呪いがなければ祝福は来ない

 

この世にサタンは必要ないと言う人々がいる。
「神は、なぜサタンを完全に征伐してくれないのだろう。サタンさえいなければ、人間は幸せに生活できるのに。」と。

また、プレ・ミレの人々は「来るべき千年王国において、サタンは完全に縛られてまったく活動できなくなるだろう」と言う。

しかし、考えていただきたい。もしサタンがまったくいなくなれば、人間は、完全に腑抜けになり、ダメになるのだ。

戦後日本を見たまえ。戦争も、内乱も、暴動も、飢餓も、第三世界の人々が体験するあらゆる悲惨から解放された世界を。

人々は神を忘れ、驕り高ぶり、上から下にいたるまで、みな腐ってしまったではないか。

たしかに、このような平和な社会を否定するつもりはさらさらない。

物があふれ、教育の機会は至るところにあり、病気にかかれば誰でも医者の診察を受けられ、コンビニに行けば夜でも買い物ができる。飢えることもなく、仕事を選ばなければ、何んらかの形で食べていくことはできる。

このようなすばらしい社会が与えられたことを神に感謝すべきである。

しかし、このような環境を戦後の日本人は、神に感謝したであろうか。そうではない。むしろ、神を忘れ、道徳を捨てて、一億総拝金主義者になったのではないか。

だから、神は本当に愛する人々には有り余る幸せをお与えにならないのだ。神は、あえて試練を残される。祝福の中にも必ず苦悩を残される。

「苦菜を添えて食らうべし」と神はモーセにお命じになった。

「それは、エジプトにおいて奴隷であったことを忘れないために」と。

クリスチャンになると、何も問題はなくなり、毎日ハッピーで、病気も、悩みも、苦しみも、死別も、災害も何もなくなります、というのは、偽伝道師である。

聖書の原則は、「祝福の前に呪いあり」である。

呪いの中において訓練されない限り本当の祝福は与えられない。

人間は、生まれてきて、両親のもとで訓練を受けるように定められている。その訓練はつらく厳しい。しかし、それを正しく受けた者だけが、大人になって本当の幸せを受けることができる。

甘やかされた子どもは、真の幸せにあずかれないのでかわいそうなのだ。彼は、訓練されなかったために、生活の基本的なルール、社会生活のルール、欲望をコントロールする能力、指導者になるための節制などに欠けているために、誰からも信頼されない。

呪いを通しての祝福、という聖書のテーマを無視した両親は、自分の子どもを最悪の不幸に突き落としている。

イスラエルにとって、カナンの楽園に入る前の、荒野における40年の歳月はけっして無駄ではなかった。

もし、イスラエルが荒野を通らずに、ストレートにカナンに入ったらどうだろうか。完全に神も人間もなめまくるだろう。人間は堕落者の子孫なのだから、幸せや満足だけを与えられると、あらゆるものをなめてかかる。

甘やかされてやりたい放題やって育った金正日を見れば一目瞭然である。気に食わない人間をその場で殺したり、収容所に送ったり、他国に行って何の罪もない人々を拉致したり。

人間が復活体になって、完全に無罪性を獲得するまで、神は、サタンを泳がせておられる。それは、実は人間のためなのだ。

人間は、試練を通してでなければ、絶対に祝福は得られない。祝福は、試練を経て、テストに合格した人間にしか与えられない。

「来るべき千年王国において、サタンは完全に活動を抑圧され、手も足も出ない状態になり、諸国民を絶対に惑わすことはなく、誰も迫害されることもないので、御言葉は速やかに全世界に広がる」というようなプレ・ミレのストーリーは虚構である。

福音が伝わるためには、試練を経て練り上げられた伝道者と、試練の中で救いへの飢え渇きを覚える練り上げられた被伝道者が常に存在しなければならない。

千年もの間、サタンの活動がなければ、人間は、巨大な豆腐が、自分の重みで崩壊するように、自滅してしまうだろう。ぬるま湯の中で、ふやけた者だらけの中でどうして、神への心からの賛美が起こるだろう。

 

 

02/12/21

 

 

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