頑固者と呼ばれる覚悟がないクリスチャンは宗教改革者の子孫と自称してはならない
ある意味において、ヴァン・ティルの前提主義(presuppositionalism)は、「頑固主義」なのだ。
万物を測る究極の尺度は、神の御言葉である聖書以外にはない、と宣言するからである。
今日の風潮は、「そんな聖書、聖書って、拘るのは、あまりに狭い了見ではないですか?神様はそんなに狭い御方ではないと思いますよ。」というのが、普通だと思う。「聖餐をノンクリスチャンにも与える」教会が出てきたことからも明らかである。
聖餐をノンクリスチャンに与えたら、クリスチャンとノンクリスチャンの区別はもはや存在しないということになるのだ。
クリスチャンとノンクリスチャンの違いがなければ、伝道とは一体なにものなのか?何のために伝道するのか?
聖書は、「イエスを信じない者は滅びる」とはっきりと主張している。この聖書の中心的主張を無視するような人々は、結局のところ、自分の主観のほうが聖書よりも優れていると、自惚れている。彼らはけっして心が広いのでも、愛があるのでもない。彼らは、神の御前に傲慢なのだ。
堕落の特徴は、「聖なるものと聖ではないものとを区別しなくなること」において最も顕著に現われる。
「その祭司たちはわが律法を犯し、聖なる物を汚した。彼らは聖なる物と汚れた物とを区別せず、清くない物と清い物との違いを教えず、わが安息日を無視し、こうしてわたしは彼らの間に汚されている。」(エゼキエル 22:26)
まもなく裁きを迎えようとしていたエゼキエルの日のイスラエルと同じように、裁きを迎えようとしている現在の教会も聖なるものと汚れたものとの区別を教えない。
もし教会が裁かれたくなければ、頑固になる以外にはない。「聖書の基準から絶対に離れない。誰が何と言っても聖書は神の絶対の基準であるから、これを越えてものごとを評価する基準を持たない」と執拗に主張するのでなければ、教会は裁かれる。
聖書を唯一絶対の基準とするのは、万物が無から創造されたからである。創造の以前に何らかの基準が存在したと考えることはできない。創造の前に「真善美」の基準が存在したと考えることはできない。ギリシャ思想は、神の創造の前にこのような基準がすでに存在したと考える。そのため、ギリシヤ思想において「基準」は絶対であり、神は相対者になる。しかし、聖書は、基準も何もかにも神から出たと考える。神は無から万物を創造されたので、神の手によらないものは一切存在しない、と言う。
それゆえ、神の御口から出るすべての言葉はすべて絶対の基準になる。神の言葉をも裁く基準などこの世に存在しない。
西洋文明をながらく支配していたのは、「神の前にすでに基準が存在していた」という思想である。「自然秩序Natural Order」こそが絶対である、と。ここから自然権とか自然法という考え方が生まれた。我々の憲法の基本にもこの思想がある。つまり、聖書が啓示する三位一体の神による創造とは別に、永遠の昔から秩序や法が存在したというのが世界の常識となってきた。
これがヒューマニズムの土台である。ヒューマニズムが、キリスト教を相対化するのは、このような発想があるからだ。
「世界は三位一体の神の無からの創造によって成ったのではない。その神の前にすでに永遠の基準が存在したのだ。だから、聖書律法を我々に押し付けるのはやめて欲しい」というのがヒューマニズムに毒された人々の常識的態度である。今日の、聖書律法を拒否するクリスチャンは、実際のところ、三位一体の神を否定するヒューマニストなのだ。彼らの存在論は、「三位一体の神から万物が出たわけではない。創造はすでに存在していた自然秩序に対する追加的行為であった。」というカトリックと同じものなので、彼らはカトリック教徒でもある。
おわかりだろうか。プロテスタントのキリスト教の基本は、「無からの創造」の教理にあるのだ。自分を宗教改革者の弟子と自認するならば、「自然秩序」などという中立思想を捨てなければならない。そして、ヴァン・ティルの前提主義を受け入れなければならない。「聖書以外に基準はいっさい存在しない」との主張を頑固に続けて行く気概がない人間は、自分をプロテスタントのクリスチャンだと主張してはならない。自分が頑固者、聖書崇拝者、聖書の虫、狂信者とののしられる覚悟がなければ、宗教改革者の子孫を自称してはならないのだ。
おまけ:
時間と空間は、創造の際に造られている。時間と空間の創造は、購入時のまっさらなフロッピーディスクに初期化を行うようなものだ。コンピュータを離れた自分自身のアナログな生活が、このフォーマットに左右されることはないように、神も時間と空間に左右されることはない。それゆえ、創造を何億年にもわたる長期の行為であると考えることは、神御自身を「自分が設定したフォーマットに日常生活すべてを支配されているユーザー」と見なすことと同義なのだ。
02/09/04