アダムの形質をそっくり受け継いでいる。眼、鼻、耳、脳、手足、…など、アダムが備えていたものとまったく同じものを我々も備えている。つまり、我々はアダムと肉体を共有している。何千年も前のギリシャの彫刻を見ると、当時の人々の肉体は、我々の肉体とまったく同じものであることがわかる。歴史を通じて、DNAは忠実に人間の形質をまったく完全に伝えてきたことが分かる。
神がエバに救いの原始的福音を説かれた時に、「女の子孫」がサタンに勝利する、と言われた。神がアブラハムと契約を結ばれたときに、「おまえの子孫とも結ぶ」とも言われた。ここで「子孫」とは、霊的な意味ではなく、もちろん、「肉体的子孫」である。
もし肉体的子孫でなければ、マタイ第一章の長々しい系図は無意味である。あれは、キリストがエバとアブラハムの直系の子孫であることを証明している。
このように、契約は肉体と密接に関係している。契約の土台は、肉体の共有にあると言ってもよい。
教会に属するメンバーは互いに「一つの体」であるといわれているのは、キリストにある契約が肉体を土台としているからである。クリスチャンは互いに一つの肉を共有していると考えられている。クリスチャンは、一つのパンを食べ、一つのぶどう酒を飲むことによって、肉体の共有を証言している。
クリスチャンが売春婦と交わるならば、キリストの体を売春婦の体とする、とすら述べられている。我々の肉体は、もはや自分のものではないとすら言われている。
さて、幼児洗礼ということを考える時に、この「肉体の共有」という問題は重要である。
なぜ神が旧約聖書において幼児に割礼を授けよ、と命じられたのか。なぜ、他の家族の子供、異邦人の子供に割礼を授けよ、といわれずに、「自分の子供」に割礼を授けよと命じられたのか。
それは、自分の子供は自分と肉体を共有しているからである。
神は家族の長である父親と契約を結ばれる。この契約は、家長の契約ではなく、「家」の契約である。父親はあくまでも契約の代表である。神はモーセに「家のかもい、門柱に贖いの血を塗れ」と言われた。救いは、それを行った「家」に及んだ。
旧約聖書における「家」の契約は、家族のメンバー全員に効力を及ぼす。
では、なぜ神は「個人の救い」だけではなく、「家の救い」を強調されるのか。それは、家族のメンバーが互いに一つの体を共有しているからである。
子供は両親の遺伝子を濃厚に受け取る。妻は、結婚によって自分と互いに「一つの体」である。
この家族のメンバー全員の肉体の共有は、家の契約の第一の土台である。
神が制定された主要な統治機関の一つである「家庭」は、このように肉体の共有という土台の上に形成される。
それでは、アブラハムの家にいた雇い人や外国人、奴隷などがなぜ契約に与ることができたのか、といわれるかもしれない。
契約のもう一つの土台は、「信仰」だからである。信仰は、人間の肉体同士を結びつける。神は、神が用意された信仰を受け取る者を、肉体を共有した者と認めてくださるからである。
クリスチャンは、もともとキリストの体(=教会)とは互いに無縁の存在であったが、信仰によってそこに加えられた者である。
「聖書においては、信仰が大切であって、肉体は重要ではない」という今日流行の思想は、聖書の思想ではない。聖書は、「信仰は、肉体の共有を可能にする」と述べているのであり、あくまでも肉体は、「契約の土台」としての地位を失っていない。
聖書が民族を重視しているのは、民族は大本を探れば、「もともと共通の祖先を持つ集団」だからである。聖書において系図が重視されているのは、民族のこの「肉体の共有性」を強調しているからである。
神の統治組織のもう一つの主要な要素「国家」は、民族を基本として成立する。しかし、今日、民族を基本としているだけではなく、多民族、多言語の国家もある。その場合どうなるのか、という疑問があるだろう。「義のしもべ」として人々の安全と正義を守るために神に任命されている国家は、必ずしも「共通の肉体を持つ人々」から成っているわけではない。
ここにおいても、契約の土台が「肉体」だけではなく、「信仰」にもあるということがわかる。国家は、血縁だけではなく、国家を成立させる共通の理念によっても形成されている。神は、その理念を受け入れる国民を互いに共通の肉体を持つ者として見ておられる。それゆえ、国家の一部のメンバーの堕落は、他のメンバーの堕落としても見られる。一箇所が病気になった体が健康体とは呼ばれないのと同じである。国としての悔い改めが必要だというのは、神が国を共通の肉体と見ておられるからである。クリスチャンは、国家という肉体のメンバーとして塩の役割、あたかも腎臓や肝臓のように、浄化の働きをするために召されている。
このように、神の契約において、「肉体」も「信仰」もどちらも重要な要素である。新約聖書になったら、「信仰」だけで、「肉体」はどうでもよくなったわけではない。むしろ、信仰とは、肉体的共有を実現するために存在する。
幼児洗礼は、契約のこの性質を端的に表す礼典である。
幼児洗礼を認めない人々は、聖書の契約観を正しく認識せず、信仰を肉体と切り離して考えている。
02/11/05