死後のセカンドチャンスについて5

 

バプテスマのヨハネは、母の胎内にいる時からすでに聖霊に満たされていました(ルカ 1:15)。
ということは、福音を聞かないときにすでに救いを与えられている人がいるということです。
このように、神様の方法は、多様であって、人間が聖書から導き出した原則で万象を「ことごとく」解釈できるとは言えないのです。聖書の原則は、「福音を聞いて、イエスを主と告白することによって救われる」ということですが、しかし、ヨハネは福音を聞く前に、救われ、聖霊を与えられていたので、彼の救いはこの原則外の方法によったのです。

再洗礼派の人々は、理性を持たない幼児にバプテスマを授けませんでした。彼らは、「人間は理性をもって福音を納得して受け入れる以外に救いはない」ということをこの「幼児洗礼拒否」によって表明したのです。しかし、旧約聖書において、神は、新しく生まれた子供も神の民に加えよ、と言われました。それは、生後八日目の割礼によりました。包皮は、「生まれながらに人間は霊的事柄について鈍感である」ということを象徴し、割礼を施すことによって、人間は霊的な事柄に敏感になるということを象徴しています。新約聖書において、割礼はバプテスマに代わられました。もし再洗礼派の人々が、旧約時代に生きていたら、割礼を拒否したことでしょう。神の民に加えられるには、「理性による同意」が絶対不可欠だから、と言って。

このような人間理性中心主義は、キリスト教的ではありません。
キリスト教は、旧約聖書においても、新約聖書においても、「人間理性中心」ではなく、「神の恩恵中心」なのです。神の御意志によって、人間の運命は完全に左右される、という「予定」が中心なのです。

「その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、『兄は弟に仕えるであろう』とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ』と書いてあるとおりです。…神はモーセに、『わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ』と言っておられます。従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。」(ローマ 9:13-16)

それゆえ、死後の救いについて考えるにしても、「生前においてキリストを主と告白しない限り、救いは一切存在しない」と主張することは言いすぎということになります。あくまでも、万物の決定は、神の御意志に『のみ』かかっているのですから、有限な存在である人間は、「私は、聖書という、万象について完全な知識の中に入ることができる『万能鍵』を手に入れた」と宣言できないのです。

神は、原則を超越してことを行うことができる御方であり、神御自身が法なのです。「神は正しいことをなさる」のではなく、「神がなさったことを『正しさ』と定義する」のです。神が万物を無から創造された以上、神をも裁く「善悪の基準」などはこの世に存在しません。

それゆえ、キリスト教とは、「神の恣意(つまり、わがまま)」を中心としているということができます。そして、聖書とは、神の御心の一部を啓示しているものとしか言えません。神の御心の全体は人間にとっては不明です。あらゆる事柄について聖書の原則を徹底して適用できると考えてはならず、神は聖書に啓示しておられる原則を外れたことを行われることがあります。聖書は、「この地上において神の民として召された成人の人々がどのように生活し、思考すべきか」ということに集中しているので、それ以外のテーマについてはほとんどが不明であるということができるでしょう。

聖書は、「支配の契約の書」です。神は宇宙を造り、地球を人間に委ね、支配せよ、と命じられました。それゆえ、このテーマから外れた事柄については謎であり、また、人間が知る必要がないものとして、聖書において啓示されていないのです。このような「限定的な書物」をもって、万象を判断するということは、我々には許されていないということを今一度確認したいと思います。

 

 

02/09/09

 

 

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