放浪と文明

 

昨日、テレビでインドの行者が映し出されていた。
30年間放浪の旅を続け、毎日祈りに専念しているという。
手には自分の衣類が入ったショルダーバッグと水筒だけ。
これを見たレポーターが、「欲望は無限の連鎖を生む。我々の社会は、不要なものを次々と欲しがっているが、これらの行者は、毎日の生活に必要なものしか欲しがらない。このような行者に見習いたい」というようなことを述べていた。

1960年代のニューエイジ、ヒッピー文化の台頭以来、放浪への憬れは強い。
「男はつらいよ」の寅さんや、「釣りバカ日誌」の浜ちゃんに人気があるのは、社会のしがらみにとらわれず、その日暮らしの気楽な生活に憬れるからだろう。
カウンターカルチャーが流行した1965年から1972年にかけて、アメリカの数百万のティーンエイジャーが西側諸国をヒッチハイクして回っていた。「イージーライダー」などのロードムービーが人気を博した。

しかし、聖書において、放浪は、神の呪いを象徴している。
罪を犯したカインは、神に呪われて放浪を命じられた(創世記4・12)。
神の命令にそむいたイスラエルは、40年間荒野を放浪しなければならなかった(民数記32・13)。
イエスを拒んだユダヤ人は、世界に散らされ、「流浪の民」となった。

たしかに、放浪者は責任から解放されるが、その生活には、資産も、ビジョンも、未来もない。

それゆえ、放浪者は、独自の文明を築けない。文明を築くためには、人は定住しなければならない。

定住し、土地と、固定された資産があるときにはじめて、人々や民族は落ち着いて自分の未来を見ることができる。

文明は、一世代で築かれるものではないから、土地を確保し、未来を見据えて、自分の子孫に仕事を継承する、という考え方ができない人間は文明を築き上げることはできない。

放浪とか離散の刑罰は、「神は、その人や民族から『支配』の使命を奪った」ということを示している。
つまり、神はその人や民族に「おまえは文明を建設してはならない」と言われた、ということなのだ。
神は、悪に染まった人や民族に向かって、「おまえが定住すると地上に悪いものしか作らないから、放浪して何も作らせないようにしよう」と言われた。

しかし、契約の民には、神は、土地の所有を命じられた。
もし借金で首が回らなくなったとしても、土地を永久に奪われるということはなかった。
その家の長男が死んで子どもが残っていなければ、次男が未亡人と結婚し、子どもを産んで、土地の散逸を防がねばならなかった(このレビラート婚の風習は日本にもある)。

神は、御心を行う人々に土地を与えようとしておられる。
それは、この地上に聖書的文明を築かせ、地上をすべて神の御国と変えるためである。
クリスチャンは、土地を買い、定住を目指し、様々な分野や組織において、技術を磨いて、昇進・出世し、できるだけ上位のリーダーシップを獲得することを目指すべきである。
クリスチャンが各分野においてリーダーとなり、御心を実現できるようになることが神のご計画なのだ。

 

 

03/02/17

 

 

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