教会への社会主義思想の影響1
かつて、インドネシアに進出している日本企業について学生たちが批判しているのをよく耳にしました。
「あれは日本帝国主義である。」
「現地の人々を安い賃金で働かせて、安い品物を日本に輸入するなんて侵略行為だ。」
どうしてでしょうか。
プラントを作ることによって、現地の人々の雇用が促進するのですからいいことではないでしょうか。
もし安い給料で働きたくないならば、仕事に応募しなければいいのです。
こういった話しをテレビでやっていました。
ナタデ・ココという食材が日本においてはやったときに、東南アジアでは、ナタデ・ココをたくさん作ったが、日本においてブームが去ると、買い付けに来る人がめっきり減った。彼らは日本のぜいたくにふりまわされているのだ、と。
しかし、これって、市場経済につきものですよね。
べつに現地の人を困らせようとしたわけではない。
日本においても世界においても、どこでも、流行によって左右される商品がある。だから、時流を見定めて、何がはやるか予測しなければ生き残っていけないというのは世界共通の問題なのです。
こういった金持ち悪人説や商人堕落説、日本原罪説というのは、マスコミや教会人が社会主義思想に毒されているからではないでしょうか。
市場経済は、自己責任の世界であり、きわめてキリスト教的なのです。
キリスト教の世界観は、「世界はリスクに満ちている」というところから出発しています。まずエデンの園という楽園にすら善悪の木の実というリスクが置かれていた。
人間はロボットとしてではなく、善悪を選択するリスクを背負って創造されたのです。神は人間を大人として作ったのであって、リスクを排除し、無菌状態の温室に置いたのではない。
社会主義が目標とする「結果の平等」や「リスク排除」というのは、非聖書的な目標であって、きわめて不健康な教えです。
キリスト教はこういった無リスク思想に毒されたため、幼稚になってしまいました。
リスクを負えない人間はけっして大人になることも、人を主体的に愛することもできない。だから、「愛」が叫ばれているにもかかわらず、他者を愛するという方向ではなく、自分を愛することを求める人々で教会が満ちているのではないかと思います。