ノンクリスチャンに聖餐を授けることはできるか?

 

<質問>
パウロがコリントの教会に対して、「ふさわしくないままで食事をする」者と述べたのは、「飢えた人々に対していかなる配慮もしない、自分を義人だとした冷たい人々」のことを意味しているのでしょう。イエスは、ユダすらも食卓から排除されなかった。このような愛の交わりこそが本質ではないでしょうか。この聖餐の本質を見るときに、クリスチャンが自分を義人として、ノンクリスチャンを罪人として排除することが本当に正しいことなのか、と思うわけです。

<T>
ここにおいて、「ふさわしくない」とは、「契約の規定に違反している」という意味です。

聖餐は、契約の更新の儀式なのですから、契約の規定に違反している人々は当然排除されます。もし契約違反していても排除されないならば、契約更新の儀式としての意味を失います。

ユダをも招かれてともに食事をしたというのは、この時点で、人間の眼から見て、ユダはまだはっきりとした罪を犯していなかったからです。たしかに、主は、彼がどのような心であるかをご存知でしたが、行動としてはっきりと他のメンバーにもわかる律法違反をしていなかったのです。

契約は、その規定を外面的に守っている限りにおいて、メンバーが排除されることはないのですから、ユダが排除されなかったとしても不思議ではありません。

パウロがコリント教会において姦淫を犯していた人を除名せよ、と述べたのは、姦淫の事実が教会員全員に知られていたからです。
もしその罪が隠れており、誰も知らない場合に、教会は、彼を除名することはできません。彼の挙動不審(町で奥さん以外の女性と二人だけで歩いているのを見かけた)などを問題にすることはできません(仕事で客先にいっしょに出向いていたかもしれない・・・)。もちろん、牧師はこういった事柄について敏感でなければなりませんが、しかし、公的な制裁を加えるまでにはいきません。

契約の二つの面(1)制度的側面(2)実質的側面を混同してはなりません。
人間は、外面的な行動によってしか人を裁くことはできません。もし内面までも裁く権利があるならば、教会は非常に恐ろしい場所になってしまいます。北朝鮮やソ連のように、単に「外国人と話をしていた」というだけで収容所に送られたり、スパイとして処刑されたのは、人間の取り扱える範囲を「内面」にまで拡大したからです。このように、法律とか契約というものについて、二つの側面を混同することによって、社会から自由や活気が奪われていくのです。

神が人間に命じておられるのは、(1)について正しく処理せよ、ということです。
教会も人間の集団である以上、神のように(2)の面まで問題にはできません。
もしあるメンバーがその社会の約束事を、制度的に破った場合に、社会はこの違反を問題にしなければなりません。しかし、もしその人の短気な性格とか、疑いを起こさせるような不適切な行動・・・だけでは、処理できません。我々が裁くには、神が彼の問題を外面的な問題として、法律や規則に抵触するレベルにまで成熟するように導かれてから「のみ」なのです。

神は、心において罪を犯している人について、その心の問題が外面的な問題として結実するまで放置されることがあります。それは、その人の心の問題を処理されることを望んでおられるからです。人間は、その人を見て「この人どこかおかしいなあ。」という印象をもちますが、具体的な行動が表面化していないので、彼の罪を取り扱うことはできません。しかし、彼が悔い改めない状態を頑固に続けるならば、神はある時点で、彼が具体的な罪を犯すことを放置されます。そして、その罪が人々に知れ渡るようにされます。

この段階において、人々は、彼を取り扱うことができます。

キリストがユダを食卓に招かれたのは、彼がまだ具体的に主を裏切る前であったからです。ユダは、最後の晩餐の時点では、まだ契約のメンバーだったのです。契約のメンバーを食卓から排除することなどできません。律法は、「具体的にこれこれの罪を犯した者を民の間から断ち切れ」と命じており、具体的な罪を犯していない人を除名せよ、と述べていません。

それゆえ、この記事をもって、ノンクリスチャンに聖餐を授けてもよいと結論することは不可能です。もし、復活のキリストが、悔い改めずに自殺したユダをも救われ、パラダイスにおいて主の食卓に招かれたという記事があるならば、このような結論を出してもよいでしょうが、聖書は一貫して、ユダは滅んだと記しており、彼も主の食卓に招かれ得るという結論を導き出すことはできません。


 

 

02/09/22

 

 

 ホーム

 



ツイート