RE:
教えの重要性
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牧師は聖書を学んでこられたのはすばらしいのですが、社会人としては経験不足>
現実的なリーダーシップではお粗末な場合が多いのではないかという点です。>
このような現実的な点は水泳や武道と同じで、本や学校で知的に学んだからといって>
身につくものではありません。知識がいくらあっても「使い物」にならないのです。>
戦闘のために召されたということに全く同意するのですが、指揮官が理論は学んだが>
全く実戦経験には乏しい指揮官であるなら、その軍隊の実戦における戦いは>
戦力を充分に活かしたものとはなりえないように思われます。>
現実には、いってみれば医者や弁護士が企業経営者に経営の指示をするような>
危うい場面もしばしば見受けられるのではないでしょうか。>
といって、牧師先生を批判しているのではありません。このようなな状況をしばしば>
聞くことがあり、これも教会の前進を阻むひとつの要素ではないかと思わされて>
おりますのでこのような場合信徒はどのように牧師先生と接したらよいか、>
ご指導をいただけたらと思います。よろしくお願いします。御質問ありがとうございます。
たしかに、そういう面はあると思います。
神学校を出ただけで、そのまま牧師になると、どうしても社会で働いている人の気持ちがわからないとか、その大変さが理解できない、などということがあるでしょう。
牧師になるような人の資質の一つとして求められるのは、人の痛みや苦しみに共鳴できるということではないでしょうか。
カルヴァンは、「牧師は脅迫によるのではなく、やさしさによって人々を引き寄せるべきである。」という趣旨のことを述べていますがそのとおりだと思います。
また、神学の知識だけではなく、実際にグループをまとめて一つの方向性を与え引っ張って行くという面においても相当の資質を要求されます。
何でもかんでも自分でやらなければ気がすまない、人に任せることができないタイプの人は牧師には向いていないでしょう。牧師は、「人を整えて奉仕の業に励ませるために存在する」とあります。人から奉仕の機会を奪うようならば牧師失格といわねばならないでしょう。
教会は、メンバーの多様な特質が最大限に発揮されるような統一体であると思います。
牧師はむしろ、こまごまとしたことについては、ボケっとしているほうがよいと思います。
だいの大人であれば、自分だけで生きる力があります。何をすべきかはわかっています。
牧師が、信徒を子供扱いすると、ますます信徒は子供になり依存癖がつきます。
依存癖を養ったがために、信徒のこまごまとした世話に振りまわされている牧師が多いような気がします。
教えの重要性を説いてきましたが、それは、「あまりにも教えがないがしろにされ、神学を軽視する傾向が強いため」であって、その他の部分がまったく重要ではないということを言おうとしたのではありません。
宣教師が日本に来て、日本語を勉強しなければ、どんなに神学の知識があっても無意味です。そのように、グループを指導するコツ、説教の組み立て方、効果的な説得の方法など、体験によってしか知ることのできない部分があって、それも重要であると考えています。