ペルー人質事件の特集番組を見て

 

本日、「アンビリーバボー」というTV番組で、1996年のペルー日本大使館人質事件を特集していた。
舞台裏が明らかにされ、興味深い内容であったが、最後のまとめ方が気になった。
ゲリラの人々も人間であり、全員を射殺する必要はなかったのではないか。暴力は何も解決しない、というまとめ方をしていた。
たしかに、ゲリラも生身の人間であり、心が通うことだってあるし、愛すべき部分も少なからずあるだろう。しかし、そのようなヒューマンな部分と、無辜の市民を巻き添えにして、非合法的に自分の願望を通そうとするということとは、まったく別の問題である。
こんな理屈が通用するならば、どのような殺人犯にも人間である以上愛すべき部分があるわけだから、政府は殺人犯に対して暴力的手段を行使できなくなってしまう。

聖書は、殺人者をこのようには見ない。神は、殺人者にあわれみをかけてはならない、と言われる。

「もし人が自分の隣人を憎み、待ち伏せして襲いかかり、彼を打って、死なせ、これらの町の一つにのがれるようなことがあれば、彼の町の長老たちは、人をやって彼をそこから引き出し、血の復讐をする者の手に渡さなければならない。彼は死ななければならない。彼をあわれんではならない。罪のない者の血を流す罪は、イスラエルから除き去りなさい。それはあなたのためになる。」(申命記19・11-13)

無辜の市民を故意に殺害する者に対する「あわれみ」は、厳禁である。

聖書における「あわれみ」は、けっして無条件ではない。真のあわれみとは、無辜の市民に対して向けられるものであって、殺人者に対して向けられるべきではない。神が処刑を命じた者を殺さず、あわれみをかけたために、サウル王は神からしりぞけられた。

我々は、神よりも知恵があると考えてはならない。殺人者をあわれむ者は、自分の首を絞める者である。神は、殺人者にあわれみをかけないことを「あなたのためになる」と言われた。

しかし、神よりも自分のほうが知恵があると考える人々は、殺人者に愛をかけることのほうが利益があると考える。

殺人者の命を大切にすることによって、社会はどうなるだろう。結果を考えて欲しい。先日、幼女を人質にして立てこもった犯人を生け捕りにするために、警察が長い時間をかけて説得交渉したが、その交渉の過程で、幼女は殺害された。人質の命よりも、人質を取る無法者の命を大切にしているからこのような悲劇が起こる。娘を殺された父親は、「こんなことなら、自分が救出に行けばよかった。」と言った。

このような間違ったあわれみを続けることによって、社会の秩序は次第に崩壊していく。市民は警察を信用しなくなる。自警団が組織され、リンチが正当化されるだろう。図に乗った無法者どもは、警察を甘く見て、同様な事件を繰り返すだろう。ペルーにテロが蔓延しているのは、歴代の政府がテロリストに甘い顔をしてきたからである。フジモリ大統領は、このような過去を反省して、テロリストに対して妥協をしないという姿勢を貫いた。

法と秩序を守るためには、暴力は欠かせない。「暴力は何も解決しない」のではなく、「暴力は神的な方法によって問題を解決する」。

人質をとって立てこもったら、容赦なく犯人を射殺すべきである。交渉によって犯人を生け捕りにしようなどと考えるから、類似した事件が絶えない。犯罪は、割に合わないという現実を犯罪者につきつけるべきである。

ペルーの人質事件当時の日本政府は、一貫して平和的解決を要求していた。橋本内閣に統治能力が欠けていたことは、この一件を見ただけで明らかである。武力突入を避けることによって、人質は解放されるだろうが、テロリストは罪を裁かれることなく、国外に脱出する。これを見た他のテロリストはどう思うだろうか。市民はどう思うだろうか。テロに悩まされている他の国々はどう見るだろうか。

突入前に政府に対して事前連絡がなかったのは、日本政府が信用されていなかったからである。現実的な危機管理ができないと判断されたからである。

最近の日本社会に蔓延する「犯罪者に対する愛」は、亡国の兆候である。
人間は、神の知恵の前に脱帽する以外にはない。聖書を軽んじる国民は、滅亡の坂道を転げ落ちている。

 

 

02/10/10

 

 

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