契約と肉体3
神が人間集団と契約を結ぶ場合に、神はその集団を「一つの肉体」として見ておられる。
だから、神が契約を結ぶ場合に、神は「1人」と結ばれる。
神はアブラハムと「家族の契約」を結ばれた。
アブラハムは、家族の代表である。同じように、既婚のクリスチャン男性は、家族の代表として神の前に出ている。
この契約において、神は、アブラハム個人を見ておられるだけではなく、アブラハムにつながる家族のメンバー全員をも見ておられる。アブラハムとその家族を「一つの肉」と見ておられる。
契約において、食事が重視されているのは、この「肉体の共有」を示すためである。
幕屋礼拝において、イスラエルの家族は、神の前において食事をした。
神の御前で、その家族は「一つの肉」だからである。
神と家族の関係が「神と一つの肉との関係」であることを食事は証言している。
ちなみに、クリスチャンは、永遠の御国において、神の宴会において食事をする。それは、「聖餐の成就」である。食事は、教会がキリストを代表とする「一つの肉」として神の前に出ていることを表現している。
キリストは、悔い改める者と共に食事をすると言われた。悔い改める者は、契約の中に復帰し、一つの肉の中に戻るからである。
「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3・19-20)
アブラハムが家の契約の代表として神の御前に出たように、キリストは教会の契約の代表として神の御前に出る。
モーセは、イスラエル民族の代表として神の前に立った。モーセとイスラエルは一体であり、一つの肉であった。モーセとイスラエルを代表する70人の長老たちは、共に神の御前で食事をした。
「そして、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。すると、彼らは言った。『主の仰せられたことはみな行ない、聞き従います。』そこで、モーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った。『見よ。これは、これらすべてのことばに関して、主があなたがたと結ばれる契約の血である。』それからモーセとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人は上って行った。そうして、彼らはイスラエルの神を仰ぎ見た。御足の下にはサファイヤを敷いたようなものがあり、透き通っていて青空のようであった。神はイスラエル人の指導者たちに手を下されなかったので、彼らは神を見、しかも飲み食いをした。」(出エジプト記24・7-11)
このように、契約とは、神と「一つの肉」との間に結ばれるものである。
信仰とは、この一つの肉を契約にふさわしい者として成立させる心である。
人間が心において主人に反逆していれば、彼を「しもべ」とは呼ばないのと同じように、信仰がなければ、その「一つの肉体」は契約にふさわしいものとならない。
それゆえ、信仰がない人が教会に入ることはふさわしくなく、信仰を失った者が、聖餐を受けることはふさわしくない。
人間の肉体の各細胞が、その肉体を維持する働きをする場合にのみ意味を持ち、それを維持しない場合は意味を失うのと同じである。
人間は、物質世界を通じて、霊的現実を表現するために創造されたのであるから、肉があっても、神の栄光を表そうとしない心がその内にあれば、その肉は創造の目的から外れているので、存在意義を失う。
神と契約関係を維持できる肉は、その内に信仰、すなわち、神のしもべとしての心を持たねばならない。神の主権を認め、神のために自分を捧げ尽くす心がない者は、「生きていても死人」なのだ。
家族の一員がクリスチャンであるならば、家族は神の前に1つの肉としてみなされ、救いの中に入る。しかし、個々の成員がその立場に反する心を持っていれば、実質的に彼または彼女はその肉体の中において異物である。
ラハブの家族について、イスラエルの斥候が、「もし家のうちに留まるならば、救われ、そこから出る者は救われない」と述べたのは、このことを示している。もし、家族の一員がクリスチャンになることを積極的に拒むならば、その人はその心において契約を離れ、「一つの肉」から離れたので救われない。
しかし、自分がクリスチャンになった場合、家族は契約の恩恵にあずかっているのだから、祈って神のみわざを求めるならば、家族のメンバーもその恩恵にふさわしい心を与えられるはずである。
契約のしるしとしてのバプテスマについては、成人については、神は強制によって人を契約に入れることを望まれるかたではないので、無理やり家族のメンバーにバプテスマを授けるべきではない。同意した者に授けるべきである。しかし、幼児については、幼児も家族の契約の中におり、一つの肉の一部であり、しかも、親に服従する立場にあるため、バプテスマを授けるべきである。バプテスマを授けなければ、「わたしの息子、娘はわたしの家族のメンバーではありません」と言っているのと同じなのだ。その親は、自分の家族を「神の御前に立つ一つの肉」として見ていない。
02/11/09