我々は非常に幸運な人々である

 

O・P・ロバートソンの『契約のキリスト(Christ of the Covenants)』(P&R)は契約に関する書物の中では、カルヴィニストの間で広く読まれている本の一つである。

彼によれば、新約聖書において聖書啓示が完成するまでの間、契約は常に発展してきた。

最初、アブラハムに与えられた契約は、家族の契約であった。

しかし、その後アブラハムの子孫が増えるにつれて、民族が形成された。
モーセに与えられた契約は、民族的契約であった。
ここにおいて、神の民のプロトタイプ(原型)が生まれた。
イスラエルを通じて、神は、神の民とはどのようなものであるかを啓示された。
神は、民に律法を与え、神の民としてのあり方を教えられた。

つまり、ここにおいて、神の国の基礎が据えられたということである。

神の国とは、神の法が御民を支配し、保護し、幸いを与える国である。
御民は、神に対して忠実に仕え、発展と進歩と幸福と繁栄を享受するはずであった。
イスラエルというある特定の民族をモデルとして神は、ご自分の支配がいかなるもの
かを啓示された。

ダビデ契約において、神は、王を中心とする御国のモデルをお与えになった。
イスラエルの王国は、キリストを王とする神の御国を予示している。

アブラハム契約から、モーセ契約、そして、ダビデ契約へと、神は次第に、「キリストを王とする御国」がどのようなものであるかを段階的に啓示してこられた。


したがって、契約は、もちろん、イスラエルだけのために与えられたものではなかった。
旧約聖書は、ユダヤ人のためだけの宗教を提供したのではない。

旧約聖書は、全世界に広がり、あらゆる国民から成る、来るべき完成されたキリストの御国を指し示していた。

あくまでも、神の最終目的は、一民族を超えた普遍的支配、つまり、「全世界支配」にある。

神は、最終的に全世界を御国とするために、イスラエルを選び、彼らを「御国のモデル」とされた。

それゆえ、旧約聖書の律法を、「『地域的、民族的、個別的』であるがゆえに、その全部または一部は廃棄されてもよい」という主張は誤りなのだ。むしろ、旧約聖書の律法は、来るべき御国の規則の原型であった。それゆえ、我々は、旧約律法を、イスラエルの民族的律法から、全世界の国民のための普遍的律法に再解釈しなければならない。

ディスペンセーショナリズムは、契約と契約の間に連続性を認めない。前の契約は廃棄され、それとまったく無縁の契約が新たに与えられたという。つまり、以前の契約をご破算にして、まったく新しい契約(正確に言えば「時代dispensation」)を次々と与えたという。

しかし、契約神学は、すべての契約は「キリストを主とする世界王国」を指し示すために段階的に発展した、と考える。

どちらが正しいだろうか。

キリストが、マタイ28章において「全世界の国民を弟子とせよ」と述べられたのは、「今や、イスラエルだけではなく、全世界が私の王国となった」と宣言するためだった。

事実、キリストの十字架において、サタンは法的に敗北し、神の捕虜となった。サタンは現在縛られており、自由に活動できない。現在、サタンは、神の御国の完成のために利用されているコマに過ぎない。

有り余る富や幸せや勝利に耐えられる人は少ない。

過分の幸せを与えられると人間はダメになる。

だから、神は、サタンの活動を許し、苦難の中において、人間を訓練することをよしとされた。

キリストが昇天されて、神の右の座に着かれた時に、契約が完成し、全世界は「法的に」キリストの王国となった。

しかし、「実際的に」は王国は完成していない。実際的な完成は、弟子たちが全世界に出て行き、あらゆる国民を実際にクリスチャンにすることによって達成される。


まとめ:

歴史は、キリストの御国の発展史である。

旧約時代において、神は段階的にキリストの御国とはどのようなものかをイスラエルをモデルとして啓示された。
キリストが来臨され、サタンに勝利することによって、御国は法的事実となった。

クリスチャンは、伝道と教育によって、この法的事実を現実化しなければならない。

世界は必ずキリストの御国となる。それは、神の計画だからである。歴史の中で、神は着々と計画を実行してこられた。

雪だるまは、段階を踏んで作られる。まず胴体を作り、それに頭をのせる。そこに墨の眉や目、鼻、口をつけ、帽子をかぶせる。

胴体だけ、とか、頭だけでは、雪だるまは完成しない。

神は、途中で計画を放棄される方ではない。神の計画は絶対であり、それは必ず成就する。我々は、旧約時代に作り上げられた基礎の上に最後の仕上げをするために召された。

もし我々が怠惰や臆病、不従順のために計画を実現できなくても、神は他の人々を起こして必ず計画を実行される。

これまで何千年もかけて進んできた計画が、我々の失敗によって頓挫してしまうことなどありえない。

我々は、神の計画の最終仕上げのために召された、非常に幸運な人々である。

 

 

03/04/20

 

 

 ホーム

 



ツイート